
わが映画人生 マキノ雅裕監督編
わが映画人生/マキノ雅裕監督
1988年10月27日 東京都目黒区のご自宅にて
インタビュアー澤井信一郎
担当・構成 奥中惇夫
マキノ雅裕監督の魅力的な独特の言葉づかいを再現したかったが、文字だけの読み物となると意味を通すのがたいへんむずかしくなる。
多くの部分において、ニュアンスを残しつつも言葉を略したり前後させていただいたことをおことわりさせていただきます。ご了承下さい。 採録 石川均
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澤井「このたび監督協会が、映画界の大先輩の方々の貴重な体験談なりをビデオにおさめて永久保存しようと、そういう一連の事業といいますか試みをはじめまして、この人を抜かしてはそういう証言も得られないという、そういう第一人者のマキノ雅裕先生を、長い間ずっと先生の下で助監督をやらせていただきました澤井がおたずねして聞くことになりました。おそらくいろんな貴重な話が聞けることだと思います。よろしくお願いします。まず協会の方から質問ができてまして、映画監督を志した動機を聞いてくれというんですけど、まあ先生の場合はわれわれとは違うと思うんですけど。語り始めるとお父さん(マキノ省三)のこととかあると思うんですが」
マキノ「はい、これは恥ずかしいんですけど、ええ、恥ずかしいってのもおかしいんですが、小さい頃から子役で育ってきたもんでね、学校やってもらえなかった。やっと入れたと思ったら中学で、高校一年の時ラグビーで優勝(京都一商でラグビー全国優勝)しましたもんですから、このままだと親父は大学までいきよると、そう思ったんですね。それで親に退校させられたんですよ。もう学校いくなと。役者が足らん。大人になったんだから役者やれと。私は上の学校にいきたかった。仕方無しに退校届出されてね、ほかの学校にもいけない」
澤井「今と逆ですね」
マキノ「なにもおとっつあんがね、でもそれほどに考えてみると親父っていうのは映画を愛してたと思うんですよ。自分が作り出したわけですから。それで私が17歳ですか、17歳で一年役者をやり、親父が監督だったら助監督でしょ。それで現像覚えろと現像を覚えさせられ、やれ小道具はこうだとか時代劇だったら刀はこうさすんだとか、見てるうちに覚えちゃったんですね。それで見ながら思ったのは、出来たら、映画を作るのに一番えらいと思うのは、えらいっていうのはおかしいんだけど、1は脚本だっていうんです。昔の言葉で言うと1はスジだって云うんですよ。2はヌケだって。ヌケってなんだっていったらつまりカメラですね、ライト。現像。こういったものがヌケだって言うんですよ。つまり白黒ですから、ヌケがいいとか悪いとかいうんです。白黒で映写されるもんですから、ヌケがよくないとはっきりしないんですね。3は動作だって。監督も役者も同じなんです。親父から見ると。自分で監督してたから卑下してたんかも知れないけどね。監督も役者もひとつのことだと。こういう連中の手助けがなきゃいいもんもおもしろいもんも作れないんだと、しょっちゅういってましたよ。

その時にシノプシス持ってきた連中にね、今東光がいたりまたTBSの会長になって最近なくなられた今西って人とかシノプシス運んでましたね親父のところには。聞くと10円もらってた。そういうことがどんどん耳に入ってくるんですよ、だからシナリオ書かなきゃ映画人になれんのだと思って、その時に子供の歌で流行ってたのが『青い眼のお人形』ってのがあったんです。それが非常にこう哀れっぽいんですね。その当時アメリカっていったら尊敬するところでしょう?そういうところがセルロイドの人形送ってきてね、涙が出るっちゅって。日本のみなさんかわいがってやってくれってんですね。これがもう非常になんかセンチメンタリズムでいい歌じゃないかって思って、最初に書いたのがその歌の話なんです」
『青い眼のお人形』26年
マキノ「で、親父が読みよって、いいっちゅうんですよ」
澤井「どういうお話を書いたんですか。マキノ雅裕第一回脚本というのは」
マキノ「さあそれは思い出せない」
