シンポジウムレポート第2弾
"コピーライト"から疑え!
映画『RiP! リミックス宣言』批判
山形国際ドキュメンタリー映画祭の「著作権シンポジウム」に参加して著作権委員長 梶間 俊一

すでに報告されているように、今年から、山形国際ドキュメンタリー映画祭に「日本映画監督協会賞」が創設された。それを記念して、10月12日、『映画監督って何だ!』の英語字幕版『CUT!』が上映され、監督協会主催による著作権についてのシンポジウムが開かれた。
パネリストは、"コピーレフト"(後に詳述)の立場で、著作権から知的財産権までを扱った映画『RiP! リミックス宣言』(映画祭上映作品・カナダ製作)のブレット・ゲイラー監督、『映画監督って何だ!』出演者から成田裕介監督、著作権委員会から私、司会は国際委員会副委員長のジャン・ユンカーマン監督だった。テーマはずばり「著作権とは、オリジナリティとは何か」である。
私は、のっけから、『RiP! リミックス宣言』に描かれている他人の作品(楽曲)を勝手にリミックス〔注釈1〕し、アレンジし、マッシュアップ〔注釈2〕するゲイラー監督の"著作権"や"オリジナリティについての考え方"には、当然のこととして賛成できないと云った。しかし、「今日の文化や芸術が前世代の作品(著作物)の影響を受けて成り立っている」と云う自明の事実を描いた部分には、反対しないとも云い添えた。
ゲイラー監督は、「20世紀と21世紀では、クリエイターと観客の関係が一変している。権利の保護を急ぐ余り、文化の発展を削いでいることを考えて欲しい」と反論した。
会場には、『CUT!』の上映会の観客(200名を越える)が、170名以上も残ってシンポジウムに参加し、後半、会場の協会員とゲイラー監督の激しいやりとりがあり、かなりの盛況なシンポジウムだったと云える。
先月の会報には、私の発言態度をカリカチュアする成田パネラーの報告はあったが、映画『RiP! リミックス宣言』については、結局何も語られていない。成田レポートが捨象した部分について書く。
『RiP! リミックス宣言』は、映画祭のコンペ出品作品でもあり、本会場での上映会には多くの観客が集まり、話題作のひとつだった。ここで私たちは、この作品でブレット・ゲイラー監督が主張する"著作権についての考え方"を更に検証し、彼が攻撃の対象とするアメリカの"コピーライト(著作権)制度"について、改めて考えて見ることも意味があるように思われる。
映画はまず、既製の楽曲を独自に切り貼りしてつなぎ、リミックスやマッシュアップの手法で新しい曲を作るアマチュアアーチスト(昼は医学研究者)〈ガール・トーク〉の活動を紹介する。そして、彼の新曲に乗って踊る若者たちの映像に、ついに「消費者が未来文化の担い手に変身した」と高らかにナレーションを被せる。つまり、シンポジウムで語ったように「21世紀ではクリエイターと観客の関係が一変した」と云うわけである。
しかし、果たしてそうであろうか。ブレット・ゲイラーは、自らを"コピーライト(排他的権利を持つ著作権)"派に対して、前述した"コピーレフト(著作権を共有して利用し、改変して出来た二次的著作物の再利用も制限しない)"派と規定している。『RiP! リミックス宣言』の作品中にも、Cの文字が逆になっているコピーレフトのシンボルマークがしばしば登場する。
彼は、コピーレフトの立場から、他人の作品を勝手に切り貼りしてマッシュアップの手法で作った曲に、新しいオリジナリティが生まれると云う。しかし、原曲の創作者の尊厳やオリジナリティに対する敬意は全く持ち合わせていない。
そこには、"著作者人格権(MORALRIGHT)"に対する考え方は全く存在しない。氏名表示権も同一性保持権もないのである。切り貼り細工で作られた新曲にオリジナリティがあると云われても、「21世紀ではクリエイターと観客の関係が一変した」と云われても、私たちは、原曲の創作者の持つ尊厳や矜持を容易く踏みにじるこうした遣り方、考え方を絶対に許してはいけないと思う。当然、原曲の作曲家の抗議もあるが、「文化は過去の上に築かれるもの」と揶揄され切り捨てられる。
