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特集

日本映画監督協会 会員名鑑

わが映画人生

わが映画人生 佐々木康監督編


『わが映画人生 佐々木康監督編』 1989年東映京都撮影所にて

                  インタビュアー 深作欣二

                          高峰三枝子

                     製作担当 深作欣二

 

 

写真1・佐々木/佐々木アップ.jpg             

 

                                     佐々木康監督

 

佐々木康監督  1908年1月25日 秋田県生れ

 

     監督作品

 

       『真白き富士の嶺』

 

       『純情二重奏』

 

       『愛機南へ飛ぶ』

 

       『はたちの青春』

 

       『懐かしのブルース』

 

       『女間者秘聞・赤穂浪士』

 

       『旗本退屈男』シリーズなど168本

 

 

深作「日本映画監督協会の企画といたしまして、我々の先輩に当る色々な監督さん方に昔の色々なお話、それから我々へのメッセージなどをお願いしたいというようなことで、今日は佐々木康(やすし)監督においでいただきました。そして、佐々木さんと非常にゆかりの深い仕事を重ねてこられた高峰三枝子さんにも、遠いところをわざわざおいでいただきました。よろしくどうぞお願いします」

 

写真2・佐々木/3ショット.jpg 

             左より、深作欣二監督、佐々木康監督、高峰三枝子

 

佐々木「こちらこそ」

 

深作「えー、それで、順序といたしまして、映画監督を志した動機、あるいはまた映画界に入られました事情をお話いただきたいんですが」

 

佐々木「中学校5年の時に蓄のう症を患って大手術をしたんです。それが、2学期の中頃で、成績があまり良くないものだから、3学期に試験を受けなきゃ落第になったんです。それで、全部治さないで3学期の試験を受けたわけですね。卒業、何とかできて、尻から何番目か分からないけど。それで、卒業と同時に仙台の大学病院に入院して、そして、また今度は外来で通ったんです。看護婦との付き合いもあったものだから、診察券を出すと、前の方に入れてもらって。まあ、早く診察が終わるわけですわね。結局、お昼前に全部終わっちゃうもんだから、昼からは暇なわけです。それで、当時、仙台に封切り館が5館か6館くらいあったんですけど、ほとんどそこに行ってるわけです。記憶に残ってるのが『バグダッドの盗賊』(1924年)というやつで、フェアバンクスの」

 

深作「ああ、ダグラス・フェアバンクスの」

 

佐々木「あれは、上山草人も出ておって。彼は仙台出なんですね。それで、凄く宣伝をしたんで記憶に残ってます。そんなことで、映画が好きになったっていうか。あの当時は活動写真ですけど」

 

【中略】

 

佐々木「兄貴が二人とも早稲田出なんですよ。それで、早稲田に行って予備校に入ったけれど、これが全然面白くない。夕方になると割り引き(の映画)を見に行くの、浅草まで。市電では半日かかるんですよ。半額は一本だけど、雨の日は2本見られるんです。あの頃は、映画が50銭くらいじゃないかな。だから25銭で見られるわけです。市電が7銭くらいの時代ですよ。坂妻さんの『雄呂血』(1925年)とか『尊王』(1926年)とかをそこで見たわけです。それで、監督になりたいとう気持が、そのころできたわけです」

 

深作「佐々木監督のお家は、秋田県の大地主だそうですね。映画屋の希望なんというのは、お父さまやお母さまはすんなり認めて下さったわけですか?」

 

佐々木「親父は大学の予科一年の時に死んでるんです。兄貴は早稲田を出て、歌舞伎が非常に好きだった。そして、歌、三十一文字ですね。それが、上手くて、田舎に帰って「木陰」という雑誌を無料で配って、同志を集めてやっとって。だから、割合、理解があったんです。親父はダメです。それで、結局、法政に入ったのもダメなんですよ。農業大学に入れば養子の口が良いんです、地主関係で。法政なんかに入るよりは、農業大学に入る方が良い。だけど、試験に遅れちゃったんですよ、僕が。大体、入る意志がないわけですよ。結局、法政に入って、『バレーテ』という映画の合評会があったんです。映画研究会に入ったんですよ、すぐに。マークが非常に良いんですよ。フィルムのコマに(法政の)Hのマークが」

 

深作「それは、映画研究会のマークですか?」

 

佐々木「そうです。そういうものに憧れて入ったんですけど、映画の合評なんかするような人種じゃないんですよ、その研究員が(笑)。一部にはもちろん熱心な人もいましたけど。それで、僕がちょっと変なこと言ったもんだから、すぐ幹事になれって言われて。だから一年の時から幹事になって。なーに、幹事って言ったってやるのは金集めなんですよ。で、結局、金がなかなか集まらないですよ、そうゆう状態だから。それで、松竹蒲田の松井実、宗本英男。この二人が法政出の助監督なわけですよ。それで、訪ねて行って、合評会をやる時に女優を出してくれと。大部屋の女優さんだけども、そうゆう人が来て、ちょっと宣伝するとパッと会費が集まるわけですよ。そういう事を考えてね、研究会のために。それがきっかけで松井さんに清水さん(清水宏監督)の書生を世話してもらったんです。それが、入るきっかけです」

