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特集

日本映画監督協会 会員名鑑

わが映画人生

わが映画人生 西河克己監督編

 『わが映画人生 西河克己監督編』 一部抜粋

 

1993年8月6日 にっかつ撮影所にて

 

インタビュアー:千野皓司監督

   製作担当:奥中惇夫

 

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     西河克己監督 1918年鳥取県生まれ)

 

千野「どうして、映画監督を志されたんですか?」

 

西河「映画監督を志したというよりは、小説家になりたかったんですね。まあ、だめだったなら映画監督でしょうがないと。昔は、今みたいに文学賞がたくさんないから、新人の登竜というと芥川賞か直木賞ですよね。その時代は直木賞という気持ちはなかったから、芥川賞を受賞したいと思っていて、同人雑誌をやっていて。大船に助監督で入ってからもまだやってましたよ、同人雑誌を」

 

千野「何という雑誌ですか?」

 

西河「青衿派(せいきんは)というんですね。青い、衿の、派」

 

千野「それは、どういう人と?」

 

西河「今言ってわかるのは、角川書店を作った角川源義氏が一緒でした。小説家になった人はついに一人もいなかった。大学教授になった人が多かった」(中略)

 

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             西河克己監督 千野皓司監督

 

千野「監督は日大の?」

 

西河「映画科にいたの」

 

千野「その当時は、映画と小説のつながりはありますよね、けっこう」

 

西河「でも、文学と映画とは格差があるという考えがある、当時はね。映画は一段

低いという考えが、僕自身あるし。小説家になりたいというのが一番でしたよ。当時の小説家というのはね、まあ、絵描きもそうだけど、金持ちの子じゃないとなれないんだ。つまりね、親から金をもらって生活できるという環境を持ってないとできない。中略。だから、時給をもらえるところに行かなきゃならないわけね。(小説家の)次は助監督になって、監督になるという道があって。でも、それより優先して小説家になりたいと。27歳で監督になり30歳で芥川賞という設計図をね、後になって人は笑うけどね、本気で考えてました」

 

千野「誰に一番影響を受けました?」

 

西河「志賀直哉でしょうね。志賀直哉は誰でもだよねその時代は、神様だから。僕の場合、他の人と全然違うのは菊池寛だよね」

 

千野「菊池寛はどういうところで?」

 

西河「どちらかというと生き方みたいなものね。技術的な影響じゃない。人間的な影響だな。これは非常に、まあ、決定したという感じだな、自分の人生をね」

 

千野「映画にも菊池寛の影響が?」

 

西河「今みたいな、エンタテイメントという言葉はないけれど、菊池寛は後には大衆文学みたいなねえ、芥川賞と直木賞、両方作った人だからアレだけど、それ以前にね、例えば菊池寛の文章の中にね、関東大震災にあって焼け爛れた街の中に彼が出て行って、(人々が)食べる物がなくて右往左往している最中に、菊池寛全集を読みたまえとは夢にも言えない、菊池寛全集より一個の握り飯が今必要なんだ、という文章があるんです。平たく言やあ、花より団子っていうだけのことだけどね。その頃は17くらいの少年だったからね、やっぱりこれは決定したって感じがするね」

 

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西河「コネなしで完全に試験だけで入れてくれるところは松竹しかなかった。(昭和)13年から始まって、今でいうとなんていうのかね、マスコミという言葉はなかったから、3大試験といって、NHK、文藝春秋、大船撮影所というのが、今でいえばマスコミ3大試験という」

 

千野「それは全部、縁故なしと?」

 

西河「そう。それと倍率が(高くて)難しいというんで、そう言われたの」(中略)

 

千野「一番最初に、(監督には)誰についたんですか?」

 

西河「一番最初は、原研吉って人についたですね」

 

千野「どうでした、一番最初についた時の原さんて?」

 

西河「いやあ、もう何だか分からないけど。今の人と違うから、僕は個人的にもそうだけど、従順ですからねえ、言われたことは全てその通りにやると。それから、年が若かったんだね」

 

千野「いくつです?」

 

