日本映画監督協会略年表
- 1936 昭和11年
- 2.26. 劇映画監督東西代表の間に協会設立の同意成立。
3.1. 東京丸の内の「東京會舘」にて発会式開催。初代会長に村田実。
- 1937 昭和12年
- 村田実会長死去。後任に溝口健二。
- 1939 昭和14年
- 4.5. 映画法公布。全日本映画人連盟に統合される。
- 1942 昭和17年
- 国家統制強化に伴い製作は大日本映画協会、配給は映画配給協会に統合され、興行は大日本興行協会に一元化され映画人連盟解散。
- 1943 昭和18年
- 監督協会解散。
- 1945 昭和20年
- 8.15. 太平洋戦争、終わる。
- 1948 昭和23年
- 11.3. 東西26名の監督が箱根「清光園」に参集し、再建準備会発足。再建準備委員長に山本嘉次郎。
- 1949 昭和24年
- 5.4. 再建総会を有楽町の毎目新聞杜で開催。会長に溝口建二。会員数64名。事務局長に伊奈精一。
9.10. 機関誌「映画監督」第1号発行(タブロイド版4頁)。
- 1950 昭和25年
- 事業協同組合に改組。それに伴い会長を理事長と改称。
- 1951 昭和26年
- 監督協会企画の国産フィルムによる初のカラー長編「カルメン故郷に帰る」(木下恵介監督)完成。
- 1954 昭和29年
- 監督協会企画「月は上りぬ」(田中絹代監督)完成。
- 1955 昭和30年
- 理事長に小津安二郎。
- 1956 昭和31年
- 映倫改組により第三者的立場となる。
- 1957 昭和32年
- 事務局長に柿田清二。
- 1958 昭和33年
- 会員負担金制度を改正し、作品納費(監督作品1本ごとの会費)をやめて均一会費のみにする。
- 1959 昭和34年
- 第一回「NGまつり」を開催。
- 1960 昭和35年
- 日本映画監督協会新人賞創設。第1回は大島渚「青春残酷物語」。
- 1961 昭和36年
- 最低監督料で映連と交渉始まる。
- 1962 昭和37年
- 日本映画監督協会プロダクションを設立。
- 1963 昭和38年
- 映連(日本映画製作者連盟)5社との間に最低監督料の協定成立。小津安二郎理事長死去。
- 1964 昭和39年
- 理事長に五所平之助。 映連5杜との間に劇場用映画のテレビ放映に関する協約成立。
- 1965 昭和40年
- 文芸美術国民健康保険組合に加盟。
- 1966 昭和41年
- 監督協会、製作者協会(プロデューサー協会の前身)、シナリオ作家協会の三団体代表が会合。「目本映画懇談会」結成を話し合う。
- 1967 昭和42年
- 会員資格を「映画監督を業とする者」に変更。 「黒い雪」裁判に抗議声明。
- 1968 昭和43年
- 鈴木清順間題(日活の一方的契約解除)。民事訴訟の支援声明。
- 1969 昭和44年
- 著作権法案(第6次)の国会提出に反対声明。反対デモ決行。衆院議長・文教委員長へ陳情。
- 1970 昭和45年
- 著作権法案の衆院可決に抗議声明。著作権を守る映画人の集い開催。第29条(映画の著作物の著作権の帰属)削除要求決議。
- 1971 昭和46年
- 「ワイプ・ナイター」の中止をNTVに申し入れる。中止決定。鈴木清順裁判和解。映連各杜と監督契約に関する基本協約成立。
- 1972 昭和47年
- 日活ロマンポルノ刑法違反事件に抗議声明。
- 1973 昭和48年
- 監督の同一性保持権尊重につき民放連・映連・独映協へ警告書。
- 1974 昭和49年
- 改正刑法草案に対する意見書(表現の自由に関して)を法務大臣に提出。
- 1975 昭和50年
- 映連各杜との間に劇場用映画のビデオ化交渉始まる。
- 1976 昭和51年
- 「テレビ映画白書」第1号<テレビ映画と監督・現状と提言>を発表。映連各杜とビデオ化に関する暫定協約。映連各杜とテレビ用映画の最低監督料を協約。
- 1977 昭和52年
- 「愛のコリーダ」事件(大島渚監督への起訴)で声明、特別弁護人に鈴木清順。
- 1978 昭和53年
- 「監督」にタイトルを統一するよう各テレビ局に要望(「演出」は舞台の演出だから)。「テレビ映画自書」第2号<テレビ映画製作のしくみと監督の立場>を発行。
- 1979 昭和54年
- 映連に「テレビ映画の二次使用に関する原則について」を提示。
- 1980 昭和55年
- 理事長に大島渚。映画スタッフの職能団体とともに、日本映像職能連合(映職連)創設に参加。
- 1981 昭和56年
- 映連と劇場用映画の最低監督料を改定。
- 1982 昭和57年