 

深作「ああ、そうですか。書生と言われましても、今の若い人にはあんまりねえ。具体的にはどいうかたちだったんですか?」

 

佐々木「月給は無いんです。清水さんから5円の食券ですね。これは、だいたいね、月給60円以下の人は5円の食券をもらうんですよ」

 

深作「それは、蒲田撮影所の食堂の食券ですか?」

 

佐々木「そう、蒲田撮影所の食堂だけの食券。清水さんが自分で買って僕にくれるんです」

 

高峰「5円ていうのは一月?」

 

佐々木「一月5円です。だけどもね、あんパンが10銭で食える時代、そういう時代ですから。あれで、服を作っちゃった人がいるんです。食券を集めちゃって」

 

高峰「その頃もう、清水先生は田中絹代先生と結婚してらしたんでしょ?」

 

佐々木「結婚していらしたですね」

 

高峰「そこに、御一緒にいらしたんですか?」

 

佐々木「一緒ではないです、家のそばに今福という宿屋だったな。2階に二間あるんですよ。隣に柴田っていう衣装部」

 

高峰「あっ、柴田。知ってますよ」

 

佐々木「そう。二人。隣の階段をヘだてて吉村公三郎」

 

高峰「あら、ハムさん...」

 

佐々木「僕が前の年の11月で、奴は中学を出てすぐ来たから4月なんですよ。僕よりも5ヵ月くらい遅いんだけども、奴は島津組についてすぐ籍に入ったわけなんですよ。僕は無給なわけだから。だから籍順は僕より上です。僕は8ヵ月無籍ですからね」

 

高峰「懐かしい名前がずいぶん出ますねぇ」

 

写真3・佐々木/高峰2ショット.jpgのサムネール画像

                    

佐々木「吉村君ってのはねぇ、後から助監督の交友会とかね色々あるんですが。奴はね、本を読むのがとっても早いですよ。今日はトルストイ、明日はツルゲーネフでしょ。まあ、ロシア文学を読んでるわけ。そうすると、今日は右かと思うと、明日は左なんですよ(笑)。自分てものが、あの人はね。作品見てもね」

 

高峰「『暖流』(1939年、高峰三枝子主演)でも何でも、ちょっとブッてらっしゃるような...(笑)」

 

佐々木「まあ、『暖流』は傑作だけどもね。やはり、そういうところがあるでしょ。人のものを真似してそれを上手く。だから、自分てものが無かったんだ(笑)」

 

高峰・深作「(笑)」

 

深作「吉村先生は、島津保次郎先生の?」

 

佐々木「弟子、弟子。あれも(島津先生に)殴られ、僕も清水先生に殴られた。とにかく、そういう時代です」

 

【中略】

 

佐々木「とにかく、清水さんて人は、朝から夜まで僕がそばに居なきゃダメなんですよ。9時開始なら、8時に台本を取りに行くんです。まあ、僕が先に行って、ライトとか何とかは全部助監督が掃除するんですよ。ユーイングとかスポット。ユーイングってのはねえ、四角なやつなんですよ。カーボンとカーボンが触れるでしょ。それで、前にパラフィンを張らなきゃならないんだ。そういう、掃除をね、助監督が二人、キャメラの助手が二人、照明が一人しかいないんだ、この五人で全部やるわけだ。手袋を片方もらうわけですよ。ところが上手くいかないんだ。(カーボンがくっつき過ぎると)火の粉が落ちてパラフィンが燃えちゃう。離れ過ぎると消えちゃうし。僕は大体不器用でしょ。それを、つけたり消したりに失敗して怒られる。「また、佐々木は!」とこうやられるわけですよ」

 

高峰「大変ですよねぇ。助監督さんて」

 

佐々木「カチンコを持って、カチンコもね」

 

深作「他にも色々仕事があるでしょ、助監督だったら?」

 

佐々木「とにかく、助監督は二人しかいないんですから」

 

高峰「大船の助監督さんたちは、私たちの部屋まで呼びにみえて、私たちの草履までそろえてくれるのが、助監督さんだったんですよね」

 

佐々木「そうです。だから、小道具を全部取りに行ってね。後なんですけど、僕は小津さんの『落第はしたけれど』(1930年)というね。小川二郎って知ってる?助監督の...」

 

高峰「さあ...」

 

佐々木「それが、あまり良くないんで、誰も小津さんに行く人がいないんで、僕が行って籍に入れてもらったんです。マネージャーの仕事っていうと、昼飯は大体会社の金で食わすんです。マネージャーが大体一人ついてるけれども、助監督がやる場合もあるんです。

 