西河「二十歳だね。他の人はね、年寄りがいたんだよ。つまりね、明治生まれがいたんだよ。僕は大正7年でしょ、最年少なんだよ。家城巳代治なんか(明治)44年生まれなんだから」

  

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西河「小津組なんてのは、予算はあんまり無かったね。一番予算があって豪華というか豪勢だったのは、清水(宏)組と野村浩将組だね。野村浩将さんは『愛染桂』(1938年)の年だからね。そのせいもあったけど。これはね、会社が認めている贅沢だけども、清水組というのは勝手に贅沢なんだよなあ。清水宏という人は、なんていうか非常に我がままな人だったねえ」

 

千野「嫌な事は何だったですか、その当時?」

 

西河「僕のついた原組は女性上位だからねえ、ニューフェイスの女の子の鞄を持ったりしないと怒られるんだよ、監督に。「西河さん、何してんの。ほら、持ってんじゃないの、みどりちゃんが、鞄を!」とかさ。それでね、監督の鞄が一番大きいんだよ」

 

千野「何でですか?」

 

西河「衣装が多いんだ。原研吉って人はね、朝飯を食う時と、昼間ロケするときと、晩飯を食う時と、みんな衣装が違うんですよ。だからね、衣装替えが激しいんだよ。普通の女性のスターよりも衣装が多いんだよ。中略。ロケーションすると日焼けを嫌がってね、顔の周りにタオルを巻いて、鼻の高い人だからね、フランスのルイ・ジューベに似ているという。鼻の頭に、録音部の白いテープを張ってね、そうやってるくらいの人で、大変な人だったよ」

 

千野「イビルなんて事はなかったですか、助監督を?」

 

西河「今で言う、イビルという事とは違うね。イビルと言うんじゃないが、これは原研吉だけじゃなくて、他の人もそうだが、コンテを聞きに行くと、明日の朝の一番手は、昼食後の一番手はどこからいきますかと聞いても、絶対教えてくれなかったものね。中村登さんなんかはすぐ、こっちからいきますと教えてくれるんだけど」

 

千野「中村登さんのチーフの前は、色んな監督についたんですか?」

 

西河「だいたい原組が主で、その次は渋谷(実)組だった。渋谷組から中村組に変わったっていうね。渋谷組は2本だけど、一年くらいやっていた。中村さんは、一度監督になったけど、(当時の松竹は)助監督籍で一本か二本監督してあまり成績がよくないと助監督に戻されちゃうんだ。それで、復活したんだよ。川島雄三もそういう事があったけどね。復活して監督になった時にヘッドがいないわけだよ。みんな他の組についちゃってるから。その当時幹事をやってた一年先輩の斉藤という助監督が渋谷組でセカンドをやってる西河がいいんじゃないかと中村さんに言って、それで斉藤さんに連れられて中村さんに会ったんだ。それで、やってくれと。でも、それまで、中村さんと面識がなかったし、今、渋谷組のセカンドをやってるので、ちょっと、そういうわけにはいかないと言うと、中村さんが、僕が渋谷さんに仁義を切るからと言ってね。まあ、あそこはそういう言葉が多いんだけど、中村さんは特に、歌舞伎系の人だからね。そういう言葉が多いんだよ、仁義を切るとか貰いをかけるとか。花柳界用語とかそういうのも多いんだよね。どういう風にやったかは知らんけど、中村さんが仁義を切って、貰いがかかって僕は中村組に行ったんだ。養子縁組みたいなんだよ」(中略)

 

千野「三人比べると中村さんは?」

 

西河「癖がないと言うか、一番常識的な人だからね。(助監督は)必要な事があるから聞くんですよね、聞いた事は監督として助監督が知らなきゃいけない事、スタッフが知らなきゃいけないことは全部きちっと説明するというね。そういう意味では合理的なんだよ。原さんとか渋谷さんは教えてくれないんだよ。教えないと言う意味は、わざと教育のためにと言うかな、それくらいの事は自分で考えろという部分と、(自分自身)分かってないという部分と両方あるんだよね(笑)。どちらとも、はっきりさせないで、教えてくれないから大変困るんだよね。中略。渋谷さんはね、原さんもある程度共通してるんだが、言われた事にすぐハイそうですかと従ってはダメなんだ。何とかって言ってね理屈っぽく逆らう。でも、逆らいすぎるとまたダメなんだ。程よく逆らって、従うという、そういう手だての難しい人だったね、二人とも」

