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特集

日本映画監督協会 会員名鑑

わが映画人生

わが映画人生 野村芳太郎監督編

「わが映画人生」野村芳太郎監督編

 

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     野村芳太郎監督、1919年生まれ

 

インタビュー・・・・山田洋次   川又 

 

構成 ・・・・・・・仲倉重郎

 

担当 ・・・・・・・中村児   石川均

 

 

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 1997年8月8日、東京都新宿区四谷の自宅にて

 

     

          

蒲田撮影所で育つ

 

 

山田「何と言っても野村さんといえばあの蒲田撮影所で生まれて、蒲田撮影所で産湯を使ったという方ですからこんな人はちょっと居ないんじゃないかと思うんだけども。僕は確か助監督の頃、野村さんが浦辺粂子さんを使ってね、そして浦辺さんが監督の野村さんに"坊っちゃん、坊っちゃん"って言うんで困るって野村さんがおっしゃって、ああ、なるほどなあと思って・・・。つまり、いろんなことがそこから想像できたわけ」

 

川又「普通の監督さんと比べれば20年以上長く撮影の生活してるわけだから・・・まあ、浦辺さんだけじゃなかったでしょうね」

 

山田「沢山いたんじゃないですか?伊奈千代子さんとか吉川満子さんなんかもそうでしょう」

 

野村「そうですね」

 

山田「お宅は撮影所の中にあったんですか?それとも近くにあったんですか?

近くに??」

 

野村「近くにあった」

 

山田「少年時代からしょっちゅう撮影所に遊びに来て・・・」

 

野村「ていうか撮影所に暮らしてたみたいなもんですね」

 

川又「だから現像師の林さんと野村さんが一番喜んで遊んでたのは暗くて面白かったという・・・」

 

山田「色んな不思議な雰囲気があったんだなあ・・・。京撮にいた磯野さんて制作部長。あの、野村さんのお守りしてた人」

 

川又「磯野さんは、お父さんのチーフの助監督だったんですよね?」

 

野村「ですよね」

 

山田「じゃ、撮影の現場に」

 

野村「居たわけです」

 

山田「よく覚えてますか?」

 

野村「遊ぶほうでは覚えてますけど何がなんだか覚えてないです」

 

山田「例えばなんかヨーイハイ!とか言ってキャメラが回ったりとかやったり」

 

野村「とか覚えてます」

 

川又「2.3ヶ月前のシネマ紀行の番組で『砂の器』をあつかったんですよ。お父さんの銅像の除幕式の場面が出てたんですよ。(野村監督は)学生ですよ」

 

野村「学生より前の時代ですね。映画数回やったりしてるときね。結局初めの頃は、助監督というよりも、親父なら親父についてた、つまり息子が撮影所にいるような感じでね。大体長い間、一番若い時。撮影所に入っているというのは後ですよね。その前があれですよ」

 

山田「前っていいますと?」

 

野村「前ってつまり撮影所ではなく、新しい助監督とはいえないなあ・・・。つまり家族として野球の応援について歩いたり。そんなことしてるほうがつまり、まともな職業である考え方で・・・。そのうち夏のシーンに撮影所に近寄ってきて。実際に少ないですよ。撮影所に付いたのより前のが長くて」

 

山田「撮影所っていうのはやっぱどっか普通の世界とは違うヤクザな世界だなという感覚は持ってらっしゃると?そういうのは―」

 

野村「ありましたよ」

 

山田「ああ、やっぱり。だって暁星という学校に行くと全然違う人が・・。」

 

野村「その前というのが撮影所ですよね。だからよく話してもどこまでが映画界の話なのか、その前からなのか、皆、撮影所みたいな顔をしてるのがよくわからない」

 

山田「きっとお宅によく大勢の映画スターがでたり入ったり・・・そういうことなんですよね?」  

   

野村「そうです」

 

山田「それでその時映画界に入ろうとある時決心という風にしたんですか?それとも・・・」

 

野村「もっと前からですよ。入る前から入ってたんですよ」

 

山田「そういう風に決まってた・・・」

 

野村「入る前から入るほうがいい」

 