小川二郎がね、チーフ助監督だから、次の日の昼飯代を前の日に貰うわけだ。それを持ってどこかへ飲みに行って、朝来ないんです。というのは、ブタ箱に入ってるわけですよ(笑)」

 

高峰「まあ」

 

佐々木「そういうことが、あまりにもくり返されたんで小津さんは、あの人はね、清水さんと性格が反対で、清水さんは僕と性格が似て、何かあったらパッと怒っちゃうけど、小津さんてのはなかなか怒らない。怒ったら、もう絶対に許さない。だから「君、明日から来なくていい」と。『落第はしたけれど』の撮影の二日目かなんかなんですよね。それで、助監督が僕一人なわけですよ」

 

高峰「あらぁ」

 

写真4・ベンチ/小津監督と.jpgのサムネール画像

       右はじが小津安二郎監督。左から二人目が佐々木康監督。

 

佐々木「チーフが大体、松竹の場合はね、大部屋の通行人とかの予定表を書くのが、昼間。12時から1時の間に各組の助監督が集まって統制を取るわけですよ。小津さんてのはね、小さい、その辺を歩くのでも、気にくわなきゃダメなわけだから、明日何人出しますか、誰にしますかというのを聞いてね。あの人は必ず、駅の前の明治製菓という食べ物屋。駅のすぐ前だった。そこで必ず、昼飯を。僕は、追っかけていって聞くわけだ。それから、みんなと打ち合わせすると集合時間の1時になってるわけだ。もう「小津組の人お願いします」とまわらなきゃならないわけだ。それで、さっき言ったあんパンを食券で。それを食べながら...」

 

高峰「それは、蒲田のお話ですか?」

 

深作「蒲田ですね?」

 

佐々木「そう、蒲田、蒲田」

 

【中略】

 

佐々木「僕の第一回の『受難の青春』(1931年)というんで、自分の書いたもんだから割合良かったんです。で、城戸さんが、これは宣伝ですけども、野口宣伝部長...」

 

高峰「鶴吉さん」

 

佐々木「野口鶴吉さんが、第一回監督作品というのでね、「城戸四郎に天才と言われた佐々木康第一回作品」とね。ところが、次の写真がとてもくだらないわけさ。『娘の好きな』かな。小津さんから「折り紙天才」と始終言われました。厳しいですよね。大体一本撮ったのはね、小津さんの『美人と哀愁』(1931年)のね、井上雪子、知ってますか。それと、斉藤達雄と岡田時彦。結局ね、「女の美しさ、空のうろこ雲、ともに長くはもちません」という、ジャン・コクトーのね。ジャン・コクトーがちょうど日本に来た時だったんですよ。小津さんの好きなね。小津さんとしては、耽美的な映画で。それが、信州ロケーションなんですよ。あした、ロケーションに発つという時に、僕はチーフをやっとったわけだ。さあ、忙しいんだ。その時に、(城戸さんが)一本撮れと」

  

深作「いくつくらいの時です?」

  

佐々木「二十、二、三、じゃないですか、まあ」

  

写真5・佐々木/撮影風景3.jpgのサムネール画像

       当時の撮影風景。左から水島光代、本郷秀雄、佐々木康監督

 

【中略】

 

高峰「最初から、ズー先生なんですよ。ごめんなさいね。ズーズー弁でいらっしゃるのが先生のトレードマークですから」

 

佐々木「それには、面白い話があるんですよ。佐々木啓哉(監督)がいるでしょ。佐々木が二人だから、僕は康(こう)組なんだな。ところが、子役が、みんながズーさん、ズーさんって呼ぶでしょ、だから康(こう)をズーと読むと思ったんだな。だから、平気でね、ズー先生って言いやがるんだ」

 

高峰・深作「(笑)」

 

佐々木「だからね、あだ名と思わないんだ、子役が。だから、僕はズーさんというのはちっとも抵抗を感じないんだ」

 

高峰「そうですか。私たちにとっては、先生は優しいっていう思い入れが、とってもありますものね」

 

【中略】

 

 

深作「サイレント映画の時は、そうでもないでしょうけれど、ご自分の訛りというのは演出上困るというようなことはなかったですか?」

 

佐々木「それにもエピソードがあるんですよ。栗島すみ子さんに「佐々木さん、あなたトーキーの監督できるの?」と。栗島さんに言われたことがあります(笑)」

 

深作「高峰さん、(松竹に)お入りになってですね、(佐々木監督の)初印象というか、その頃の何か?」

 

高峰「私としては、男の世界に始めて入ったわけですから。今、先生とお話しても、その当時とダブって、あまりお変わりにならないと思えてしょうがないんです。ズーズー弁はお変わりにならないし。もっと激しかったですよね、前は(笑)。とっても、優しくて。優しいっていっても、木下さんや、吉村さんみたいな感じじゃなくて。とにかく、私の作品は一番多いんです。私は、昭和11年に大船に入りましたから、今までの蒲田のお話は、あまり分からないんですけど。その時は上原(謙)さん、佐野(周二)さん、佐分利(信)さんが三羽がらすで売り出していた頃で。まず、第一回が佐々木先生(『母を尋ねて』1936年)で、台詞は一言も無いんですけど、ただその辺をお掃除するだけで。確か、坪内美子さんが主演だと思いましたけど。あれは、テストだったそうですね」