澤井「思い出せないですか」
マキノ「どうもギャング映画らしいんですよ。それに追いまくられてる親と子供の話らしいんですよ。なんかそれが歌と合ってんのがおかしいんですよ。ピストル撃ってるから、今でいうギャング映画じゃないでしょうか。まあその本書いたら気にいっちゃったんですよ親父が。みんなもいいっちゅうんですよ」
澤井「当時ギャング映画といったら新しいというかすごいもんでしょう」
マキノ「ちゃんばらばっかりでね。現代劇ならラブロマンとかしかなかったですよね。で誰が撮るんだってなって、富沢進郎て監督が、わしが撮りたいっちゅって。それで親父がおまえ本書いたなら手伝えってんですよ。それでやってたんですが、ふっと病気になっちゃたんですよ」
澤井「富沢監督が」
マキノ「そう。ほな待たなしゃあないって。いや急ぐんだってことになったんですよ。で、ほかにやれるもんがいないんですね。誰も撮り手がいない。そしたら親父に呼ばれてね、おまえ撮れっていうんですよ。え、わしなのか?うん撮れと。だって俺監督なんてわからへん。何言うてんねおまえ、役者が芝居してんのいろいろに撮ったらいいんじゃないか、小さい時からいろいろ見ててわからんのかとこう言うんですな、怒ったように言うんですよ。やだっていうわけにいかないしね。

自分で希望すりゃね、いい本さがしてさ、いい企画でさ、澤井君でもそうでしょ?(自分は)18か19歳だったから、考えにも及ばんですよ、そういうときに役者友達におだてられて。それからまあ親父がもしよかったらと言うんですよ。これは何かくれるんかと、月給でもあがるんかと思ったら違うんですね。もしよかったら(クレジットを)富沢進郎の名前にしてやれとこうですよ。悪かったらおまえの名前だって。それはおまえに責任がある、本を書いた責任があるって。だからおまえがいい物を作れ。富沢が撮ったのよりいい物を撮れば富沢の名前にしてやったら良いじゃないかと。おまえなんかこれからで良いんだって、中年のうちに監督になったら良いんだよって。そりゃまそうだなってそれで撮ったんですね。試写までちょっと分からんわねこっちは。良いか悪いか」
澤井「ラッシュって言うもんは昔は?」
マキノ「無いです」
澤井「無いんですか?」
マキノ「撮ったネガを編集するんです」
澤井「焼かないわけですね?」
マキノ「そう、手袋はめてね。これはもう訓練でしたよね。耳しかさわれないんだから」
澤井「そうですよね、触ったら指紋とかいろいろ」
マキノ「それで白い紙の上で見るんですよ。見て、あっこっちあきよったって。拡大するわけじゃないんですよ、自分の目で見なきゃいかんのですよ。そこにタイトルいれてうったり全部自分で編集するんですよ監督は」
澤井「そうしてみるとやっぱり今では日々ラッシュを見てうまく行ってるなって分かるけれども」
マキノ「試写がないとまず分からないでしょう。ライトが入ってるやら」
澤井「クランクアップして編集して一本に焼いたわけですね?」
マキノ「焼いて試写会ですね」
澤井「その時はドキドキですか?」
マキノ「やっぱりドキドキしましたね。で、見てるうちにつまり、絵を見てるより親父の顔を見てるほうが多かったですね。嫌な顔しよったら困るなと思ってね、と言うのは自分の名前がでるとか出ないとかじゃないんですね、誰の名前でも良いんですよいいものが撮れてれば。もう見ていられんですよ。タイトルなんかないし始めは。後で付けることにしましてね。いきなりシーン1から出たわけですよ、試写ですから。
そしたら親父がタイトルは富沢進郎、監督は富沢進郎って」
澤井「じゃあ合格ってわけですね」
マキノ「ええ合格です。みんなうわーって喜んでくれたんですね。自分の名前出るとか出ないとかじゃなくて、やっぱ嬉しかったですね。ええそれが第一回ですね。自分の名前ではないです。261本撮ってますけど、本当の自分の名前って言うのは一本抜けてるわけですよ第一回目が」
澤井「そうするとマキノ雅裕名としては260本ということですかね」
マキノ「他にも入ってないのがありますよ。260本の中に人の名前で。トーキーなんか人の名前で撮ってるの多いですよ」