山田「じゃあ御自分でなんとなく自然とそう思ってらした・・・。ああ、なるほど。ことさら家業についてあまり考えないで。」

 

川又「僕なんかはこれは想像ですけど、一番怖かったのは道具の方が怖かったんですよね。これは田中の嫁さんだとか色々居たでしょ。怖い人が。   そういう人が全部野村さんを甘やかしてたわけだから(笑)」

 

山田「一番怖いと・・・。そういう人達もきっと、この人は将来監督になると決めてたんだ」

 

川又「そうでしょうね」

 

山田「だから野村さんも自然にそう思っちゃったんだ。歌舞伎の梨園に生まれたみたいなもんですね。決まってるんだもん。違う必要なかったんだ。そういう時代、そういう環境だったんでしょうね。」

 

野村「まあ本当に撮影所の何とか、という考え方じゃなくて、何かその辺に住んでたのが撮影所に関係してたんじゃないか、ということで捕まえられた」

 

山田「ですけど、中学から大学に行くと随分違う人種といっぱい付き合うわけだから、戸惑ったりとかしませんでした?」

 

野村「あんまりそういう事はないんじゃないのかなあ」

 

山田「つまり、堅気の家の息子達もいるわけでしょ?」

 

野村「そういうことじゃならないんじゃないんですか?」

 

川又「歌舞伎の息子さんが来てたり・・・」

 

山田「そうですねえ。慶応はそうだったんでしょうね。色んな芸能界の息子が来たり、役者の息子が来たり、わりに自由な感じだったんでしょう」

 

野村「自由とかそういうのとか判んないですけど、とにかくまあ、ある意味じゃあ洋風洋画に近い生活の中にこう・・・流れ込んでた、というのもありますよね。」

 

山田「またそうですね、あの、その撮影所の環境っていうのはある意味するっとしててクサかったんでしょうね。きっとモダンでね。お父さんが野村さんのために自動車を買ったんですよね。」

 

川又「そう。その話はね。それで通ってたという・・・」

 

山田「相当贅沢な甘やかし方という。普通はだって、あれでしょ?小説家となる、絵描きになる、監督になる、これも相当やっぱり・・」

 

野村「時間がかかる訳ですよね」

 

山田「その前に堅気の背中からはみ出していく、という感覚があるんだけども、野村さんの場合はそれなくて、すーっと撮影所の人としてそのまま監督になっちゃったんだけども、僕らから見たら一番活動屋らしくなかったね」

 

川又「うん」

 

山田「一番雰囲気として異端の人だったし、作品の系列的にもそうだった気が。面白いですよねえ」

 

野村「そうですね、母親からしてそうだったし」

 

山田「野村さんいつもネクタイをキチッと締めてたし、非常に考え方が合理的だったし」

 

野村「そうですね」

 

 

助監督

 

山田「やっぱり最初はあれですか?あの・・・助監督なすったんですか?」

 

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野村「ん~、いや、あの助監督になることはやったけども、なるっていうのは、何か要するに自分で自分のこと考えたとこから働いていくんじゃないかなあ」

 

山田「でも一応仕事として最初は演出部っていうか助監督部に所属されたわけでしょう?」

 

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野村「所属するとかそういう事は無いんですよね。つまり子供が遊んでるみたいな感じですね。だからよく、撮影所の話を、それじゃない出てからの話とか色々話されるんだけども、どっか違っちゃうんだよな・・・僕。それはどっちかっていうと、歳でもない、なんか知ってる連中がこう・・・抑えられてる気はあるよね・・・。そのひとつ前には極端になんか小さい子供みたいなものがなんか参加している・・・そういう気がしますね。その辺ではなんかこう・・・うやむやの中でね、撮影所というものにじゃなくてね、生き方という中でね。自分が育っていくというような、存在する前にあったという感じです。初めに映画界に入った時になんかそういうのが違うなというのがありますからね」

 

山田「違う、といいますと?」

 

野村「助監督になるとかなんだって言うのは」

 

山田「映画界そのものがですか?」

 

野村「そのものね」

 

山田「なんか俺はまだ違うとこにいるみたいな」

 

