ぼくにとって"映画"とは? 恩地 日出夫

こんどの映画祭で、ぼくは、できれば日本の若い才能を発見して応援したいと思って、コンペ以外の小さな作品も追いかけてみたのだが、残念なことに期待したような出会いはなかった。
「映画は、その国の社会を写す鏡である」とすると、例えば、アメリカ映画がベトナム戦争の時代に、傑作をいくつも生み出したようには、日本の社会環境は、良い映画が生み出される状態には、おかれていないのだろうか?
こんなことを考えながら見た映画の主人公たちは、ほとんどが貧しい人たちだった。ロシヤの"母"は貧困の中で9人の子供を産み、育てあげた素晴らしく魅力的な女性が描かれていたし、インドの"ビラル"では、狭い部屋で盲目の両親と弟の4人で暮らしている3才の子供のやんちゃで元気いっぱいの生きざまが描かれていた。
そして、ブラジルのスラムの少年たち、スイスの難民収容所の人々、韓国の売春婦、ウクライナ、パレスチナ、ペルー、レバノン・・・・。みんな、みんな、貧しい中で、心豊かに、助け合って生きていた。
そして、最終日の前日、5人の審査員、根岸吉太郎、ジャン・ユンカーマン、山崎博子、金子修介、とぼくが候補作として選んだ作品は7本だった。
その夜、会場での上映が終了している作品をブースやホテルの部屋で、なるべく全員が見るようにして、さて、大激論?と思ったら、以外にも、スンナリと全員一致で決まってしまった。
"馬先生の診療所" 叢峰(ツォンフォン)監督・中国
この作品は、甘粛省の山の村にある東洋医学の診療所の待合室にキャメラを据えて、不作つづきで出稼ぎに頼って生きる村人たちの世間話に耳をすまし、その表情に目をこらす、3時間35分--。限られた空間の描写を通して、上海や北京など経済発展にわく都会を含めた中国の全体像に迫っていた。
さて、この映画祭は89年に、山形市制100周年記念事業としてはじまったのだが、当時、三里塚から山形に移り住んで映画を撮っていた小川紳介監督の存在を忘れるわけにはいかないだろう。そして、20年--いまや世界のドキュメンタリー映画にとって大切な位置をしめるようになっていることを、こんど改めて実感した。
ここまで育てあげた山形の人たちに敬意を表したいと思う。
その会場で、しばしば耳にした「フェイク」という言葉について書いておきたい。
「fake・模造する(報道などを)でっち上げる」から転じて、「事実」に対して「虚構」といった意味で使われていたようだが、何故か異和感があった。
ぼくは、60年代の10年間劇映画だけを東宝でつくっていて、70年の大阪万博で岩波映画のスタッフとはじめてドキュメンタリーに挑戦して「目からウロコ」の体験をした。以来、40年、フィクションとノンフィクションの谷間で仕事をして来た。そして、映画が作家によってつくられた作品である以上、それは、意図的に構成さたものであり、ドキュメンタリーとか、ドラマとか区別する必要はないと考えている。だから、ドキュメンタリーの作品に事実でないものが入りこんでも一向にかまわないと思っているのだが・・・・。
こんどの選考で「馬先生~」と共に最後まで候補作として残ったロシヤの『母』のラストシーンは、ドキュメンタリーとフィクションの境界を超える表現として、ぼくは感動した。
しかし、あまりにも安易に「フェイク」を使っている作品には、正直、腹が立った。
作家は何をどうつくってもいいが、「自己に対していかにストイックでいられるか?」が常に観客によって検証されていることを忘れてはならないと思う。
こんな印象は、5人の審査員にどこかで共通していて、最初7本に割れていた意見が、すんなり全員一致で、ドキュメンタリーの初心に立ち返ったような"馬先生の診療所"に決まったのかもしれないと思っている。
かなりしんどい1週間だったけれども、個人的には、とても貴重な体験をさせてもらった。それを肥やしに、もう1本挑戦するとすれば、それはトルーマン・カポーティの『冷血』までもどって、そこを原点として、ぼくにとって映画とは何か?を改めて考えなおすところから始めなければならないと考えている。
(「日本映画監督協会会報 2009.11. No.634号)より転載)