 

佐々木「これはね、城戸さんが、女学校を出たばかりの娘だと。琵琶の先生のお嬢さんだと。ちょっと品のある顔だから、とにかくお前にテストをやってもらうと。試写を見て、おそらくね、城戸さんはあなたを買ったじゃないかと思う。と言うのはね、この一年でね、『螢の光』(1938年)というのであなたは主演。三羽がらす(桑野通子、高杉早苗、高峰三枝子)の一人ですもの」

  

【中略】

  

深作「そろそろ、歌謡映画というものについて伺いたいんですが、その以前にですね、歌謡曲の大ヒットを『純情二重奏』(1939年)、『懐かしのブルース』(1948年)、『別れのタンゴ』(1949年)、『思い出のボレロ』(1950年)、『情熱のルムバ』(1950年)、その他にもたくさん作ってらっしゃるわけですが、歌はお好きだったんですか?」

 

写真6・佐々木/撮影風景1.jpgのサムネール画像

『別れのタンゴ』ロケ・スナップ。左から二人目より、若原雅夫、高峰三枝子、佐々木康監督。

 

佐々木「『真白き富士の嶺』(1935年)は、パート・トーキーなんですよ。及川(通子)さんがピアノを弾いて」

 

高峰「パート・トーキーって何なんですか?」

 

佐々木「学校の講堂で歌うところ。ピアノの伴奏で。本郷秀雄が逗子開成中学の(生徒の)役をやってるでしょ。そして水島(光代)が女学校の生徒なんだ。そのラブ・ロマンスがあって。結局、12人がボートに乗って死ぬでしょ。その写真を講堂に張って、及川さんの弾くピアノにあわせて、女学生が追悼の歌をうたうわけ。それで、その所だけがパート・トーキーなわけですよ」

 

【中略】

 

佐々木「それで僕の映画が、催涙映画、涙を催す映画。催涙映画っていうのは3つあるんですよ。松竹の3大催涙映画っての。一つは野村芳亭さん、今の野村芳太郎君のお父さんの川田芳子主演の『母』(1923年)。鶴見裕介原作。それと、坂田山で慶大生との心中を描いた『天国に結ぶ恋』(1932年)」

 

深作「五所(平之助)先生でしたっけ?」

 

佐々木「そうそう、五所さん。試写室を出て来たらね、主役の川崎弘子さん。目を真っ赤にして出てきたの。あれも、やっぱり大変に泣かせた写真。あの当時ね、年取ったおばあさんなんかが、もぎりに、「よく泣かしていただきました」って出てくる時に頭を下げたもんなんですよ(笑)。そういう時代ですよ。だけど、そういうものはジャーナリストはちっとも買ってくれないわけ」

  

高峰「もう一つは『真白き富士の嶺』なんですか?」

 

佐々木「そう、『真白き富士の嶺』」

 

高峰「それは蒲田時代ですか?」

 

佐々木「そう、蒲田時代。『あの道この道』(1936年)が最後ですから、蒲田では。あの当時は、麩でね雪を作ったものなんですよ」

 

深作「今は発泡スチロールですけどね」

 

佐々木「一回やると、たくさん使うもんだから、蒲田撮影所が全部麩だらけになったんですよ(笑)」

 

【中略】

 

深作「高峰さん(主演)の『純情二重奏』の話に入りたいんですが、その前にも『螢の光』、『純情哀歌 宵待草』(1938年)、『故郷の廃家』(1938年)とありますね。これはみんな歌謡映画というようなジャンルに属するものですか?」

 

佐々木「うーん。どうだろう。『宵待草』は...、歌謡映画でもないけど。これで、高峰さんが認められたわけです」

 

高峰「歌を歌うことは、その前に、あたくしは浅草の方で口ずさんだ所があったので、歌えそうだというので。それで、城戸所長さんが、何かレコーディングして、それを映画化しようというお考えがあって...」

 

深作「レコードと映画と合体して、というようなことですね?」

 

高峰「そして『宵待草』で選ばれて、ワンコーラスじゃダメだというので、西条八十先生が(2番を)書いてくれて。行きましたよね、信州に、ロケに。夏川大二郎さんが相手役で。私はね、このズー先生が音楽映画をお撮りになったのが、不思議だったの。感じとして」

  

佐々木「私は音楽の事は何にも知らないんです。知らないのがかえって良いって万城目(正)さんが言うね。なまじっか知るとね、やっぱり、こうしてくれ、ああしてくれと。なんたって、本職にはかなわないわけだ」

 

深作「なまじっか知らないと言っても、コンテ割りというのは何がもとになるわけですか?」

  

