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特集

日本映画監督協会 会員名鑑

わが映画人生

わが映画人生 岡本喜八監督編

『わが映画人生 岡本喜八監督編』一部抜粋

1998年神奈川県川崎市多摩区生田の自宅にて

 

構成 信夫ひろ子

担当 中村幻児・山名兌二

採録 工藤雅典

 

 

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岡本喜八監督 1924年2月17日 鳥取県米子市生まれ

 

                                                                    インタビュアー 恩地日出夫監督

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恩地:お生まれは米子ですよね。

岡本:そう。鳥取の西端。

 

恩地:明治大学を出て東宝に入ったんですよね。

 

岡本:うーん。明治に入った頃、映画を見始めたんだが、戦時中で、教護連盟というのがあって。

 

恩地:あっ。学生は映画を見ちゃいけなかったんだ。

 

岡本:そう、自分の学校の教師は分かるけど、中学や、女学校の教師は分からないじゃない。それで、ご用になって、退学処分だという。

 

恩地:映画館に入っただけで。

 

岡本:それでも、なんとか罪一等を減じてもらって。

 

恩地:卒業できたんですか?

 

岡本:そう。

 

恩地:卒業して、助監督になったのが昭和18年(1943年)ですよね。何歳ですか?

 

岡本:19歳。

 

恩地:昭和18年というと黒澤さんが監督になった年ですね。

 

岡本:そう春にね、『姿三四郎』でね。それである日、黒澤さんが助監督室にいたわけ。原稿用紙のペラの裏ッ側に、二作目になる『いちばん美しく』(1944年)の...。

 

恩地:ああ、奥さんになる矢口(陽子)さん主演で撮ったやつね。

 

岡本:そう、それに出て来る鼓笛隊のコスチュームを描いていた。それで、そこに新米の助監督が3人いて、忠告を受けたの。「助監督には頭で稼ぐタイプと足で稼ぐタイプと二種類いる、でも、足で稼ぐタイプの方が長持ちするよ」と。それが一つね。もう一つは「本を書け」と。

 

恩地:シナリオを書けと。

 

岡本:「あの頃は、忙しかったね。戦争中であっても。でも、助監督でどんなに忙しくても寝る前の一時間くらいは、時間があるだろう。毎日一時間で、ペラ一枚書けば、一年で365枚の大作が書けるよ」なんてね。黒澤さんには助監督ではついていないけど、それだけは、守ったというか、為になった。

 

【中略】

 

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恩地:僕の一年後に石原慎太郎が助監督で入りまして、芥川賞を取って有名になって監督になるという話が起きて、助監督が皆で反対したんです。岡本さんも一緒に反対運動をしたんですが、その直後に岡本さんは監督になってます。あれは、石原が監督になる前に、会社が助監督を十人集めてシナリオを書かせて、その中で良いのに監督させるというのがあったそうで、これは広沢栄さんの『私の昭和史』という本にくわしく書いてるんですが、岡本さんもその十人の一人だったんですね?

 

岡本:チーフをやった事のある連中が十人いて、全部書いて一月の二日までに持って来いと。秋に言われて、もう二ヵ月あるかどうかだった。助監督が47人いたんだよね。

 

恩地:石原反対の四十七士と言われてね。連判状に判を押したから良く憶えてますよ。

 

岡本:交渉でね、石原が監督を受けたら、バーターシステムじゃないけども、こっちからも一人監督を出せと。それで、審査の為に十人がシナリオを書くことになった。俺は既に一本書いてたけど、それはウールリッツの短編集に『万年筆』というのがあって、それはようするに万年筆に爆弾を仕掛けて、それが色々な人間を廻っていって、いちばん最後に自分の息子が死ぬんじゃないかというような話だったけども、俺は新旧ヤクザの対決にからめて、万年筆があちこち廻るという話を書いた。

 

恩地:それは後々、『ああ爆弾』(1964年)になるんですか?

 

岡本:そうそう。書いた時はミュージカルじゃなかったけれど、後でミュージカルに仕立てて、新しいヤクザはジャズが好きで、古手のヤクザは和風の音に統一してやったんだけど。でも、それは翻訳物みたいでオリジナリティがないと思って。戦争が終わった後で、色々引きずっていたものがあったんで『愚連隊』を書いた。

 

恩地:そうですか。後々の『独立愚連隊』(1959年)ですね。じゃあ、『ああ爆弾』じゃなくて、『独立愚連隊』の方を会社に出したんですか?