澤井「稲垣さんの名前になってるのありましたよね」
マキノ「稲垣君のね、一本」
澤井「高田馬場(『血煙高田馬場』)」
マキノ「共同監督になってますけど1カットも稲垣は撮ってないですよ」
澤井「そうですよね。それで第一回はそういうことですよね?」
マキノ「いきさつはね。その明くる年になってみんなに言われたんですよ。
富沢監督がまだやってるんだったら、まあちゃんも監督やれよって言うわけ。俺が言ってやる俺が言ってやるって言う連中がいっぱいいましてね、おやじに食い下がってくれた。で役者の合間に撮らせるっていうことになった。でも良くなかったですね2本目も3本目も。自分で見てがっかりしちゃって。あーやっぱり俺は出来ないって。19の時はその時の経験がね、
澤井君にも2本目が注意だよって言いましたよね」
澤井「言いました」
マキノ「と言うのは1本目にみんな出しちゃうんですよ。こう撮りたい、ああ撮りたいということがみんな出てしまうんですね」
澤井「そうですね」
マキノ「で、2本目になるとやれると言う自惚れが出てきてしまうんですよ。脚本が1番でも俺が撮れば何とかなるってこう生意気になっちゃうんですよ、逆になってしまう。やっぱりいい本で撮らないといい監督は出来ないんです」
澤井「貴重な証言ですね。いい脚本で撮らないといい映画はできない」
マキノ「いい脚本を狙うっちゅうことです」
澤井「悪い脚本でも俺の演出力をもってすればなんていうのはダメだというのはその通りですね」
マキノ「しかし僕の場合はそれがでてしまったんですね」
澤井「評判が良かったから自信持っちゃったんですかね?」
マキノ「持っちゃったんです。今考えると『青い眼のお人形』はよっぽど良かったんじゃないかと」
澤井「そりゃ見たいですよ」
マキノ「もうありませんよ」

澤井「話が前後しますが 僕らは無知ですからしかもこれから出てくる若い人たちはもっと昔の映画に関して知りませんから」
マキノ「そうですね」
澤井「無声映画ですよね、昔は。それでは劇場で見るときは弁士がついていろいろ楽隊がついたり。それではそういうことを計算して撮るんですか?」
マキノ「そうそう」
澤井「それは計算しながら撮るんですね」
マキノ「つまりね。山上伊太郎がうまい脚本を書くということで売り出したということは、弁士をあてにしたということですね」
澤井「なるほど」
マキノ「だからラストシーンなんか必ずうたい文句が入ってる」
澤井「入ってますね」
マキノ「それでいい写真になったんですね。『浪人街』('28年)の時にね、映画館に見に行ったんですね。それが面白くないんですよ。タイトルが出るだけで、こら、ちゅうだけのことでね。つまり弁士がうまくないと面白くないんですね。こっちは面白いつもりで撮ってるのにね、動きとかもね、つまり弁士の台詞の言い回しがこちらの思っていた言い方とぜんぜん違うでしょう、撮ってた感じと。困ったなーと思ってつまんないなと思ったんですよ。ところがこれがベストテンのトップ(キネマ旬報1位)になったんです。分からないですわしには」
澤井「色んな人が試写や映画館で見ると思うんですけど、見るところによって弁士が違いますよね?」
マキノ「違います」
澤井「だからうまい弁士に当たれば気持ちよく見れるし」
マキノ「と思うんですよね。僕はしかしね、あの時分のキネマ旬報は買った人が票を出すんですよ。批評家じゃないんですね。
あれが旬報で三回目ですかね。『浪人街』誉められたの、昭和3年に撮って翌年に賞をとってそれを貰いに行きましてね。上映会で前半を古川ロッパが俺がやるって言いだしましてね。それで後半を徳川夢声があの頃のナンパーワンですよね。徳川夢声っていったら。無声が、あれは俺がいいんだって言うんですよ。まあまあちゃん聞いてよって 俺はどんなにいい写真か分かってるって。でも俺は面白くないんだよ」
澤井「何処の講堂ですか?」
マキノ「朝日講堂です。東京の朝日講堂で」
澤井「凱旋興行ですね賞貰ったんで」
マキノ「で、見てたらですね、みんな年上ばっかりなんですよ大学生とか。おかしいなーと思って」
澤井「監督若いですからね」