野村「それは勿論僕が言うのは違うんですけどもね。でも、結局、片っぽはそういうのが固まった部分があるのと、そういうんじゃなくて、これは自分が助監督になろうと思ってたのと、違いというのはあるでしょうね。 昔の僕達って・・・ことに助監督って言うのは、そこへ入ってきているという気がするんです。だからそこがいいとこ悪いとこ無しにし、違ってる・・・そういう気がどこかにあったんだなって」

 

山田「それは野村さんと同じ頃に監督になられた、例えば同じ年代の川島雄三さんと比べてやっぱり野村さんと違う気持ち、考え方を持ってた、ということですか?」

 

野村「だと思いますけどね、勿論そうじゃない所もありますけどもね」

 

 

 

 戦争体験

 

 山田「あの・・もう大船に入られて翌年は戦争に行ってらっしゃるんですよね?僕なんかもそんなに野村さんから詳しくインパルの話聞いてないけども、野村さんは本当に際どいとこで―」

 

野村「際どいことは際どいですよ」

 

山田「生きるか死ぬかの世界で彷徨ってほんとに生き延びたって感じですか?」

 

野村「ほんとにそうですねえ」

 

山田「この死骸の連なっている中をずっと歩いて・・・」

 

川又「あの、わりとその戦争の話したがらなかったんですけども、最後のビルマの写真を一ヶ月半くらいビルマとタイを歩いて撮ってきたんだけども、初めて井上さんは色々この辺がね、死体が類塵としててウジが湧いてて、みたいな事を言われて・・・」

 

山田「やっぱりあまり思い出したくない、関わりあいたくない気持ち?」

 

野村「思い出したくないのというのが普通にやってる事だみたいな考えでね」

 

川又「野村さん、ご家族の方のこういう話はね、普通ね、戦争に行った人はわりと得意になって話したがるんですよ。それをしないってことは相当凄惨なとこを渡って来たんじゃないかと思いますね」

 

野村「大体戦争の時期に散々あってるわけですから、これなんて皆わかってないから、その後がわかんないとか何か全然戦争とは違う時代ですからね。それで僕達の若い時分の助監督なりなんなりというのは、その中に入った人間ですからねえ。ちょっと違うんだ、何かね。戦争の話の中で、戦争のときはと言われても大分違うんだ。戦争のときはずっと繋がってるんだけども、大分違うぞ?というのがある。そういう意味で戦争の人間って多くなっているんだろうけど、それでも随分変わってきてるよね。

   別の社会があるんだろうけど。それがない、そういう時代ですよね。

   俺だけこう言ってみれば計算違いだった気がしますよね」

 

山田「計算違いとは?」

 

野村「計算違い。色んな事がね・・・」

 

 

第一回作品

 

山田「どんなこと覚えてらっしゃいますか?」

 

野村「いやあ・・・覚えてない」

 

山田「あはは」

 

川又「カメラマンは赤松さんですよ」

 

山田「我々の先輩ですけどもね」

 

川又「野村さんのほうがお年が上じゃないかな?」

 

野村「上でしょうね」

 

山田「僕なんか第一作撮るっていうと相当緊張してたし、何したらいいのか、何してるのかもわかんなかったというか・・・そんなとこありましたけどねえ」

 

野村「僕はとにかく、まあ、やらされたというんじゃなくて、そういう社会、創られた中にいたと言う事ですねえ」

 

川又「それにSPっていう事で心理的にも楽だったんじゃないですかね?」

 

山田「いい時代ですよ。第一作SPなんて撮らされる事は。『次男坊』(1953年)で『愚弟賢兄』(1953年)、『きんぴら先生とお嬢さん』(1953年)その辺でこう・・・とても苦しんだこととか逆に楽しかった事とか」

 

野村「あんまりないんですよねえ」

 

山田「そうですか。わりにこの頃からきちんとコンテたててらした?」

 

野村「たててたんじゃなくて、コンテなんて自然にあるもので、それをこういう風に動いてた中で、この次に動いた動いた。それだけでしょう」

 