 

千野「中村さんは、カットは人の顔を見てカットしたと言う?」

 

西河「そういう場合もあります。キャメラマンの顔を見てね。中村さんと言う人は悪く言えば優柔不断というか自分で決めかねるところもあった。逆に言えば、他人の言ってる意見が良いと思えばすぐそっちに変われるという所もあった。だから、あの人は割合長く生き延びれたんじゃないかな。例えば渋谷さんだとね、他人の意見でコロリ変われないんだな。意地とかメンツとかあるでしょう」

 

千野「学んだとすれば、原さんからは何を学びましたか?」

 

西河「原さんから学んだのは、なんて言うか監督の"プライド"みたいなもんだね」(中略)

 

千野「渋谷さんからは何を学びましたか?」

 

西河「渋谷さんからは"監督術"だね」

 

千野「具体的に言いますと、たとえば?」

 

西河「なんて言うかな。本心を知られないというのも一つだね。スタッフにも、会社はもちろん。本当は何を考えているかは知られない方が良いという」

 

千野「そうすると中村さんは逆で、知られて?」

 

西河「そう、知られて自分の仕事をやりやすくしたいという気持ちだろうね」

 

千野「中村さんから学んだことは?」

 

西河「中村さんは自分の"分"を知ってるんだよ。原さんとかは神、最高の第一人者は自分なんだから、中村さんはそうは思ってないよね。自分が仕事をして結果が良くなるためには、説明して、他人の意見もあるし、そっちが良きゃそっちの方にするという。自分の事を隠しておく必要もないしね。それが中村さんのやり方だよね。そういうやり方だから、中村さんは大船では多少馬鹿にされてはいたよ」中略

 

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千野「(戦後大船に戻って)第一回(監督作品)は?」

 

西河「(昭和)27年ですね。SP映画という。助監督登用の試験作品のような形でやったっんだよね。僕が一番バッターで十何人が、みんなやったんですよ」

 

千野「西河さんは助監督の時、脚本は全然書かなかったんですか?」

 

西河「脚本は一回も書いた事がないね。習作のような、映画になるかならないか分からなくて、自主的に書いたものはない」

 

千野「『伊豆の艶歌師』(1952年)も会社の押しつけ企画ですか?」

 

西河「長編の一時間半の脚本があって、それを4巻ものに縮めてやれと。その脚本を持ってロケハンに行くようなことだった」

 

千野「主演は?」

 

西河「佐田啓二です。空いてるということがまず問題だと。というのは『君の名は』のまだ前ですからね。

 

千野「SPだから(客が)入る、入らないは問題じゃないですものね」

 

西河「そう、出来た作品の評価が問題」

 

千野「城戸(四郎元松竹社長)さんの評価は?」

 

西河「城戸さんはその時いないんですよ。戦後ですから。高村潔さんの時代です」

 

千野「高村さんの受けは良かった?」

 

西河「あんまり良くなかった」

千野「でも、所長の受けが良くなければ監督になれないでしょ?」

 

西河「でも、所長個人は(撮影所の)世論に押されるからね。大船というのは世論の多い所でね。誰が(監督に)なるっていうのは、大部屋の女優から大道具まで、大体評価ってのは決まるんだよ。田中絹代の評価と守衛さんの評価と似たり寄ったりだよ(笑)。そういう世論んが所長の所に上がってね、所長のデータってのはそういうものだよ」

 

千野「西河さんは助監督時代は辞めようと思ったことはないですか?」

 

西河「それは全くない。僕は自分が一番先に監督になると思ってたものね、助監督の時」

 

千野「一番先に監督になりました?」

 

西河「撮るのはね。会社から見て一番バッターではあったんだ」(中略)

 

千野「西河さんが日活へ来る時は何か作品をやりたいという条件があったんですか?」

 

西河「まあ、監督契約で来ましたから」

 