マキノ「こっちは若いから、これは上に上がったら恥ずかしいと思って自分で。山上、三木実、うちの親父とまず一番は山上伊太郎なんですね」
澤井「1スジですもんね」
マキノ「次が三木実」
澤井「ヌケでね」
マキノ「3が監督なんですね」
澤井「動作の人ですね」
マキノ「監督にくれるんじゃないんですから。会社にくれるんですからね」
澤井「ああ、作品ですからね」
マキノ「作品は会社なんですよ当時は。だからわしが会社の代表なんです。行きましたらね、素晴らしい映画に思えたんですよ。弁士のうまさですね 実に感じが出てて弁士はロッパがやったんですが終わってからどうだ!雅裕うまいだろうって。京都あたりにこんな弁士いないだろうって。いないっていうようりしゃあないんですよね」
澤井「でも先生。少し話がずれますけど僕も部分しかフイルムが無くて見てないけど仮に弁士がいなくてもこの映像が優れているんで、それを弁士が少し足したと言うだけで、弁士がいるから良くなるってもんでもないんでしょ?」
マキノ「いや、それがその時分はやっぱり売るのが役者ではないんですよね、監督でもないし」
澤井「弁士ですか?」
マキノ「弁士を映画館が売るんですねー略ーだって監督より役者よりも映画界では弁士が一番高いんですもん。有名になればなるほど。だってじかに人を集める人ですから」
澤井「そうですね」
マキノ「だから弁士の取りっこになりますね。役者の引き抜きっこの騒ぎじゃないですよ。その時分はですよ」
澤井「今で言えば初号にになるんですが、たとえば会社の試写で『青い眼の人形』の時は弁士はついたんですか?」
マキノ「いやつかないです」
澤井「社内の時は絵だけを見るんですね。みんな分かってるんですね何をしゃべるか」
マキノ「タイトルを弁士が語れるようにと。1字4コマでした。はっきり記憶があります」
澤井「1字4コマ」
マキノ「タイトル決めると何コマって知らせれくれるんですよ」
澤井「いろはにほへとと書きました、と13あるとすると」
マキノ「4コマずつです。その時分の回転がもう16コマになってましたからね。この計算は弁士のためにやったものでしょ」
澤井「あれ結構お客さんも読んでますよね(字幕を)」
マキノ「読んでます。それを弁士の調子に合わせてますね。
つまり時代劇になるとさらさらと言わないんですね。現代劇ではさらさらといかないんですよ。タイトルになるぐらいだから肝心な台詞でしょ。その台詞を生かすとなると弁士が語らなきゃしょうがない。昔になったらもっとひどいもんですよ。こわいろ(声色)家が何人も並んだんですよ。大勢の声までみんなやったわけです、それから弁士になった。
大変な進歩です。こわいろ家をやっている時分はタイトルが無かったんですよ」
澤井「なるほど」
マキノ「初期はベベンベンベン、やってればいいんですから。歌舞伎の写しですから。忍術もんだってやあやあってやってればいいんですから。新作っていうのはなかったんですね。立川文庫が出来た時分から問題があるって思ったんですね」
澤井「タイトルは時々カットインしますよね。それはシナリオライターが決めてくるんですか?それとも監督が決めるんですか」
マキノ「いえ監督は決めませんよ。無声時分には監督の意見は通らないですね。タイトルとタイトルの間でですね、演技が良くないとタイトルが生きないわけですね。劇を全部、タイトルを読ませてるような物しかできなかった。タイトルが多ければ多いほどやりにくかったですね監督は」
澤井「『浪人街』はタイトル多かったんですか?」
マキノ「いや短いのが多かった。それが良かったみたいですね。【コラ】とかね。【裏返ったか】【いや表返ったんだ】とかね。そういう短いのが多かった」
澤井「説明と言うよりもリズムを出すためのもの」
マキノ「そうそう」
澤井「ああ、そういうのってやりがいありますよね」
マキノ「それが山上がいい脚本を書くって言うことになった原因じゃないですか」
澤井「ああ、そうですね」
