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わが映画人生

わが映画人生 今村昌平監督 後編

『わが映画人生 今村昌平監督 後編』

 

1999年12月15日インタビュー

 

文化事業委員会

担当 佐藤静夫

     中村幻児

構成 工藤雅典

 

インタビュアー

   武重邦夫  

   紅谷愃一

 

【一部抜粋】

 

武重:「『赤い殺意』(1964年)の後、監督は日活を離れますよね。独立プロを立てると。まあ『豚と軍艦』(1961年)、『にっぽん昆虫記』(1963年)、『赤い殺意』と、日活の看板監督になってきますよね。まあ、スター監督であると、言ってみれば。そんな人が、一番いい時に日活を辞めるというのは、かなりのことじゃないかと思うんですが」

 

今村:「『昆虫記』も『赤い殺意』もね、全く自由じゃなかったですね。組合の運動も盛んだったしね、どうしても時間制限とか色んなことがあって、もうちょっと回そうじゃないかって時にね、今やった方がいいんじゃないかと思う時にね、そこがどうしても切られちゃうとかってことが大ありでね。『昆虫記』も『赤い殺意』もね、あくまで"女"が主役ですからね、その"女"的なものを真正面から力強く捉えたいと思っているんですけども、どうも日活の首脳部はね女が主人公だってことが気に入らないみたいなんだね。そのあたりで、石原裕次郎さんが出て来ます。これが"男"だからね。男らしい、日活本来の姿を顕現していると思うらしいんだね。そこへいくと、左幸子や、ましては春川ますみなんかは、映画の主人公にしてはならないと言うか(笑)」

 

今村監督.jpgのサムネール画像 

 

武重:「でも、独立プロに踏み切ると言うことは、かなり好きなことも出来そうだけれど、これは自分でやらにゃいかんということになりますよね。そういう場を捨てちゃったということは大変なことだと思いますが、その引き金は『神々の深き欲望』(1968年)ですか?」

 

今村:「そうですね。『神々~』は一つの集大成だと思ってましたから。これは、日本の神話みたいなものだね。これを取り上げるということはだね、女が主人公ではないけれど、はたして客を呼べるのかということでね。その時に堀久作(※当時の日活社長)という人が正面に出て来てね、"今村...君と言ったかなあ?"って言ってね。俺のことをよく知らないんだよ。"これは客を呼べるのかい?"って言われたことがある。それで、"呼べます"って軽く返事をしたわけですね。"こんな、ジジイにはいい加減なこと言っとけばいいんだ"というのがあったし、それを読まれたんでしょうね、きっと(笑)。毎日、床屋に行ってるって変なオジジでね。なんか、話のしやすい感じの人だったけどね。

 

武重:「監督が日活を辞められた時は、その前に松竹でヌーベルバーグが起きて、大島さんたちがもめて出て"創造社"を作った頃ですかね。そんな時期だと思うんだけど。まあ、今村プロが独立した時に、結果的にはスポンサーも何もいなかったわけですよね。かなりの無手勝流で、日活やあるいは他の会社と企画でやっていけば実現できていくだろうという、経営的な当たりはあったんですか?」

 

今村:「ないことはなかったです。でも、誰かが支えてくれるということではなかったけどね。自分の才覚の中でやっていけると。とんでもない間違いだったけどね(笑)」

 

武重:「この時は、一つは裕次郎さんが独立したり三船敏郎さんが独立したりしたのと殆ど同時期だったんでね、その人たちに、日活とかそういうメディアにこの先がないという感じをもたれたということかと思ったんですが」

 

今村:「そうではないですね。裕次郎に関してはわが世の春だったでしょう。なにも、文句はなかった。僕らも一つの社会的時流だと思ってましたしね。裕次郎自体は僕は好きでしたけどね、人間としては。大変抱擁力のある面白い男だと思ってました」

 

中略

 