千野「『生きとし生けるもの』(1955年)ですか?」

 

西河「そうですね。前からやりたいと思っていたんです。(日活に来てから)何でもいいから(企画を)出せということになって、それではこれをやりたいということで」

 

千野「『生きとし生けるもの』は西河さんの作品の中では、飛び抜けて外れてるんですよね。徐々に変わって行くんだけども、やっぱり飛び抜けて外れてますよね。それだけに、一番やりたいものだったんじゃないかと」

 

西河「あれだけだと思うね。自分で純粋に考えて、やりたいと思ってやったのは、あれ一本じゃないかな。『生きとし生けるもの』を作るのに北原三枝を入れようと思ったわけね。中略。何となくOKになりそうだという時、小津さんの企画の『月は上りぬ』が横から入ってきたの。それで、北原三枝を譲ってくれと説得されたんですよ。小津さんに言われちゃうとどうしようもないことになって。当時、僕は監督協会に入ってなかったけど、小津さんは理事長で、協会の財政を救うためにやった仕事だからね。自分の企画を田中絹代に撮らせて、企画料を100万だか150万だか取って、それを監督協会に入れたんですよね。中略。僕はどうしても笠智衆に出てもらいたかったんですよ。それで、小津さんのところへ行って、交換条件というわけにはいかないけど、山村聡が頭が上がらない老人の役があるから、どうしても笠さんに出てもらいたいと言ったんだ。でも五社協定があるから出られないんだよね。だけど、何とかならないでしょうかと言ったんだよ。そうしたら、小津さんは困った顔をしていたんだが、「しょうがないな、西河君を泣かしたんだし一つやってみるか」と言ってくれて、例外として監督協会企画の(『月は上りぬ』の)ためだということで、笠智衆が出たんですよ、『生きとし生けるもの』に。中略。『生きとし生けるもの』は評論家の批評は良かったんですよ。僕の読んだ雑誌に「大型新人登場」とあったからね」

 

千野「いやあ、大型ですよね」

 

西河「作品そのものについては悪くとも、作品を作った作家の将来性ということについては割合良かったんですね。そのことに対してはいいんだが、内容については自分自身あまり気に入ってないね。中略。『生きとし生けるもの』は非常に生々しい社会主義論争みたいなものをやるんだよね。あれは、当時の僕の学生時代からのことが尾を引いているんだね」千野「思いみたいなことが?」西河「第一回作品に選んだということは、学生時代からのことが尾を引いて、やはりそこに思いが入ってるんだね。僕らの年代の人間というのはね、社会主義か資本主義かということをもの凄く真剣に考えていたんだよ。学生時代はそれで論争していた。だから特高なんかに来られたこともありますよ。そういう論争を学生が集まってしている時代だからね」

 

千野「日大の中でも?」

 

西河「日大ではそういうことはなかったけど、今村泰平という評論家がいてね、「映画集団」というのがあった。僕はその外郭団体にいたわけです」

 

千野「それはいつ頃ですか?」

 

西河「学生時代。川島雄三もその時いたんだよ。彼は明治大学から来てた。だから、明治とか中央とか上智とか私立校だよ。東大系は全部「映画評論」というのに入っていたからね。中略。その次の『春の夜の出来事』(1955年)というのは、これも僕の出した企画だけど、あの時点ではもうかなり中平(康)に引っ張られてる。当時、中平と僕はつるんでる時代で、『生きとし生けるもの』もチーフだったし」

 

千野「浦山(桐郎)さんがいじめられたという事件もありましたけど」

 

西河「中平と読むものが割と同じだったんだ。ケストナーとかね。早川ミステリーなんかは僕と中平なんかほとんど...」

 

千野「そう、中平さんもミステリー読んでおられましたね。そして、好きでしたね」

 

西河「そう、もうあれ読んだかなんて、争って読んでた時代だから。ケストナーもそうだったのね。あれは多分ね、中平にけしかけられたんだ」(中略)

 

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千野「『生きとし生けるもの』はずいぶん粘ってますよね。あれは、キャメラは高村(倉太郎)さんですか?」

 