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マキノ「1番最初に親父がトーキーをやりたいって言い出したんです。昭和4年だったですかね。でもそういう機械が事務所に無かったんですよ。無かったもんだからレコードでやろうと言い出した(マキノトーキー・レコード式)。これはね、12インチ盤を作って入れても300何フィートしか入らないんですよ。今みたいなレコードだったら小さくてもやれるでしょ。ああいう磁気になってないんですね当時は。
それで撮らされた事がありますよ。つまり大薩摩とか古い芝居を、戻り橋撮ったんですよ。僕それ1本撮ってレコードにいれて映写機のモーターでレコードを回すわけです。レコードのところに印がついてまして、映写機と印を合わせてシャフトでつないだんですね。それでスイッチを入れると音と絵がシンクロしました。アフレコですけど。全部アフレコでやったんです。だから撮る時は難しかったですよ」
澤井「レコードは何分持つんですか?」
マキノ「4分ぐらい」
澤井「そうすると4分になるとまたかけかえるわけですか?」
マキノ「そうそう。こっちに置き換えバーッと。だから映写室から怒って来やがったですよ。こんなせわしないって」
澤井「せわしないですよね」
マキノ「映写技師は大抵(フィルム)かけると遊んでられる。1人で外へ出て遊ぶんですね。タバコ吸ったりして」
澤井「10分間ぐらいはね」
マキノ「映写室というのはフイルムが焼けるからタバコは吸えないでしょう。吸うには表出なきゃいかんですよ。それが中に入ったきりで、2人掛りでやっても8分だから休む暇なくってね、これはもう館主からしかられましてね。だけど客が入るからしょうがないんですよ」
澤井「そのシステムはマキノトーキーの第1回?」
マキノ「第1回」
澤井「マキノトーキーはそのシステムでスタートしたわけですね。何本ぐらい作ったんでしょうねその方法で?」
マキノ「だいぶ作ったらしいですよ。僕はその1本で止めましたけど。もう堪忍してくれって頭痛いって」
澤井「昭和4年から?」
マキノ「いや3年から4年、3年かな?撮ったのは」
澤井「その当時は何本撮ったか知らないですけど無声映画半分トーキー半分ですか」
マキノ「マキノトーキーはうちだけです」
澤井「全部トーキーになっちゃったんですか」
マキノ「いやレコードだけ」
澤井「もう無声映画は撮らなくなっちゃったんですか?」
マキノ「それで親父が死んでから絶対作らなかった。親父がいやだって言ったんです。死んじゃったんですから4年に、見もしないで。せめて試写だけでも見てくれっていったんですよ。音が合ってるからって。
親父が教えてくれたんですよ。あのな雅裕、トーキーっていうのはフイルムの上に音が入るんだ。その機械はあるんだけどどうしても俺は使えなかった。だからそこに行って勉強してこいって教えてくれたんですよ」
澤井「それは何処に勉強に行かれたんですか?」
マキノ「牛込の。つまり、早くに亡くなりましたけどオオタシンイチってね、これは何ていうんです?大日本、大がついてました。名前忘れちゃったけど」
澤井「そこが機械を持ってたんですか?」
マキノ「いえどっかにお金を貸して、その担保として取っちゃったんですよ」
澤井「はあはあ。ではその当時、日本にもモジュレーションシステムの機械はあったし、そういう風にしてトーキーを作ってたところは結構あったんですね?」
マキノ「いやそんなになかった。持ってても作れる人がいなかった」
澤井「なるほど」

マキノ「だからなんか細々とやってたらしいですよ。会社が買ってくれればいいんですけどなんかあんまりたいした事はやってなかったですね。だから音って言うのが出来たのは日本でいえばPCLですね」
澤井「先生が映画監督として撮りはじめてサイレントからトーキーに変わったり、トーキーでも録音の機械が未熟だったのが良くなったりということで、映画監督としてシナリオを書いたり演技をつけたりするのと同時に機械の進歩にあわせて撮り方を演出を変えてくというか、変わらざるを得ないことになりますよね」
マキノ「ということになりますね」
澤井「両方勉強しなきゃならなかったんですね。でも先生、機械好きだから」