佐々木「例えばね、こういう具合に歌を入れたいといった方が、万城目さんは(曲が)湧いてくるわけだな。だから万城目さんは映画音楽、主題歌といったもの以外で、あまりヒットしたものってないでしょ?『愛染かつら』(1938年)が最もヒットしたでしょ」

 

深作「『純情二重奏』は昭和14年ですね。もう日中戦争が始まって、かなりきな臭い...」

 

高峰「きな臭いより、日本が勝って、勝って、しょっちゅう喜びのパレードをしてた頃ですね」

  

【中略】

 

深作「大平洋戦争が始まってから、戦意高揚の映画じゃないとフィルムをやらんとか、いろんな話を聞きますけども、そんなことはなかったですか?」

 

佐々木「いや、東宝あたりは軍国映画をやってるんじゃないですか。松竹は全然ダメなわけでしょ、メロ的なものばかりやっている。『愛機南へ飛ぶ』(1943年)がそれなんだ。東宝から、奥野(文四郎)と川上(景司)という人を寺尾清というカメラマンが引き抜いてきて特撮をやったんだ。いくら金をかけてもいいというんで、一年がかりで。あれはね、情報局賞をもらったんだよ。僕じゃなくて、会社がですよ。だから、それまで、松竹は随分叩かれていたんですよ。『新女性問答』(1939年)というのがあるでしょ。あの時は、内務省の検閲官にコテンコテンにやられました。だって芸者讃美映画ですもの」

  

深作「内務省に呼ばれて怒られるのは、監督ですか?」

 

佐々木「監督です」

 

深作「プロデューサーは?」

 

佐々木「あの頃はまだ、プロデューサーにそんなに力がなかったんです。脚本家も...。でも、やっぱり一番叱られるのは監督ですね」

  

【中略】

  

佐々木「『愛染椿』(1940年)というのがあるでしょ。『大陽と薔薇』、という林房雄が「改造」に連載していた小説が単行本になったんですよ。秀才少年が赤化して、結局長野の刑務所に入れられる話なんですよ。僕は、「改造」に連載していた頃に読んでいてね。当時、吉村(公三郎)君と渋谷(実)君はジャーナリズムにのってるわね。僕だけが、一つも褒められた写真が無いわけだから、ここで俺だって一本くらい撮れるっていうんでね。その頃、脚本ハンティングというのが許されたんですよ。野田高梧さんは、僕の兄貴と早稲田で同級なんですよ。そういう関係があって、一本目を撮る時も野田さんの推薦でしょ。それで、よし俺も骨を折ろうと。そうとう意気込んで、信州に一週間ばかり脚本ハンティングに行ったんですよ。帰ってきたら、「佐々木お前には絶対こんなジャーナリズムにのるような写真はやらせない」って城戸さんに言われたんです。それで、代わりにこれをやれと渡されたのが『愛染椿』。『愛染かつら』は面白かったけど、全然面白くないから野村浩将さん(『愛染かつら』の監督)が蹴ってるわけなんですよ。面白く無い本なんですよ」

 

高峰「それで先生の所に持って来られちゃったのね」

 

佐々木「これが俺の人生の境目なわけだ。だけどね、もし『大陽と薔薇』を撮ってたら、今頃、食うに困って乞食をしてますよ」

 

深作「良かったですね(笑)」

 

佐々木「今、考えたら良かったんだ(笑)」

 

深作「吉村先生と渋谷先生には、やはりライバル意識をかなりお持ちだったんですか?」

 

佐々木「二人とも、撮ったのは僕より後だけどね。大体、年配とかそういうので、まあ、競争相手ですわな。僕だけは(会社は)野村浩将と跡継ぎを競争させたんです。結局、女優さんの方では桑野、高杉、高峰と男の方では上原、佐分利、佐野、この三羽がらす。脚本の方では斉藤良輔がいたでしょ。これが、割とメロドラマが上手いもんだから、お前と斉藤良輔が組んだら、野村と野田高梧を絶対に上回ると言うんだね。そういうんで、競争させるんだな。城戸さんは野村浩将の跡継ぎを僕にやらせようとしたわけ。城戸さんは全部競争させて、なんて言うかな、上げていった」

 

高峰「でも、先生。良き時代だと思いません?」

 

佐々木「そう、もっとも良い時代に僕は監督を辞めたんだ」

 

深作「それは、ずいぶんまた先の話ですよね(笑)」

 

佐々木「最も良い時代が東映の昭和30年から36、7年でしょ。僕が年間、8本、9本撮ってた時ですよ」

  

深作「12本撮った年もありますよ」

  

佐々木「全部、酒と女です(笑)」

 

【中略】

  

深作「本当に空襲がひどくなってですね、撮影所に自転車で通よわれたそうですね」

 

写真7・佐々木/高峰アップ.jpgのサムネール画像 

 