川又「それまでの松竹映画というの・・・これは今僕がリニューアルの仕事してて、色々昔の観てるんですけどね、それまでの松竹映画というのはムード第一というか、木下さんは独特の、雲のいい時間を待ってる、とかね。そういう事を大事にしていると思うんだけども、野村さんのこの写真を見るとね、やっぱり一番最初に感じるのはテンポですよ。弾みの良さというか、そういう点でこのブルーリボンの新人賞を獲った作品で一番感じますね」

 

 

監督

 

山田「僕はこの『亡命記』(1955年)というので初めて野村組に付いて・・・。これは随分、野村さんはあの、軽い作品、軽快な作品撮ってらしたのが、これはどっしりとしたメロドラマを作るんだという。野村さんの意気込みみたいなものがあったように思うんですけども。『亡命記』っていうのは」

 

野村「どうかな~。あったかな?」

 

山田「随分、関西の方で粘って粘って、今度はいつもと野村さんは違うとスタッフが言っていたの覚えてますけどね。あの、最近、岸子さんに会ったんです。そしたらキャロリー・リードがこの作品を観てるんです   よね。アジア映画祭で。そして岸子さんをキャスティングしたいと言ったんですよ。その当時岸子さんはキャロリー・リードをよく知らなかったから断っちゃったんだけども後でえらいことしたなあと思ってたんですと言ってましたよ。だけど非常に対照的な『花嫁はどこにいる』(1955年)っていうのはとても僕の好きな映画なんですけども、対照的な映画をこの『亡命記』は大分つまりどっしりとした重い、メロドラマなんですね。

   『花嫁』は一転して軽快な。そういう作品によってはっきり演出の仕方を変えるんだ、って言う野村さんの生き方っていうのは当時僕にとってはとても印象的だったし、僕、未だに出来ないわけですけどもね」

 

野村「その当時は間違いないんだろうと思うんだけども、そんなことしてないという気がどっかありますね」

 

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川又「これを見てるとわかる通り、その、何年かに一回まるきり作品が少なくなるんですよ。これは。やっぱり、野村はふざけ過ぎると、会社がとるわけですよ。これが我々面白くていられないんですよね。城戸さんの逆鱗に触れて、少し干せと。でも一つも堪えてないんですよね、野村さん」

 

山田「そういう野村さんの中に焦燥感みたいなのがあったって事かなあ」

 

川又「ですからそれをこう、若い助監督さん連中が皆慕って集まるわけで」

 

山田「でも何て言っても僕はその『亡命記』が最初でしたけども、その次の二年後三年後ですか?『張り込み』(1958年)お撮りになるわけですね。これは僕は脚本読んだ時から、これはもうすごい映画になるって感じだったし、つまりあの、妥協しないという社会に・・・会社の言いなりにならないぞという、とことん自分の納得いくまで頑張るんだというような、僕なんかとても感じていましたけどもね。事実『張り込み』っていうのはあれですよね、スケジュールもめちゃくちゃに延びちゃったりなんかして」

 

川又「シネスコの第一回ですからねえ。レンズがなくて待ってた頃がありましたよ」

 

山田「僕なんかシネスコっていうのはどういうもんなんだって事でカメラ積んで前進移動撮ってみるとかね、レンズ換えて撮ってみたり、パーンするとどうなるんだとかね、このカット繋いでみてこんなカットバックできるのかとかね?あの『張り込み』のためにテストしたもんですね。『張り込み』についてどんな風に思ってらっしゃいますか?」

 

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野村「確かにあの・・・力を入れたっていうのかな・・・。そういう感じはあるんでしょうけど、それでもまだ違うんでしょうね。『張り込み』に対する考え方が」

 

山田「やっぱりそういう、まだ違うんだという・・・」

 

野村「まだ違いますね」

 

山田「僕、野村さんと一緒に刑事に付いて一緒に随分聞き込みをね、ロケハンして、僕はとても印象に残っていますね。ははあ、こういうのが刑事の生活なんだという。刑事独特の職業意識っていうのがね。一緒に歩いてみるとわかりましたね。確か佐賀に行ったときは夏の蝉の」

 

野村「蝉しぐれが始まってね」

 