西河「そう。『生きとし生けるもの』まで、大船で2本撮ってるでしょ、そして短編を何本も撮ってるんだ。最初から全部高村君だよ。中略。こっちに来て撮ることになったんで彼を呼んだんだから」

 

千野「作品は、僕はずっとついてて、西河さんはかなり粘りますよね。西河組というと徹夜になるのはあたり前で」

 

西河「できた写真を見るとそんな感じに見えないのね(笑)。千野ちゃんがついてる無国籍時代のそれというのは写真を見るとそうは見えないけど、現場ではかなり丁寧に撮ってるね」

 

千野「特に西河さんの『東京の人』(1956年)とか『永遠に答えず』(1957年)なんかはけっこう丁寧に撮ってますよね」

 

西河「『永遠に答えず』なんて何でもない写真だけどね。昔ながらのメロドラマ的メロドラマというものだけど。有線放送で放送したというのでビデオをもらってしばらくぶりに見たけど、自分でも驚いたくらい丁寧に撮ってるね」

 

千野「西河さんはとにかくテストが多いので、私がテストを減らすため「本番いきましょうか」と言うと、西河さんが「いや、もう一回」と言うコンビになったんですが(笑)。西河さんはご自分でどうだったんですか?」

 

西河「後でね、西河組は徹夜が多かったとかね、夜間になるとずいぶんリンゴを食べさせられたから、あの監督さんはずいぶんリンゴが好きなんだとか言われたから(笑)、そうかなあ、俺そんなにやってたかな?なんて思ったけど、今写真を見るとね、やっぱり、ああこれは大変だったなあって気がする。今はとってもこんなことできないなって気がする。よく人に(映画を撮るのは)どういう目的?とか何とか聞かれるけど、そのころね作品を作るのに目的もへったくれもなかったんだよ。ようするにね、客観的にいえば撮影所が経済的にまだいい時期だから、なにも僕だけじゃない、全員が遊んでたんだね。撮影所の中で全員が遊んでたよ、あの時代は。現場だけじゃないよ、企画部長も製作部長も全員が遊んでたんだよ。遊び半分に映画を作ってたんだね。あんなこと、ちょっとできないな、今。なにも、一人の監督だけが遊ぶなんてことではないからね、もう撮影所全体が遊んでた。撮影所の首脳部はじめ、遊び半分で映画を作って、けっこう商売になっていた時代だから、遊び半分にやっていたという気がするね」

 

千野「あれは他の撮影所にないものがありますよね」

 

西河「だから、それが日活映画の一つの特徴だね。若さとか活力とかになって現れてるものね、その遊びがね」

 

千野「百恵ちゃんの作品とか、それ以前は小百合ちゃんの写真なんかで、文芸物がありましたよね。西河さんは坂上(静翁)さんと組むことが多くなって、それはかつて志賀直哉とか、そういう小説を志した者の文学への憧れみたいなものが西河さんの中にずっと持っていたんですか?」

 

西河「いやあ、そういうことは全くなかった。なぜなら、小説家志望の時代に石坂洋次郎なんか全然ダメだったものね。同僚に石川洋次郎ファンがいてやたら読み漁ってるようなやつもいたけど僕は全然ダメだった。読んでも受け付けないというか、僕には合わないたちの小説家だった。一本だけだよ、『若い人』は感心したけど『草を刈る娘』なんか全然ダメだった、学生時代は」

 

千野「あれは中川信夫さんがお作りになったものを、ご一緒に試写で見たんですが、中川さんとは全く違うものをお作りになってますよね。僕は今見ても非常に新しいと思うんですね。ヌーベル・バーグの影響も多少はあったんじゃないかと、今思えばそういう撮り方をしてますよね」

 

西河「それは全然違うね。あれはある意味、意識的なやり方をしてるわね。意識的な作り方というのをやってて。僕は知らなかったものね、その時は。ヌーベル・バーグという言葉だけ知ってて、何がヌーベル.バーグなんだか」

 

千野「でも、ややそういうくらいの思い切ったものがありますよね?」

 