では、何故このような考え方が存在するのだろうか。北米大陸、特にアメリカでは「一般的な権利制限規定」・"フェアユース(公正使用)"が認められていることもあるが、むしろそれは、コピーライト(COPYRIGHT)、つまり、〈複製する権利〉を即〈著作権(COPYRIGHT)〉と規定したことから始まっているように私には思われる。
この規定からは、財産(利益)を生む〈複製する権利〉のみが信奉されて、その著作物の創作者=著作者(AUTHOR)の尊厳やオリジナリティを尊重する〈オーサーズライト(AUTHOR'SRIGHT)=著作者の権利〉の考え方は、全く排除されている。
云うまでもなく、〈著作権〉とは、一つの大きな権利があるわけではなく、いくつかの権利(支分権)が集まって成り立っている。〔複製権〕は、著作権の基本的な権利ではあるが、支分権の一つに過ぎない。他には、〔放送権〕、〔上映、頒布権〕、〔翻訳、翻案権〕等の支分権がある。
15世紀にグーテンベルクが印刷機を発明する前にも小説や戯曲、絵画の著作者は存在した。当然、人々は優れた著作者への畏敬の念も持っていた。
つまり、大量複製機(印刷機)が出現する以前から、〈自然人の著作者の権利(AUTHOR'SRIGHT)〉は厳然と存在しており、やっとそれが、1886年(明治19年)、ベルヌ条約によって〈オーサーズライト(AUTHOR'SRIGHT)〉として国際法的に認められたのである。
したがって、〈著作権〉とは、本来の意味において、〈複製する権利=コピーライト(COPYRIGHT)〉ではなく、ヨーロッパにみられる〈自然人の著作者の権利=オーサーズライト(AUTHOR'SRIGHT)〉とすべきであると私は思う。そこから"著作者人格権(MORALRIGHT)"の考え方も必然的に生まれて来るのである。
日本も著作権を〈コピーライト(COPYRIGHT)〉と呼び、映画の著作権はアメリカと同様に、結局、映画の製作会社に帰属してしまう。しかし、私たちには〈著作者人格権〉が存在する。何故か。日本は、1899年(明治32年)にベルヌ条約に加盟し、100年以上前からヨーロッパの著作権の考え方を受け入れて来た。一方、アメリカは、ベルヌ条約に加盟したのが何と日本に遅れること89年後、1988年であった。
それまでは、アメリカの著作権は、〈著作者人格権〉を云々する以前に、

マークを付けて、一定の方式に乗って申請し登録しなければ認められなかった。現在では、ベルヌ条約方式で、日本と同様に著作物を公表した時点で効力を持つようになった。こうした歴史的経緯が、現在の日米での著作権の考え方の相違となって現れている。
では、アメリカの映画監督の現状はどうなっているか。アメリカの映画・テレビ産業では、「視聴覚芸術家=実演家、監督、脚本家は、従業員の場合であっても、独立契約者の場合であっても、"その職務の範囲内で作成する"著作物、映画に関しては、"職務著作"となり、著作者人格権・実演家人格権はなく、自然人である創作者ではないその使用者が、著作権法の著作者として扱われるのである」(「アメリカにおける視聴覚芸術家の権利に関する最近の問題」JAYD.ROTH「著作権情報センター報告書」)
かくして、視聴覚芸術家は各所属団体のギルド(ユニオン)を通して、報酬、年金、労働条件等をプロデューサーと交渉し、ハリウッドの映画産業は、人格権の存在しない法人を自ら著作者として、プロデューサーが著作権の全ての権利をコントロールして、配給収入を上げるべく邁進する。
"市場の自由"を第一義とするハリウッドの映画産業にとっては、〈複製する権利=コピーライト(COPYRIGHT)〉を〈著作権(COPYRIGHT)〉とする方が、〈自然人の著作者の権利=オーサーズライト(AUTHOR'SRIGHT)〉を〈著作権(AUTHOR'SRIGHT)として、ヨーロッパ風の厄介な〈著作者人格権(MORALRIGHT)〉の考え方などが入って来るよりは、商取引上、都合がいいのである。
そして、益々ハリウッドの力は強固になって行く。1998年、アメリカの著作権法は、ディズニーの著作権の保護期間が終了する前に、それまで、作品の公表後75年だった保護期間が95年に(個人名義の保護期間は死後50年が70年に)変更された。ミッキーマウスの初期作品は二度目の延長となる。アメリカの著作権法が"ミッキーマウス法"と呼ばれる所以である。