山田「それで帰る頃は寒かったですよね」

 

野村「寒かったです。寒いんじゃなくて12月超えてる」

 

川又「今、山田監督の言った『張り込み』でなんか既成の役者を全然使わないでね、それで自動車を使ったり・・・あんなとこ一番うまかったな。」

 

山田「今でも佐賀に行くと『張り込み』のロケーション場所ってあるんですね。皆とてもよく、もうかなり年配の人ですけど覚えていて」

 

野村「もうはっきり覚えていないけども。あったものなかったもの覚えてるくらいだね。逆に言うとすごく活躍してるようだけど、実は気楽に撮ったとこもあるし」

 

山田「『張り込み』ですか?」

 

野村「ええ。『張り込み』にしてもなんにしても。逆にそういう意味じゃなくて全体的に・・・そういう意味じゃないなあ。撮るっていう事自身になんかそんな無茶なこと考えてないだけですよね」

 

山田「でもその後に僕が脚本に初めて名前が出たときに、これ僕にとって印象に残ってる作品なんですけども、『その声待ったなし』これ北海道のやつですよね?『どんと行こうぜ』(1959年)、『黄色いさくらんぼ』(1960年)の脚本なんて色々変に苦労したこと覚えてますけどね、伊東なんかに1月も2月も粘って」

 

川又「松木辺りにね」

 

山田「そうそう、松木に・・・。それでこの『ゼロの焦点』(1961年)なんですよね。『張り込み』続く『ゼロの焦点』ってやっぱり一つのこう、エポックになるんでしょうかね。これもそうとうなもんでしたね。粘りがね、脚本がイマイチ『張り込み』よりうまくいってないんですよね。『ゼロの焦点』が。

   で、僕脚本書いてるとき忘れられないんだけども、橋本さんが途中で"もう駄目だ、うまくいかない"なんてね。2度くらい投げ出したことありましたよ。翌日行くとやっぱりそういかないか?なんて始めるんですよ。

   ある時橋本さんが僕にシミジミ言ったのは"いい素材だったら簡単に話ができていくんだな"と。しかしあまりうまくいってない素材、そううまい素材に巡り会えるというのはそうしょっちゅうないんだと。これは色々難しい問題を抱えた素材なんだとも『ゼロの焦点』はね。しかしなんとしてでも例えば誤魔化してでも脚本、観客にみせるのに耐える脚本を書くのがプロの仕事なんだと橋本さんが僕に言ったことがありましたけどもね」

 

    

 

川又「撮影も苦労しましたね。これはもう毎日日本海の向こうのほうから」

 

山田「何狙ってたんでしたっけ?」

 

川又「そうでしたね、雲・・・とにかく天気という名のつくものが一日全部あるわけですよね。晴れてみたり霰になってみたり。」

 

山田「何でしたっけ?有馬稲子さんがモンペを穿いて海岸で仕事してるショットが撮れなくて・・・」

 

川又「あれは結局春まで待てないというんで、湘南へ持ってきちゃったんですよね」

 

山田「もうやだなあ、もう撮れなかったらと思ってね、スタッフが皆帰りたい帰りたいって言うしね、監督は大変だろうと思いましたね。監督一人が駄目って言ってるんですから」

 

川又「まあそれから後、京都で一本撮ってるんですけどね。その次にそのオールロケ」

 

山田「『東京湾 左ききの狙撃者』(1962年)ね」

 

川又「うん。ノースタイルで」

 

山田「人数編成で」

 

川又「そう。大体17人くらいで」

 

山田「これは前から随分野村さん、おっしゃってましたね。その撮影のスタイル、っていうのは『東京湾』で。いわゆる決まりきったある脚本の方と決まりきったスタッフと、決まったスケジュールって言うのかな?そのルーティングを破んなきゃいけない、ある意味でもっとその、少数制でいけば、ノースタイルロケーションでいけば、予算的に言えばもっと思い切って縮小したスタイルでいける。しかしもっと機動性のある撮影が出来るんじゃないかな。それは随分前からおっしゃってましたよね?」

 