武重:「昭和42年の暮れ、『神々~』に入るわけですが、本来は7月に行く予定が9月になってしまって、我々が行った時はまだ岩(※劇中の重要な美術セット)も出来てなかったじゃないですか。それを踏み切るってのはね、例えば、僕ならば来年まで待って出来てからと普通は考えるんだけど、監督はあそこに行ってそのまま押さないと、この作品は成立しないという風に考えたんですか?」

 

今村:「暑くなきゃね、ロクなもんじゃないって思ったですよね」

 

武重:「でも、やがて冬になるじゃないですか、あんな9月や10月に行ったら」

 

今村:「だから、半年待てばいいと」

 

武重:「あっちで待てばいいと思ったんですか。うーん」

 

今村:「それでね、あの、役者がそれぞれね、文学座があるとか何とか色んなことがあってね、バラバラになっていったんですよ」

  

武重:「役者のスケジュールも11月頃になると、はまってきちゃったんですか」

 

今村:「加藤嘉さんなんかは文学座の芝居があると言うんでね、まあ言い訳だよね。そしたら殿山泰司が突然立ち上がってね、"みんなの言うことは良く分かった"と、まあ、たいして何にも言ってないんだけどね(笑)、泰ちゃんの威力でね"今村昌平を好きか嫌いか?"みたいなことを言い出したんだよね。そして、三国連太郎とか何だとかみんな、嫌いだとも言えないもんだから"いー"とか言ってゴマかしてるわけだ。"好きなら来年まで待ってやろうじゃないか"と」

 

武重:「殿山さんが言い出したんですか?」

 

今村:「そう。泰ちゃんのお陰なんですよ、あれは、何とか間に合ったのはね」

 

中略

 

武重:「(翌年)7月に、いよいよ我々は第二回目に行きますよね。キャストも嵐寛寿郎に変わって、撮影が始まって。これも話せば苦難の山々の撮影が泥のように始まるんですけども、やはりあの時に一番大きかった問題は、内容ではないんですが、10月頃でしたか遂にお金が尽きて、下の方の役者たちが帰ると言い出して、みんなバラバラ帰ろうとしたことがあったですね。監督はご存じだったと思うんですけど、僕は助監督だったので、それを止めに行ったことがあるんですよ。"お前ら行くのか。薄情じゃないか"と。あの時は本当にお金が無かったんですか?」

  

今村:「芯から無かったですね(笑)」

 

武重:「そう言う時の監督って辛いでしょうね」

  

今村「そりゃ辛いよ」

 

中略

紅谷&武重.jpgのサムネール画像 

                          インタビュアーの紅谷愃一録音技師と武重邦夫監督

 

紅谷:「『神々~』では、村人たちとの問題もありましたよね。これを説得しなければいけないという。普通の撮影よりも困難がいくつも重なったわけですよ」

 

武重:「八重山新聞が、差別してるとか言い出して」

 

今村:「三国連太郎がつまらないことを新聞社にしゃべったんだよね。それは、とにかく酷い所だということを唯一激しく言ったんですね。メシもろくに喰えないし、ろくなもんじゃないと、ろくな場所じゃないと。これがね、島民をいたく傷つけたんでしょうね。端役の殿山泰司なんかに一喝されてね"好きなのか嫌いなのか"と迫られて、今年もまた来てしまったという思いがあったのかなあ」

 

武重:「まあ、あの大変な作品で、監督がおっしゃるように集大成でしたよね。これで一つ、あれが終わった瞬間に、自分の目指してきたものが全部終わってしまったという、そういうような感じはあったんですか?」

  

今村:「飛行機で八重山から那覇に向かって行く時ね、大体アップしたなって時ね、君たちを置いていったよな。しかも、嫌な嫌な島民たちとの闘いとか、阿呆らしいようなそういう駆け引きとか。えー、この小さな島が一体俺に何を与えたのかとか、飛行機の上から考えた。それでもね、その飛行機の上から考えて、しかしそこで、多良間かな、多良間列島があって、その多良間をクラゲ島に見立てて、そこで急降下してね、島をはっきり見せたいというような野望もあったものですから、だからそのセンチメンタルに沈むというような暗さはあまりないんですね。私の中で多良間を撮らなきゃいけないと。で、操縦室へ行って指示しなきゃいけないというようなね。そういうことばかり主として考えていたものですから。しかし前向きにっていうのは、もう金も無いし何にも無いんだけど、しょうがないから編集で何とか誤魔化すというようなことも考えながら。赤い帆がね、多良間の島ををスーッと離れていくという画がね、どうしても欲しいということをね、そればかり考えてました」