 

岡本:いや、数打ちゃ当ると思って二冊(笑)。途中で詰まっちゃって、スキーに行って、昼間は滑って、夜は民宿のこたつで書いたの。

 

恩地:黒澤さんのみかん箱よりは良いじゃ無いですか(笑)。

 

岡本:(笑)

 

恩地:それは、書いたんですけど石原をまず監督にすると会社は言ってきたんですよね。結局、石原は監督をして(『若い獣』・1958年)助監督側は敗れ去ったわけですが...。

 

岡本:いや、石原に監督はさせるから、こっちからも監督を出すと。出すことは出したんだよね。

 

恩地:それで、監督になった第一回が岡本さんと須川(栄三)ちゃんだった。その後、古澤さんとか色々出てきたんですよね。

 

【中略】

 

恩地:第一回は『結婚の全て』(1958年)という映画だったんですけど、僕がセットを見に行っていちばんびっくりしたのは、主演の雪村いづみが病気で寝てて、団令子が枕元で氷を掻いているんですけど、そのリズムを「ロックンロールのリズムでやってくれ」と、不思議な演出をする監督が出てきちゃったなと思ったんですけど(笑)。

 

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岡本:あの時はロック監督と言われたな。

 

恩地:なんで、ロック監督なんですか?

 

岡本:ロカビリーのリズムなんてものを割と多用したからね。例えば、歩きのリズムに合わせてやって、シーンが変わると、パッ、パッ、ピーンというラジオの時報に合わせたりとかしたからね、随所にね、リズムを取れそうなものを全部使った。

 

恩地:それは未だにやってますよね。

 

岡本:そう?ばれたか(笑)。

 

恩地:やっぱり、処女作というのは個性が全部出ちゃうんですよね。

 

岡本:そうだね。要するに爆発だからね。溜めてたものの。俺は15年助監督だったからね。15年たって監督になれなかったら、故郷に帰って家業の農業でもやるしかないと思ってた。

 

恩地:その後『若い娘たち』(1958年)、『ある日わたしは』(1959年)とか岡本さんらしくないのばっかり撮ってますよね(笑)。

 

岡本:『若い娘たち』は日劇を客が取り囲んで、三廻り半したって言うんだよ。だからもう一本やれって。『若い娘たち』はウェットな部分があったんで、それを全部切ったら、目方が足りなくなっちゃった。7000(フィート)切っちゃったんで、売り物にならないって言うんで、急きょコーラスのシーンを足して。目方で勝負した(笑)。

 

恩地:その後、『暗黒街の顔役』(1959年)を撮ってますね。『暗黒街の対決』(1960年)とか『暗黒街の弾痕』(1961年)とか3本も撮ってるってことは客が来たんですか?

 

岡本:全部、正月映画だからね。

 

恩地:そうか。正月なら、客は来るんだよね。1959年に『独立愚連隊』を撮ってますが、何本目ですか?

 

岡本:5本目くらいかな。

 

恩地:やっと、5本目でやりたいものがやれたわけですね。助監督の時、やりたくて書いたシナリオがようやく日の目を見たという事ですよね。

 

岡本:そう。本来『肉弾』からやるべきなんだろうけど。変形から始まって『肉弾』で原形に戻った。

 

恩地:岡本さんの原点はやっぱり戦争体験なんだね。

 

岡本:まあ、いちばん響いたのは、町内の小学生時代の友達が一人も帰って来なかったっていうこと。具体的にはね。

 

恩地:始めて、自分のやりたいものが撮れたわけですが、その後はやっぱり当りそうなものばかりやらされてるんですよね?

 

岡本:『独立愚連隊』は最初、そんな題名じゃやらせないって言われたんだ。どんな題名ならいいのか聞いたら『花と馬族と拳銃と』だって言う。要するに三題話しみたいな題名。「そんな題名じゃ僕、やりません」って言ったの。偉そうだけど。それで『独立愚連隊』が当ったら、「いい題だ」って言われた(笑)。

 

【中略】

 

恩地:1960年に僕は、監督になったんですけど、その頃すでに岡本さんは、東宝の若手の代表的な売れっ子監督だったという印象があります。1963年の『江分利満氏の優雅な生活』という映画は、いい映画だったと記憶しています。64年の『ああ爆弾』は東宝の中では有名な作品でして、あれは「変化球投手」って言われたんだよね。「何でお前はストレートを投げないんだ」と。

 

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岡本:いやいや、「ストレートを投げてるんだけど、あれはナチュラル・シュートみたいなもんでちょっと曲がるけど、最後にキャッチャー・ミットに収まればいいんじゃないですか」って言ったら、「馬鹿野郎、お前のはシュートが激しくてバックネットに行っちゃう。あれじゃ、お客に帰れ、帰れと言ってるようなもんだ」と藤本(真澄)さん(当時の製作担当重役)に言われた(笑)。

 

恩地:でも、その後『大菩薩峠』(1966年)とか『侍』(1965年)とか撮ってるじゃないですか?