マキノ「いや機械好きじゃなかったですけどね。つまりねトーキーになるって言って親父が死んだもんですから。だからその僕がトーキーを撮れる装置にせないかんでしょ。まだ親父が生きてる時分ですから。電球で映画を撮らんとあかんで、っちゅうことになったんですよ」
澤井「今度はライティングの話ですね?」
マキノ「ライティングの話。まずライトが音がしたらあかんでしょ。カメラは何とかなるだろうと。だけどライティングはその頃カーボンですよ」
澤井「ぴしぴしっていう」
マキノ「もうジジジジていうですもんね。ライティングを電球に変えたらね、直流する必要がないっていったんですよ。だから電球で1回撮ってみようっていったんですよ」
澤井「そのころで日本では電球ではなかったんですか?」
マキノ「なかったんですよ」
澤井「オールカーボンシステムですか」
マキノ「昭和4年まで無いんですよ。その時に『首の座』って本を親父がぱっとくれたんですよ。気が悪いでしょ、親父病気で寝てるのに首の座なんて。題名変えようよって言ったら俺が首の座に乗ったっていいじゃないかっ言うんですよ。首の座って、違うぞ考えが。死ぬことじゃないぞバカって。死ぬことだって言ったらいやいいんだ、死んでもいいから、これを電球で撮ってみろって。エッということになって、その本で、三木実と電気屋の照明部とでね、スポットも電球でやろうって。今1番明るい電球はどのぐらいあるって、松田電気で聞いたら500ワットがトップだったんですよ。それ用に機械を叩いて伸ばして作って。
ミラーをつけてレンズつけてスポットにしたりそうやってね。そしたらフイルムの感度が問題だと。調べたらドイツのデュポンのタイプⅡって言うのが一番感度がいいっちゅうわけですよ。それでドイツから取り寄せたんですよ」
澤井「その頃のフイルムの主な輸入国はアメリカですか?」
マキノ「アメリカです」
澤井「国産はありました?富士フイルムとか」
マキノ「まだ出来てなかったですね」
澤井「それではフイルムは全部輸入に頼ってたんですか?」
マキノ「そうです。主としてアメリカ」
澤井「で、ドイツに感度のいいフイルムがあると言うのを聞いて電球用に買ったんですね」
マキノ「レンズでは19以外では明るいのは無かったです。それは三木が持ってたんですよ。それでテストをしたらこれが写るんですよね。写るんですよ。写る写ると。暗い中でライト点けてやるんですけど、これぐらいひくまではやれるとか外では何処でもやれるんですからね」
澤井「デイシーンはね」
マキノ「むしろ補助に使ってもいいですね。電気代がいらないでしょう。直流じゃないんですからね。交流を直流に直してカーボンにして出すんですから。日活なんて大変な設備でしたよ。交流を直流にね、大きいモーターが回りまして。こっちはそうじゃないでしょう。ジャバラみたいのがあってそれを突っ込んでこんなコードにして直流にして直してましたから。こんなの小便かけようものならすっ飛んじゃいますよね」
澤井「感電で」
マキノ「3200ボルトですか。ボルテージが上がるわけですから」
澤井「先生感電したって話を聞いたんですが」
マキノ「ああしましたよ。ボーンと飛ばされたんですから、暗がりですからね。そんなとこだから目をやられるんですよ」
澤井「カーボンの場合は」
マキノ「ええ。だからなんとしても電球で撮りたかったんですよ。役者やってたから。撮影後の朝、眼が開かんのですよ。埃っぽいとこでライトかけるとね」
澤井「そんなつらいもんでしたか」
マキノ「つらいもんでしたよ。うちの会社だけじゃないですよ。どこもかも中止になることが多いんですよ。目がやられて真っ赤っかですからね。赤が黒く写っちゃうんですよね」
澤井「白黒ですからね」
マキノ「だからどうにもならんのですよ。だからなんとかカーボンを電球にって。役者時分から、17、8歳からそればっかり気にしてましたね目をやられるって。
だから電球になったらなあ、いいのになって夢だったんですよ。それでトーキーの問題が出てきたでしょ。それをカーボンで撮ってるんですから、サイレント撮って後でアフレコするんですから。24コマで回すんですから。考えたら24コマ回さなくてもいいわいって。レコードを遅く回せばいいんだから。でも音屋が、変わるって」