 

中略

 

武重:「『神々~』を撮った後に、ボーンと時間が開いて、昭和52年ですか、9年か10年開いて『復讐するは我にあり』(1979年)が入ってきますね。『復讐するは我にあり』というのは非常に力感のある面白い映画だと思うんですけど、原作はドキュメンタリーであったということがありますよね。ああいうものは、私の経験でも、シナリオに構築していこうと思うと、佐木隆三(※原作者)は周りから書いてる、つまり証言から書いているということがあるんで、コアになる人物を作っていく時に僕も苦労したことがあるんですが、『復讐~』の場合その辺はどうだったんでしょうか?」

 

今村:「それは、再調査したんです。佐木隆三そっちのけにしてね。大体(原作の)順を追ってですけどね。ある日は九州へ飛んでね、別府界隈を探索して歩くとかね、佐木のやった調査をね、僕の目で、あらかじめ書いてあるんだからベッタリくっ付いていきながらね。しかし、僕の目でまったく違って見えるというようなこともあって、それをシナリオ化していったということになりますね」

  

中略

 

武重:「あの映画の中で、主人公をどう描くかということが創作部分になってきますね、ノンフィクションにしろ、事件は。その中で、人物をあげていく中で、緒方拳の芝居は良かったですね。これは、つまり脚本上にあるだけじゃなくて、役者の持っている素質とか、まあ何て言いますか、人生の澱みたいなものが、加わってきたということも成功の原因でしょうか?」

 

今村:「それはそうだね。役者ってものはいつも新しくなきゃいけないし、ずっと役者って稼業を引きずっているわけですね。時に応じて、新しい目を観客に開くようにね、そういうものでなけりゃいけない。だから、常に新しくならなきゃけないということは、彼に課せられた使命なんですね。で、意外性もありたいと。非常に贅沢を言うんですよね、こっちは(笑)」

 

武重:「僕は今村さんの映画をずっと見てきて、『復讐~』は一番役者が上手かったんじゃないかと思うんですが。小川真由美さんがそうだったですし、倍賞美津子さん、それから清川虹子さんは異様だったけれども何かバカリアリティがあったって言うか、シュールな意味でのリアリティかもしれないですけど。そういうものを凄く感じて。今村映画の中では役者が非常に上手い組み合わせで、精彩を放ったという感じがしたんですけども」

 

今村:「これはね『神々の深き欲望』でもって、役者というのは何て酷いものだと思ってしまったですね。一つも面白くもないと、それに付加してね、自分の頭をそっちに向け過ぎたんですね。キャスティングするってことはね、色んなことがその中にはあって、力関係とかねそんなこともあって。で、緒形(拳)と三国(連太郎)と配置されてやってるうちにですね、これはバカにしたもんじゃないと、幸いにして思えたんです。緒形も中々よかったし、倍賞もよかったし、ミヤコ蝶々もよかったし。そういうことを目の当たりにしてみますとね、色んなシーンの中で芝居を作っていくということにですね、何か自信が持てるって言うかね。監督に自信が有るかどうかというのが殆ど"とどめ"になるポイントですね。それがね、割と上手くいってきたなと思った途端に、元気が出てね。その前に金が無くてね『神々』で酷い目にあったという、村人のちくしょうめとか思ってるもんだからね、ここで中々面白いという目にあったことが救いでしたね。ベッドシーンなんかの時にね、面白いなと思って僕はこう見るわけですよね。もっと面白くしろなんて心で思いながらね。ええ、(役者は)一生懸命やるわけですよね。そうするとね、監督は冷たい顔をして俺たちの芝居を面白がって見てるって緒形なんか言うんだよね。それは、ちょうどいいと僕なんかは思ってね、それに乗っかっちまえと思って。役者さんたちにも元気をつけるし、僕も元気になったですね。そういう成果があの映画だと思います」