 

岡本:あれは、自分の本じゃ変化球になっちゃうから、ちゃんとした人の本で撮れと。

 

恩地:67年に性懲りも無く『殺人狂時代』を撮るわけですが、これがオクラになったんですね。

 

岡本:あれは、封切の一週間前にオクラよ。この頃から、酒を飲み始めたの。

 

恩地:岡本さんは、風呂にも入らないけど、ビール半分くらいで真っ赤になっちゃう酒も飲まないチーフだったんだけど、それがこの頃から、僕より強くなっちゃった(笑)。それは、鬱々たるものがあったんですか?

 

岡本:そう、きっかけと言えば『殺人狂時代』がオクラになったから酒を飲み始めた。

 

恩地:『殺人狂時代』がオクラになり「変化球投手」の烙印を押されていたわけですが、何故か同じ年、東宝の代表的大作である、『日本のいちばん長い日』(1967年)を撮ってます。

 

岡本:ちよっと悪いけどねえ(笑)。

 

恩地:いや、悪く無いですよ(笑)。

 

岡本:あれは、『殺人狂時代』がオクラになって一人で飲んでたの。そしたら、藤本さんから「お前、空いてるらしいから、ちょっと寄れ」って声がかかって。代々木上原あたりに呼び出されて行ったら、でっかいブランデーグラスに表面張力であふれる寸前くらいまで、ブランデーを注いでくれて。

 

恩地:あの人はガバガバ注ぐ人なんですよ。

 

岡本:でも、ブランデーグラスの底にほんのちょっとあるかないかで、ホテルのバーだと一万円は取られる酒だよ。それを表面張力だからね。で、グラスに口を近づけて飲んだ。そしたら、酔いがまわってきた。何たって、俺は酒は初心者ではあるからね。そしたら、「喜八、ついでだから東宝に言いたいことがあったら何か言え」って言う。あれは堀川(弘通)さんのだっけ『竜馬が行く』と『日本のいちばん長い日』が宙に浮いちゃってたから、「あれは、どうなってるんですか?あれをやんなきゃ、今年は東宝らしい作品が一本も無いってことになりますけど...」なんて言ったわけ。

 

恩地:直球を投げたわけですね、珍しく。

 

岡本:で、「『日本のいちばん長い日』、お前やれ」ということになったの。

 

【中略】

 

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恩地:68年に『斬る』というのを撮ってますが、その後、岡本さんの代表作と言われる『肉弾』(1968年)を撮るんですが、僕が憶えてるのは、忘れもしないここ(岡本宅)で麻雀をしてまして、明け方帰ろうとしたら、岡本さんが玄関の処に生原(生原稿)を持ってきて、「見てくれる?」と言って僕に生原を渡したのを憶えてるんですが、僕のシナリオにも色々言ってくれた大先輩だから、これは読まなきゃいけないなと思って、家にもって帰って、読むと非常に面白くて、これを「シナリオ」という雑誌に持って行っちゃいました。それが、雑誌に印刷されたということがあるんです。その後、何があったかはよく分かりませんが、その「シナリオ」に印刷されたシナリオが、やがてATGで映画になって、奥さんがプロデュースすることになったのが『肉弾』なんですけど。

 

岡本:一千万映画だね。

 

恩地:そうですね。ATGというのは知ってる方は知ってると思いますけど、東宝系の会社で、一千万で映画を作るということがありまして、半分監督が負担して、半分ATGが負担するというケチなやり方をやったんですが。良い映画もいっぱい出たんですが、その初期の頃に岡本さんの『肉弾』があるわけです。『日本のいちばん長い日』で8月15日をやったわけですよね。そして、今度は同じ8月15日を違うアングルで描いたわけですよね。だから、東宝を代表する監督、岡本喜八が自分の描きたい8月15日が、東宝の中では本当に思うようには撮れなかった事が、『肉弾』として結実したと僕は思っているんですが。岡本さん、やっぱり『肉弾』は思い入れが強いでしょ?

 

岡本:『日本のいちばん長い日』は史実に忠実だけでドラマになっちゃってて、あれには庶民が出てこない。だから、『肉弾』はできるだけ庶民にくっつけて描きたかった。いちばん身近な庶民の代表は僕自身だから、ささやかだけど僕の戦争体験を通してやってみようと。庶民代表でやってみようと。一日で祖国を探し求めるという事なんだけども。まあ、両方やれて良かったと言う事が一つと、もう一つは『肉弾』は自分史とも言えるわけで、ちょっとは変えてはいるけども。まあ、やれたなと思ってるよ。

 

恩地:この時は「喜八プロ」はまだ出来ていないんですね?