西河「あれはつまり意図的な作り方をしている。この作品は意図的にこういう風にしようという意図的な作り方なんだ。というのは、どうも石坂洋次郎の小説っていうのは、大体が肌に合わないんだね。かなり原作と僕との間に距離があるんです。だから、あれができたんで、好きならああはならないと僕は思う。西河の青春ものには陰がないとか、にがみがないとかいわれるけど、これは一つは、自分んでは理由があると思う。僕は青春のにがさとか、苦しさとかは、僕の実生活ではほとんどが戦場だからね。殺したり殺されたりする地獄の場ですから、その時代に21歳から28歳くらいまで過ごしてるわけだから、戦場で。青春のにがさとかそういうものは、もういいやっていう感じが最初からしてるわけだね。で、そういうものに自分が突っ込んでいくとか、その中でものを考えるとかいうことはもう必要がないと自分が思ってるわけ。中略。(物事の)暗い面を引き出して、非常にリアルであるとか、そういうものを見たことのない金持ちの子は、ああこれが現実なのかなんて思う人もいるけど、実際そういう場にいる人間はそんなものどうでもいいんだ。家に帰れば見られるよ。自分は劇中人物であるというのが普通なんだから、無理して嫌な面というのかな、それを描く必要はないと」

 

千野「前にもお聞きしたんですけど『日本列島』という企画をお断りになったと」

 

西河「『日本列島』というのは読んだだけで、こんな話はやりたくないからと。大塚和という人は、僕が青春ものとか無国籍ものとかをやってる最中だから、昔から知ってる仲だから、一本ぐらいこういうちゃんとしたのをやったら、という好意で来た話だと思うけど、僕は考え方としてこういう暗いものはやりたくなかった」

 

千野「それは社会的知名度が上がっても、生活の場が奪われてしまうというような?」

 

西河「そういうことではないね」

 

千野「用心深さというような?」

 

西河「そういうことより僕の場合は、これは誰が見るんだというね、それが一番大事なことですよ。つまり、映画というのは面白いということが一番大事なんでね。観客が面白いと思わなければ作る意味がないということだね。一番簡単なのは、映画館に行って人が入ってなきゃダメだということ。自分の作品をやってる時にパラパラッとしか人が入ってなかったら、こんなつまんないことはないんだ。やっぱり、みんなワーッと入ってて、作った映画をみんなが喜んで見てるという状態が良い状態であって、ということがあるね」

 

千野「それは、松竹時代における自分の思いですか?」

 

西河「それは思いというよりは、もっと言えばそういう畑で育ってしまったということかな。当たるか当たらないかが問題なんだ、松竹の場合はね。言い方としては、そういう風に育ってしまったといえるね」

 

千野「西河さんはギネス・ブックに載るほどのリメークの監督になっていったんですけど、撮り方も僕が(日活で)ついてた頃とは違って、外に出たら割り切っていくようになったんですが、そういうことを平然とおやりになれるようになって、これはある種の?」

 

西河「リメークは意図的なものじゃなくて、結果的なものだね。じゃあ、他のリメークじゃない良いものが探せなかったということよ」

 

千野「職人監督というのは、まあ嫌な言葉ですけど。それに徹しようという気持ちは、ある時から?」

 

西河「意識的にそうなったことはないけれども、結果的にそうなってるということはあって、時期というか、むしろごく最近になって、ああ職人監督というようなやり方をしてきた、例えば僕なんかは典型的なタイプなんだとある時思ったんでね、やってる最中にそういうことを思ったことがなかったね」

 

千野「画のつなぎなんかも、西河さんは見事に巧いですよね。長い助監督生活をした者でないと、ああは撮れないと。だから、早く監督になった人は画のつなぎが下手だと、よくそういう話が出るんですが」

 