- 英名を《DIRECTORS GUILD OF JAPAN》とする。「愛のコリーダ」裁判無罪確定。第1回日本映画講座(京都府・京都学院共催)開催。
- 1983 昭和58年
- 劇場用映画の市販ビデオ複製物に関する映連との覚書に調印。「テレビ映画白書」第3号<テレビ映画製作は、いま…〉を発行。
- 1985 昭和60年
- 全目本テレビ番組制作会杜連盟(ATP)との間にテレビ映画の最低監督料を協約。
- 1986 昭和61年
- 創立50周年記念祝賀パーティ及び記念事業開催。事務局長柿田清二退職。後任に南場雄二。協会事務所を渋谷区円山町に移す。
- 1987 昭和62年
- スパイ防止法案に反対声明。
- 1988 昭和63年
- テレビ各局と映画の著作者人格権にかかわる使用(部分使用年に関し「確認書」をかわす。(NHK・JSBも同様)
- 1989 平成元年
- 映連各杜と「テレビ映画のビデオ複製物に関する覚書」締結。ATPと「テレビ映画の最低監督料」の団体協約締結。
- 1990 平成2年
- 文化庁に対し「WIPO著作権モデル規定草案」についての意見書提出。映連各杜と「劇場用映画のCATV供給に関する覚書」締結。
- 1991 平成3年
- 民放各局・NHK及び製作会杜に対し、テレビ放送時の無断改変(いわゆる「差別用語」の音声消去年間題で、監督との協議を要望する文書送付。著作権審議会第10小委員会に「私的録音・録画に関する報酬請求権制度の法的間題について」の文書に関する意見書を提出。
- 1992 平成4年
- 黒沢清脚本監督作品「スウィートホーム」のビデオ化追加報副の支払いを求め伊丹プロと東宝相手の訴訟に支援を決定。文化庁「映画の二次的利用に関する調査研究協議会」発足。委員に大島理事長、南場事務局長他参加。
- 1993 平成5年
- 監督協会、メイン・スタッフ違絡会、芸能実演家団体協議会の三者で「映画問題対策協議会(略称・映対協)」結成。にっかっ倒産により債権届け出る。ATPと「ビデオ複製物に関する覚書」を締結。
- 1994 平成6年
- 社団法人「著作権惰報センター」の正会員になる。映連各杜と「劇場用映画の通信衛星放送供給に関する覚書」締結。「マルチメディア問題に関する著作権連絡協議会(CCM)」に参加。
- 1995 平成7年
- VEVAM(オランダ)、SUISSMAGE(スイス)、VDFS(オーストリア)VGBILD-KUNST(ドイツ)と協定締結。東京地裁、黒沢清に請求棄却の判決。直ちに控訴。支援継続。
- 1996 平成8年
- 創立60周年記念フェスティバル開催。細野辰興監督作晶「シャブ極道」の題名改変問題を契機に映倫・ビデ倫批判の声明を発表。理事長に深作欣二。DFA(デンマーク)と協定締結。
- 1997 平成9年
- アメリカ芸術家権利擁護財団主催「芸術家の権利に関するシンポジウム」に参加。黒沢清「スウィートホーム」裁判控訴審で、深作理事長証言。文化庁「映像分野の著作権等に係る諸問題に関する懇談会」発足。
- 1998 平成10年
- 映画「南京1937」上映妨害に関する声明を発表。黒沢清「スウィートホーム」裁判控訴棄却で上告。第1回「小津安二郎記念・蓼科高原映画祭」企画協力と後援。
- 1999 平成11年
- 音楽議員連盟「著作権法に係わる小委員会」で著作権法29条削除他を要望(国会ロビー活動年。京都市に対し「ロケ規制緩和」で要望書提出。黒沢清「スウィートホーム」裁判上告棄却で東京高裁判決確定。
- 2000 平成12年
- 映連各杜と「テレビ放送(配給)に関する覚書」金額改定。事務所を渋谷区円山町ラフォンテーヌビルから渋谷後藤ビルに移転。
- 2001 平成13年
- 青少年社会環境対策基本法(素案)に対する見解と反対声明を発表。個人情報保護法案に反対する声明を発表。全国フィルムコミッション連絡協議会の設立に協力・参加。
- 2002 平成14年
- 「文化芸術振興基本法」成立、同法推進フォーラム(舞台・音楽・映画の民間団体連合年に参加。
- 2003 平成15年
- 深作欣二理事長、急逝。新理事長に、山田洋次。
- 2004 平成16年
- 役員改選 新理事長に 崔洋一。
- 2006 平成18年
- 創立70周年記念映画「映画監督って何だ!」(脚本・監督:伊藤俊也年一般公開(11月4日~)
- 2007 平成19年
- 「放送法等の一部を改正する法律案」に反対する表現者の緊急アピールに参加。東京法律事務所永盛敦郎弁護士と法律顧問契約。
- 2008 平成20年
- 映画「靖国 YASUKUNI」に関する声明を発表。