高峰「母だけは熱海に疎開したんですが、目黒にいまして、品川までとにかく行かなきゃならない。何にも乗り物も無い、まさか歩けないから、そうすると自転車でと。前の日に空襲にあった方が(道に)ザーッと並んでましたね。もう神経が麻痺してるんです。怖いとも思わないっていうことが、恐ろしいですね。ですから、私は撮影所はホントに閉鎖されたと思って、そのうちに来なくていいってことに。ただし、私は大東亜省から呼ばれて、いついつ、例えば上野の精養軒集合と。行くわけですよ。もう、嫌とは言えないわけです。すぐそのまま、雁の巣というところへ飛べとかね。私はその頃、お陰様で、売り出してましたから、私に万が一のことがあっちゃいけないというのは軍部ももちろん承知してます。本当の特攻隊専門の慰問で。今晩、夜明けに飛ぶ方がズラッと並んで。本当にそういう限られた方の前で歌わせられて。でもね、ちっとも喜んでいただけないから、心配してたら、やっぱり色んなことを思い出しながら聞いていらっしゃるんですね。是非っていわれて行きまして、もちろん東條さんの前でも歌いましたの。その時、一番リクエストが多いのが「湖畔の宿」でした、それから「純情二重唱」。すると♪亡き母恋しと言いますでしょ、あすこら辺にくると皆さんこうやって(じっと下を向いて)。私は、そういう歌を今歌っても、いくつになっても、あの時の嫌な戦争の思い出ってのを、つくづく感じますね」

 

深作「すみません、どこから呼び出しがかかるんですか?」

 

高峰「大東亜省です。大東亜省の一番偉い方が東條さんでした。その秘書の方で松井久さんて方がいて、あちらから呼び出しがかかるんです」

  

深作「色んな基地へ、命令されるままに?飛行機かなんかで行くんですか?」

 

高峰「もちろん飛行機で行くこともありますし。ですけど、どこへ連れて行くか全然言われないから、母なんかすごく心配して、万が一の事があっちゃいけないからって、ちゃんと水盃をして、よく行きましたよ」

 

深作「失礼ですが、その頃、映画もないし、劇場もないし、収入というようなものは?」

 

高峰「無かったですね」

 

深作「大東亜省から呼び出されますね。そういものの報酬は?」

  

高峰「あのね、帰りにお米とか、お醤油。それを目一杯いただいて。ある時、倉庫へ行って、ガラッと開けるとお砂糖の山なんですよ。詰められるだけ持っていけと。御本人が来るならいつでも上げますというけれど、まさか、そうもいかないんで。弟と行ったんですけど。そういう思い出があるくらいで」

 

深作「モノでですね」

 

高峰「お金は大体持ってるんです。使うところがないから。だけど、物資が無いわけだから。ですから、そういう思いをして生きてきたということは、とても貴重だと思って。大切にこれから先も生きたいですよ」

  

深作「空襲にあったことも?」

 

高峰「えーえ。庭にボンボン爆弾が落ちて、防空壕に入ったり。私は田舎が無かったものですから、田舎があっても父の故郷は博多でしょ、九州の。敵前上陸があるって言うし。色んな嫌な思い出でしょうか、貴重な思い出がたくさんあります。だからその頃、先生がどうしていらっしゃったかと思うのね」

 

佐々木「その頃は...」

 

高峰「終戦まぎわですよ」

 

佐々木「僕は『乙女のいる基地』(1945年)というのをやってます」

 

高峰「えーっ!撮影があったんですか」

 

深作「これはどこで撮ったんですか?」

 

佐々木「これは千葉。全部ロケーションです。これは、女子挺身隊というのが新聞に載ったんです。24名の女子挺身隊。班長が水戸黄門をやった東野英治郎さん。将校が原保美ね」

 

高峰「出来上がった時にどこかで封切りしたんですか?」

  

佐々木「封切ってるわけです」

 

深作「昭和20年ですな」

 

高峰「じゃあ、終戦後ですね」

 

佐々木「いや、終戦直前」

 

深作「『乙女のいる基地』、全線基地だから負けちゃったらもうダメですわね」

 

佐々木「これはね、僕の今までの、非常に、カンの良さというかな。艦上機の空襲が盛んにあるわけだ。飛行場に松竹壕と称して防空壕を一つもらってるんですよ。何かムシが知らせるって言うのか、予定よりも一日早く別の飛行場に移ったんですよ。ところが、その次の日に空襲ですよ。で、その松竹壕が直撃でしたよ。もし、(撮影を)やっとったらそうとうの人間が死んでますよ。ところが、今度は次の習志野飛行場が僕らが移動した翌日に空襲にあってる。たくさん死んでますよ、僕らの送った特攻隊員が。特攻隊を送るようなシーンもあるんですよ、女子挺身隊が。それで、このロケーションの途中で僕は製作部長を命じられたわけだ」

 

深作「監督が製作部長を?」

 