 

武重:「いい役者どうしというと変ですけども、役者どうしのチームプレーも上手く噛み合ったと言うことなんですかねえ?」

 

今村:「そうだね。役者ってのは殆ど自分が立てばいいんで、他の奴はどうでもいいんだよ。なるべくなら立たないのが望ましいんだよね。だけども、三国連太郎がね、"今村昌平とは喧嘩したことがある"って言ってるくらいだから、中々言うことを聞かないみたいなことなのかなと思ってたら、そうではないんだね。それはやっぱり役者魂があるんですね。で、あの、緒形と対決するところがある。刑務所でね、唾ひっかけるところがあるんですね。それはね、僕が演出してないところなんです。そんなに細かく言ってなかった。ところが、彼の独自の発想で唾を溜めておいてぴゅっと吹っかけるのね」

 

武重:「役者がある部分、自分のオリジナルも含めて、色々出してきたと。そういうところが成功していますね」

 

中略

 

武重:「『楢山節考』(1983年)は、事務所を開いた時から監督はナマでやってみたいと、リアルにと。これはお若い時から、木下監督が作られた時から、そう思われていたんですか?」

 

今村:「そうだね。木下さんの写真(木下恵介『楢山節考』1958年)を見てね、ああ俺、活路が開けたと思ったぐらいですよ。これをやると俺は上手くいけると。それは僕が割とロケーションが好きだったってこともあるけど。この話は嘘でございますという具合に語られててますね、木下さんの作品は。だけど、北方の民族から、南方の民族まで色々と調べてみるとだね、嘘じゃないんだね。老人はみんな叩き殺しちゃうんだね」

 

武重:「この映画は幸運にしてというか、カンヌにつながっていくわけですよね。まあ、監督もカンヌに行かなかったし、我々も不思議な映画も見るんだなくらいに受け止められるだろうと、スタッフもみんな思ってましたね。それで、受賞するわけですよね。多分そこから、フランスとのつながりが始まると思うんですけど、『楢山節考』はカンヌに出しても理解されないだろうと思ってましたか?」

  

今村:「テンからそう思ってました。無理だろうと思った。あれを見てね、しっかり鑑賞せよという方が無理なんじゃないかと思った」

 

武重:「その後、『うなぎ』とか『黒い雨』とか色々行かれますけど、今から振り返るとあの時、フランス人には理解できたと思われますか?」

 

今村:「相変わらず思わないね。あんまり」

  

中略

 

武重:「学校(日本映画学校)を始めて25年たちますが、やってみて、やっぱりよかったですか?」

 

今村:「よかったよ。それこそ、いくらかアカデミックな考え方も育ってきているようだし、思わざる面白いものも出来てくるようだし、そう思うと、むしろ私は幸せだなと思う時がある」

 

武重:「今、スタッフもかなり卒業生ですからね。卒業生と仕事をやるっていうのは楽しいですか?」

 

今村:「楽しいよ。でもね、一日撮影が終わると、みんなで座り込んで、どうしてこう撮るのかというようなことを言わなきゃならない。面倒くさいけどね(笑)。そんなこと一々聞くなって言いたいけども。でも、しかたないことでしょうね」

 

武重:「映画を目指している者へのメッセージというか、どんなことを伝えてやりたいですか?」

 

今村:「いつもね、卒業式の時だったと思うけども、若い人たちに言うのは、君たちはカメラの助手になったり、助監督になったり色んな風に育っていって、色んな風な仕事に着くだろうと、その仕事に着くごとに必ず監督なり主演の俳優なりにですね、一番おっかない人の所に行って小さい声でいいから、"こんなことでいいんですかね"って言いなさいって言うんだよね。それが、どう実践されているか分からないけどもね。そういう心がけがどうしても必要だと思いますね」

 

武重:「勇気を持って、ちゃんと言うスタッフになってもらいたいと」

 

今村:「そうだね」

色紙.jpgのサムネール画像