話を『RiP! リミックス宣言』に戻す。ブレット・ゲイラー監督は、当然、パブリック・ドメイン(共有財産)になるべき著作物の排他的権利を長期にわたって保持するディズニーに対しても、果敢に攻撃する。1928年のミッキーマウスが初めて登場する映画『蒸気船ウィリー』は、映画『キートンの蒸気船』をそっくりまねたパロディだと云い、二つの作品の同じシーンを提示して、むしろウォルト・ディズニーは、徹底的に『キートンの蒸気船』をまねるように指示したと告発する。もちろん、パブリックドメインになるべき著作物を法人著作者が恣意的に延長することには、私たちも反対である。
映画の後半、ブレット・ゲイラーの舌鋒は更に激しくなる。HIVの安価な治療薬を造るために、国際特許を無視するブラジル政府の政策に賛成し、発展途上国の"知的財産権の侵害"を積極的に支持する。それは、著作権問題を越えて、街に氾濫するナイキの街頭広告を批判し、正に文化そのものの攻撃へ、カルチャージャミング(文化破壊)へと突き進む。
また、ブレット・ゲイラーは、「ロシアと中国と共に我が国カナダも、世界最悪の著作権侵害国」と非難されていると云い、シュワルツネッガー・カリフォルニア州知事がカナダ首相に抗議する姿を映し出す。しかし彼は、すぐ、それは「文化活動の規制だ」と反撃することを忘れない。
ここで私たちは、この映画には、カナダ国立映画庁が製作者に名を連ね、「製作資金を出している」(ゲイラー自身の証言)ことに留意する必要がある。ブレッド・ゲイラーの激しい反ハリウッドの著作権についての考え方は、カナダ政府の主張を反映していると云っても、決して穿った見方ではないと私には思われる。
「今日の文化や芸術が前世代の作品(著作物)の影響を受けて成り立っている」と云うのは、自明の事実であると先に述べた。
だが、しかし、明かな盗作はもちろん、無許可で勝手に他人の作品(著作権の存在する著作物)の一部でも使用することを私たちは認めない。
ここに、同じ作品(著作物)の創作者として、他の作品(著作物)の創作者の尊厳に敬意を持たないブレット・ゲイラーと私たちの大きな違いが存在する。彼は、〈自然人の著作者の権利=オーサーズライト(AUTHOR'SRIGHT)〉の考え方から生まれて来る〈著作者人格権(MORALRIGHT)〉を踏みにじる"確信犯的盗作者"であると私は思う。同じように、彼の攻撃するディズニーの側も、いみじくもゲイラー自身が指摘したように、"バスター・キートン作品の盗作者"だった。
こうして見てくると、"盗作者を批判する者"もまた、"盗作者であった"と云うパラドックスは、〈著作者人格権(MORALRIGHT)〉を全く認めない両者に、起こるべくして起きているのが解ってくる。
ともあれ、日本の映画監督の現状はどうか。日本の映画の〈著作権〉は、アメリカの"職務著作"と同じように法人の製作者が持っている。〈著作者人格権〉についても物故者には存在しないと云うNHK(ライツ・アーカイブスセンター)のような誤った解釈が現れたり、ネット上の流通を促進するために、同一性保持権の「やむを得ない改変」を拡大解釈したりする動きが活発化して来ている。
ここに至って、私たちは、原点から疑えの顰みにならうなら、ヨーロッパの"自然人の著作者の権利"=〈オーサーズライト(AUTHOR'SRIGHT)〉を尊重する立場に立って、〈コピーライト(COPYRIGHT)〉="複製する権利"を即〈著作権〉と規定することから、疑ってみる必要があると私は思う。それが映画『RiP! リミックス宣言』への原初的批判となる。
〔注釈1〕リミックス=既存の楽曲の音素材を再構成したり様々な加工(新しい音を足したりアレンジを変えた演奏を追加)を加えることによって、その曲の新たなバージョンを製作すること。
〔注釈2〕マッシュアップ=2つ以上の曲から片方はボーカルトラック、もう片方はオケトラックを取り出してそれらをもともとあった曲のようにミックスし重ねて一つにした音楽の手法である。バスタードポップ(bastard pop)とも言う。


(「日本映画監督協会会報 2009.11. No.634号)より転載)