 

岡本:うん。「肉弾を作る会」かな。それから2、3年後だからね「喜八プロ」は。

 

恩地:あのタイトルを書いたのは、娘さん?

 

岡本:あれは、まだ幼稚園だったかな、上の子は小学校一年生。二人とも、墨も擦ったことがないし、筆も持ったことがない。肉の字の上の方が紙からはみだして畳に書いてるんだけど。勢いがあって面白いからそれを使った。

 

恩地:でも、子供がタイトルを書き、奥さんがプロデュースするという、家族みんなで作ったというか...。

 

岡本:だから、封筒貼りみたい。

 

恩地:ああ、内職ね(笑)。でも、やっぱり良い映画というのは色々な形でできていくんだという事を証明したんですよね。

 

岡本:あれはね、プロのスタッフは5人くらいで、後の15人は本当のド素人。いっぺんもスタッフなんかになった事が無いという、色んな人がいたんだけど、日大の学生が3人着て来て、「映研か?」と聞くと「落研です」という。

 

恩地:落語研究会!(笑)。

 

岡本:「お前なんか言え、命令だよ」というと「椿は三十郎です」なんて。「うるせぇ!」って言って(笑)。5人のプロっていうのは、助監督が一人もいなくて、床山さんと衣装屋さんだから、それが小道具と衣装を担当するんだけど。テレビ映画に一本だけついた事があるという奴がチーフになった。そいつにね、「明日のエキストラはどうなってる?」と聞くと「まだ、誰もいません」という。「海岸に東京から女の子がたくさん来てるらしいので、これから引っかけに行きます」と。「しょうがないな、じゃあ俺が明日の予定表書くか」とそんな感じ(笑)。まあ、キャメラマンが照明をかねて...。

 

恩地:あれはカメラは誰でした?

 

岡本:村井ちゃん。

 

恩地:ああ、村井博さん。

 

岡本:美術がスチールマン、録音が記録をかねて、それで5人。

 

恩地:だいたい、奥さんだってプロデューサーは始めてでしょ?よく赤字にならなかったですね。

 

岡本:ちょっと、オーバーして集めたからね。500万でいいってやつを700万集まったから。当時としては珍しいからね。

 

恩地:出す人がいっぱいいたんだ。それは、良かったですね。

 

【中略】

 

恩地:映画は岡本さんにとって生き甲斐ですか?

 

岡本:まあ、一生映画とは離れたくないし。いつコテンといっても、ずっと本を書き続けてさえいれば、ずっと繋がっていると思うし。タイト・ロープって言うかな、綱渡りの綱みたいなもんで生活を考えると色々あると思うけど。映画を作る事を考えているだけで、つっかえ棒になってると思う。多少なりとも借金を返しながらね。金がかかりそうだけど、実は金をかけなくても大丈夫だよというようなものも絶えず考えてる。例えば、SFXとかCGとか金がかかるものを使わなくても、普通の技術、俺たちが助監督時代の15年に教わったこと何かをふんだんに使って。まだ、使い切れてないと思うわけ。僕は普通の技術でやれる事しかやってないけど、何か異常な題材に取り組んでみても、普通の技術で十分やれるよと。

 

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恩地:タイタニックみたいに大金をかけただけが良いというもんじゃないよね。『日本のいちばん長い日』を撮った後に、『肉弾』を撮った人なんだから、借金しょっても、安く作るってのはあるよね。

 

岡本:安く作るというのは、さじ加減だけで、適当になっちゃう事もあるし。安いのはね、その安さが目立っちゃダメだと思う。本さえ面白ければ、作品も面白くなる。そういう方向に持っていっちゃう。

 

恩地:もし映画監督になってなかったら、岡本さんは何になってたと思う?

 

岡本:分かんないねぇ。監督になっちゃったからね。しょうがない。

 

【中略】

 

恩地:最後に、若い映画監督に何かメッセージを。

 

岡本:70を過ぎると、色々病気をするから。まあ、身体に気をつけて頑張って下さいとしか言えないけど(笑)。やっぱり、ABCってものがあると思うんだけどね。それだけは踏まえてもらいたい。

 

恩地:勉強しろってこと?

 

岡本:いや、そうは言わない。そりゃ、自然に覚えるのもあるし。例えば、誰が誰に向かって話をしてるのか、誰が誰に向かって撃ってるのか、撃たれた方は誰がやりやがったかちゃんと分かるとかは、やっぱりABCだと思うんだよね。これをちゃんとやってないと、いくら面白い素材でもがっくりすることがあるんで。別に大したことじゃないけど。それぞれにABCってものがあってね。...生意気言ってごめんなさい(笑)。