佐々木「監督兼製作部長。あの頃ね、他に監督が、木下恵介君、原研吉君、大庭秀雄君と3人くらいしかいなかったんじゃないかな。後はみんな戦地に行って。木下君は兵隊から帰って来たんだ。誰もいないから、佐々木に兼務してもらおうと。朝8時に行って製作部長をやって、9時から監督をやって、昼飯の時間にまた製作部長をやって、また監督をやって。実際、誰もいないですよ」

 

【中略】

 

深作「スタッフも?」

 

高峰「キャメラの方も次から次と召集でしたね」

 

【中略】

 

深作「戦後になりまして、佐々木監督の作品ですね、日本で最初のキスシーンが登場したのは」

 

佐々木「これにはね、高峰さんが出てる『新風』(1945年)、これが戦後の僕の2作目、『そよかぜ』(1945年)の次ですわね。これは、池田忠雄さんというと野田高梧さんに次ぐ松竹の名脚本家なんだけど、脚本が嫌になって監督に転身したいと言うんだ。僕なら、割と話もしているし、僕の助監督ならいいと、それで助監督になったわけです。その本が津路嘉郎と言って池田さんの弟子なわけだ。それで、ここがおかしい、ここもおかしいと、そうとう直しが多かったわけだ。脚本は英訳してGHQに送るわけです」

 

深作「今度は占領軍に検閲ですね」

 

佐々木「そう、その検閲が必要なわけです。で、試写をして、最初は大礼服を着たちんどん屋が出たりしてコンデという検閲官がとても喜んでいたわけですよ」

 

深作「リチャード・コンデですね」

 

佐々木「そう、最初は喜んでいたけど、そのうちだんだん顔色が変わってきて。私はそばで見ておったんだが。終わったらね、2世のコンノという人が通訳だったんだけど、すぐGHQに来いと。僕は津路嘉郎と二人で行ったんだが、もうコテンコテンに言われたわけだ。なぜ、直したかと。それがあって今度『はたちの青春』(1946年)を持って行って、接吻とは書いてなかったけれど、抱き合うとか書いてあったんでしょう本の中では。これはね、ぜんぜん前の時に書いた本で、終戦後的に直して、大した本じゃないわけです。面白くないわけだ。その時ね、君は前科者だからこのシーンで接吻させろと。というのはね、松竹の助監督が撮った写真かな、接吻をさせると約束してやらしてなかったらしいの。それがコンデの頭にあるからね、お前は前科者だからそれをやれと。それで大坂(志郎)君と幾野(道子)君に頼んでね、接吻映画の第一作になったわけです。それが、師匠の小津さんにね、ちょうどシンガポールから帰って来た時にね、ちょうど映画が封切ってるわけだ。ぜんぜんゼロのような写真だけども、接吻映画のポスターが、スナップか、そういうものが出てるもんだから割合(客は)入っわけなんだ。それで、コテンコテンに怒られました」

 

深作「小津さんにですか?」

 

佐々木「そう、小津さんに。そういう人をダマしたような、接吻とかなんとかさせてね、興行的に受けるような写真にするというのはね。映画はそんなものじゃないって言うんでしょ、あの人は。持ち前の芸術論ですわね」

  

【中略】

 

深作「あの"リンゴの唄"も佐々木先生の作品ですね。『そよかぜ』ですか?」

 

高峰「あれには上原(謙)さんも出てらっしゃるのね」

  

佐々木「そうです。上原でしょ、佐野周二君は帰って来たばかりで、坊主刈りで出てます。あの時に居ったスタアは全部出てるんです。あと、斉藤達雄さんでしょ、高倉彰。彼は、ほんとはピアノ弾きですわね。並木(路子)はあれが第一回なんです」

 

【中略】

 

高峰「佐々木先生は清水先生に殴られたとおっしゃったけど、私は木下(恵介)さんが島津(保次郎)監督に「木下、バカ、バカ」と、もう散々言われて気の毒に思って。吉村(公三郎)さんもコテンコテンにやられ、あと中村登ちゃんとか。その他、そうそうたる人たちが、もうメチャメチャに。でもね、そういう方が助監督さんはもてたんですよ、女優に」

 

深作「同情票が入るということですか?」

 

高峰「同情票というか、一生懸命やってね、可哀想というか。協力するわけですよ。呼びに来られると、早くいかなきゃと思うしね。ですから、とっても連帯感があったんです」

  

【中略】

 

深作「それから、監督は東映に移籍されましたよね。それまで、現代劇中心の松竹大船だったのが、突然、時代劇の東映京都撮影所へということになるわけですけれど、とまどいはありませんでしたか?」

 

【中略】

 

写真8・佐々木/撮影風景2.jpgのサムネール画像

  『笛吹き若武者』1955年、左より、美空ひばり、佐々木康監督、大川橋蔵

 

佐々木「ありましたけれどもね、どうせ助監督がついてくれるんだからね。例えば、刀のさし方もろくに知らなくても、何とかごまかしてくれるだろうということで(笑)。ただ、契約して第一回は東撮で撮らしてくれと(『暗黒街の鬼』1952年)。そうするとすぐに、出来上がっている房さんの本、『忠治旅日記 逢初道中』(1952年)ですよ。東京へ行って、柳橋の(片岡)千恵蔵さんの二号さんがやっていたところで。そこで、千恵蔵さんに初めて会いました。そして、打ち合わせして『逢初道中』を撮りました」