澤井「ああ、音が悪くなる」
マキノ「やっぱりこまるって。物によって改良されてるんですね。レコードもレコードなりに。ボクは電球でとにかく思い切ってやろうと。それがベストテンのトップになっちゃったんですよ」
澤井「『首の座』が。それはマキノ映画の電球ライティング第1回ですか」
マキノ「第1回です」
澤井「じゃあ技術的にも革新的だったんですね」
マキノ「今から言えばね。でも革新も何も考えてないですよ。嫌だからやったんですよ」
澤井「でも結果的に新しくなっちゃった」
マキノ「新しくなっちゃったんですよ。これがもし『首の座』がトップにならなかったら何処の会社も直してないですよ」
澤井「はあはあ。そういう意味では作品の成功が業界のライティングのシステムを変えてったということですね」
マキノ「親父、見てないんですよ『首の座』を。その中途で死んじゃたんです。あがったのが8月ですから。親父がやれやれっていって見れなかったのが、これとレコード式トーキーです」
澤井「僕が聞きたかったのが、その時代の監督は機械のことも多少勉強しないといけない、今までの演出とは違った演出をしなきゃいけないわけですから」
マキノ「そうですね」

澤井「それは先生以外の方でもずいぶん機械のことを勉強したんですか?あんまりいないでしょ、先生ぐらいでしょ」
マキノ「トーキーになった時にね、これ言うたらおかしいんですけどね、誰もが間違ったんですね。映画館にかける為に音を20コマ上げたもんですよ」
澤井「現像時に」
マキノ「映写機にかけるから音は先行しとかなきゃいけない。それを誰も知らないんですよね。
わしは平気で聞くんですよ、俺は大監督だってな顔しないもんですからね、自分は。(映写技師のところへ?)ダーって行って、何で(フィルムは音が)20コマ先にあるんだい?って。出る時は音と一緒なのになんで20コマあるんだい?って。
あれ映写機にかけるからだって。ああそうか、でこっから絵が出て下から音が出るんだって。ああそうかそうかって。
一番早くわかったくらいでしょう。僕が。19コマ3分の2(音が先行している)。
僕はそれから音屋に転向したんですよ。昭和8年で。うちがつぶれたでしょ。勉強に行こうにも借金だらけでお金が無いでしょ。長屋に住んでたら、まあ破産だけ許されて。何10年、何100年かかろうが借金を返すという約束で。それでやっと一人前になれたんですよ」
澤井「(前もっての文書による質問への回答?)この中で思い出に残る作品ベスト3があるんですよ。一つには『首の座』が。これはライティングや作り方の問題としてずいぶん思い出に残っておられて。それから『浪人街』が作品としてもあれだけどもいわゆるノンスターだったということからですかね」
マキノ「ええ。非常に不景気だったから『浪人街』というのはその時に合ったんじゃないでしょうか」
澤井「そして1人のスターを主役にするのではなくて、大勢の特別大スターではない人たちが集まってという」
マキノ「ようは集団劇みたいになったんですよ。これは(こういうものを作るしか)作らないとやってけないんですよ。役者はみんな引き抜かれていったんですから。勘十郎、千恵蔵がもうマキノは潰れるっていうんで出ちゃったんですよ」
澤井「僕はどうもね、先生、のちのちの『次郎長三国志』とかね、いわゆる集団劇が得意で素晴らしい演出をするとつねづね思ってて、そこが一番好きなんですが、どうも『浪人街』あたりに最初の芽があるんですか?」
マキノ「いえば印象に残ってるのが、役者が引き抜かれるんですよ。何て言うか親父がよく言ってたんですけど、役者はミルクで育ててホースでバッサリだって。何がミルクで育ててやとか思うんですけど、役者は大事に大事に育てるんですよ親父は。そのくせ独立させたがるんです。それで何本ものプロダクションが出来て1つの大きいところが配給してくれればいいんだってね」
澤井「映画界全体のことを」
マキノ「考えていたんでしょうね」
~以下略
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