西河「最近そういうことが話題になるんだよ。つまり、最近は新人監督が多いから。画がつながらないとかさ、一本は良かったけど、二本目がどうとかさ。つまり、職人監督でないから、アマチュアだからとかいうことがあるけど、一番大きな原因は助監督をやってないということですよ。助監督をやってないとどうしていけないかというと、やはり助監督をやって一本の作品につけば、一本撮ったと同じでなきゃいけないんだよね。ただカチンコを叩いて、ただ他人事のように過ごすと、もう何本ついても同じことだけど、僕らの時代はもうぴったりくっついてるからねえ。助監督やったってことは完全に自分でもう一本撮ってるわけね。あそこのつなぎはまずいなあ。あれはこうやるべきだった。いきさつを全部知ってるわけだから、監督は会社に負けてああしたけど、もっと頑張るべきだったとか、試写を見た時に、ああまずかったなあとか。助監督から一本になって初めて自分の名前を出して監督した時、その時はすでに十何本撮った監督なんだよね、その人は。僕の場合なんか明らかにそうね。だから感激はないよ、一番悪かったことはね。一本撮る、ヨーイ、ハイ、と言うことに何の感激もない。昨日までの仕事の延長上を、自分の名前が出てやるというだけのことだったからね。助監督は本来そういう性質を持っているから、助監督をやったということは、失敗を何度もして、試行錯誤をしているということなんだよね」

 

千野「西河さんはほとんど女性映画ですよね。自分の中での女性との戦いと言うか、女性に対するアレはあるんですか?」

 

西河「最初からもてないというのが大きな原因だなアレは」

 

千野「共通した少女に対する美意識というのがありますよね?」

 

西河「今の言葉ではロリコンなんだよな。だから、大人になるとダメなんだ。今は、大体十七歳位が限界になってきたけど、昔は二十歳になるともう怖いんだよね。怖いというか、嫌になるというか。吉永小百合は二十歳までしかやってないよね。十五歳からやってるんだからね、ずっと。それから、山口百恵も十五歳から十八歳までしかやってないよ。後は全然やってないものね。何故かその時代だけでね。もう年代が下がって来てるからね、二十一歳の時の作品を、やってる最中に小百合ちゃんも怖いなと思ったことがある、見ててね。山口百恵はもう十八歳の時にね、もう小百合の時とは時代も変わって来てるし、こっちももう老化してるのかな、向こうも成長度が早いからね、もう十八歳の時に怖いなあっていう感じがしたもん」(中略)

 

 

 

千野「最後になりますが、監督協会の今後について何かメッセージを」

 

西河「もう今や、分からないよね。監督協会の内情というかね。分からないけど、やはり一番大きな問題は監督の質の問題だろうね。映画界全体の問題でもあるしね」

 

千野「それは、やっぱり質が下がって来ていると?」

 

西河「下がってきている。それは、監督だけじゃないよね。スタッフも下がってきている。中略。僕は一年に6本も撮ってるんだよ、あの当時。なんとか小僧とかね。(※『すっ飛び小僧』『疾風小僧』『竜巻小僧』1960年)プログラム・ピクチャーをね。写真を見ると、今これをやると、えらいことだ、3億5千万はかかるぞと。3億5千万の写真を一年に6本撮ってるわけだからね。それを28日とかで撮ってるんだ、あの時代ね。徹夜やったり、なんかして。40日なんて写真はないんだからね。今、これを仮に3億のお金を出して撮れって言ったって撮れないなと思った。もう、それだけの能力が日本映画にはないなと思ったよ。スタッフがまずいないね。当時のスタッフだからこそ、28日でこれだけのものができたんだけど。中略。映像ビジネスというのは、まだまだ、ビジネスとしてはありますよ。ただ、僕が考えているような映画というものは、だんだん衰微していく一方じゃないかと思うね」

 

千野「そうすると、後悔とか残念だというようなことは?」

 

西河「今、思い出しても残念だというようなことはないね。日活に来る時はもの凄く悩んでいるからね。悩んで、悩んだ末、決断しているわけだからね。良かったと思ってるもんね」

 

奥中「それじゃあ、映画人生を振り返ってハッピーですか?」

 

西河「そうねえ、僕なんかハッピーな方じゃない。僕の程度っていうと変だけどねえ」

 

千野「勲章をもらったのは非常に驚いたでしょうけどね」

 

西河「ああ、その勲章はね、意外だったけど。これはね、もらってそう嬉しいってほどのもんじゃない。お金がね、年金かなんかつくと、これはもらって良かったって感じだけど(笑)」