 

高峰「私ね、千恵蔵さんと『一本刀土俵入』(1954年)をやってるのよ、先生の作品で。珍しいでしょ、私が。お蔦をやったなんて、信じられない」

 

深作「あの作品も見せていただきましたけど、しっとりして。あの辺は、松竹大船のセンスがそのまま時代劇に」

 

佐々木「前の稲垣(浩)さんの『一本刀』が非常に良かったらしい。前にそういう強いものがあると、次はたとえ良くてもね。まあ、そう大した写真じゃないと思うが。現代的ではあったでしょうね。あれは、喧嘩してアキレス腱を切るでしょ。そして、師匠の所に行くと、絶対相撲はとれんと。そこで、脚本には号泣すると書いてあるでしょ。千恵蔵さんが二色あると言うんだな、あまり号泣しないで、うーんと(堪えて)泣くような芝居。僕は泣かせたくなかったんだな。稽古場の神棚からゆっくりパンして長く回している時に、初めて涙が出てくると。大体、時代劇というのは泣かせ過ぎるんですよ。メロドラマってのはね、お客さんが泣くまで、俳優さんを泣かすなっていうのが、メロドラマの説なんですよ。というのは、野村芳亭さんが言うんだ」

 

深作「これはやっぱり、一つの見識ですね」

 

佐々木「ヤマ場ってのは誰にもできる、そこまでいくまでが監督の勝負だっていうのが先生の言葉ですよ」

 

【中略】

 

写真9・佐々木/深作2ショット.jpgのサムネール画像 

 

深作「それから、阿修羅のごとく撮りまくっていらっしゃいますが、一年間に12本ですか、こういうのも中々ねえ。監督の仕事としては大変だったと思いますけども」

 

佐々木「みんなスタッフが分かるのはね、セットに入って一番難しいロングのポジションをね。親父はまた本を一つも読んでないと。ホントに読んでないんです(笑)。そんなことしてると、大体30分かかるんです。その30分でコンテをやるわけです。そのロングショットが最初のカットでなくても、5カット目でも、6カット目でも、10カット目でも、そのシーンの中に入れていくんです。それがかえってセットにいるわけだから、良い考えが浮かぶこともあるんですよ。まあ、二日酔いだけども(笑)」

 

【中略】

 

深作「お話を伺ってますと、映画人としての人生を悔いるところは一切ないという感じですね?」

 

佐々木「そうですね。私ほど映画人生を楽しんだ人というのは、あまり監督さんの中にはいないんじゃないですか。というのは、良い時代。それから、色々の人の、マキノさんなんかの力が、やっぱりたいへん大きな力になってますよ。まあ、僕のような映画人生というのはこれからの人は絶対できませんね。金銭的にも、全ての点において」

  

深作「これから生きていく、若い人たち。まあ、映画というのは、みんな作り続けて欲しいわけですけども、何か、これからの若い人たちにメッセージがありましたら」

 

佐々木「今の喜劇というのはナンセンスなんだ。コメディじゃなわいけなんです。僕は、劇場映画では出来ないかもしれないが、テレビで働く人たちには、もう少し、ペーソスのある喜劇が欲しいと。それから、今はテレビでは金もかけられないし、時間もかけられない。そういうことで、非常につらいと思うが、結局、僕の師匠二人の、清水さんと小津さん間を行くというかな、ある時は粘り、ある時はあっさりと、時間と金と、与えられたもので克服していかなければならないと思う。これは中々難しいことだと思います。僕がいわゆる大衆作家、大衆映画監督だったから、こんな事をいうのはちょっとアレなんだけど、もう芸術作家というのは中々出てこられないんじゃないかな」

 

深作「高峰さんも、何か次の世代にメッセージはおありですか?」

 

高峰「そんな偉そうなことは言えませんけど、やっぱり先生がおっしゃったように、今は時間と、そういうものだけに追われて。深作監督などはじっくりやっていられるんだろうということを、我々、遠くにいて感じますから、続けていただいて。やっぱり粗製濫造というのは嫌だなあと。とても良い時代に育っておりますから。ということを考えますけどねえ。それから、先生には批評家は褒めなくても、大衆にとても支持された、というものばかりに出していただいて、私はとても喜んでおります。ありがとうございました」

 

佐々木「私の人生はねえ、やっぱり大衆と共に歩いてきたと、この50年間。我々のように良い時代に監督をやってきた人間が、今の監督さんに、なんていうかな、努力をお願いして。もう、気の毒でしょうがないんだけど、時勢がこうなんだから、まあ、しょうがないでしょう」

 

深作「今日はどうもありがとうございました。高峰さんも、遠いところ、本当にありがとうございました」