川又「これはやっぱり企画が、佐田啓二なんですよね?それで僕は全部ハンディカメラでやってるわけですよ。まあ体力があったから出来たんでしょうね」

 

山田「それで野村さん、僕は『あの橋の畔で』(1962年)っていうのはとても覚えているんですよ」

 

川又「4作に続いてるんですよねえ」

 

山田「そうそうそう、これなんか突然社長室に、城戸さんの部屋に呼ばれて。野村さんと。このテレビドラマ「あの橋の」一ヶ月後くらいの封切りでしたっけね?本書く時間が一週間くらいしかないってんで、野村さんが、こうしてこうして、こういうような感じで書けというんで。僕がふうふう言って、一週間後クランクインして。2週間くらいの撮影でしたね。」

 

川又「で、ロケハンは僕が北海道ですよ。それで宇野さんが九州。それで写真班では渥美半島でやったんですよ。寝てるのは飛行機の中か汽車の中か自動車の中で、前の日長崎でロケーションやって'ムーンライト'って言うんですか?夜中走ってるやつ」

 

山田「ああ。僕も乗ったよ、あれに」

 

川又「あれで帰ってきて翌朝銀座で7時からロケでやってたんですから」

 

山田「僕は徹夜で一週間本書いて、まあこれでおしまいだと思ってたら、すぐに出て来いって、家で寝てたら"君はB"って監督がいうんで、えーって。それこそムーンライトに乗って。それで終わったと思ったら今度は僕も九州に渡ってくれって・・・。それで九州に行って、だけど僕はそれこそどんだけ勉強したかわかりませんよ。このロケで任される事はね、監督にとって幸運なことですよね。新人にとってはね。そんときにほら、高羽ちゃんつけてくれて、彼と僕と初めて回したわけ。それであの、あっという間に封切りで、封切ってみたら銀座松竹の前にズラーっと客がいて、どうしたんだろうと思ったら、いやあ、これは『あの橋』の客だよと言っていて驚いたことありましたね。そんなことで僕がどんだけ脚本の勉強さしてもらったか分からないですよ。ある意味いい時代であるかもしれないけど、僕はその橋本さんに教えられたことと、それ以後、その仕事、次から次へとやることで、とにかく書いたものがどんどん絵になるという、なんかすごく勉強さしてもらったんじゃないかと思いますね。それから『拝啓天皇陛下様』(1963年)。これはだいたいこの野村さんのたてられた企画で、それで出演は誰だろう、彼がいいかと言うことで渥美清さんになったんですよね。この渥美さんは良かったですよね。びっくりしましたよ。まあ勿論、寅さんのずっと前ですけどね。この後で『拝啓』シリーズが続くわけですね。渥美清と『拝啓』シリーズ」

 

野村「『続・拝啓』(1964年)と言うのか、『拝啓総理大臣』(1964年)の3作ですよね。」

              

山田「あの、加藤泰さんのあの『白狐二刀流』かなんかを、一緒に観たことありましたでしょ?あの脚本を書いてるときに、映画観に行こうかって言って、そしてたまたま東映の時代劇でも観るかって言って、時代劇観たらものすごく面白い。なんだこの監督、何ていうんだって言ったら、加藤泰さん。たしか初めて泰さんがカラーで作った、確か加藤さんがごく初期の作品だと思いますよ。その、こういう人には手紙書いて励まさなきゃいけないんだよ、手紙書こうって、そうおっしゃったんですよ。野村さんと僕と二人で手紙書いて、加藤さんに送って、それから僕と野村さんと加藤さんの交流が始まるんですね。」

 

 

『砂の器』以後

 

山田「橋本さんがその冒頭にこの映画は日本映画史空前の予算をもって作られなければならないって書いてある。それでか知らないですけど、ずっとお蔵になってましたよねえ」

 

野村「ええ。あれはね」

 

山田「それで結局、野村さんと会社でやり取りあったんですか?」

 

野村「いや、別にそんなことなかったですね。あの橋本さんて中々そういうとこあるから」

 

山田「ですけどずっとお蔵入りになってたじゃないですか、脚本が」

 

野村「別にそれじゃなくてもあったんですね」

 

山田「勿論そのときは野村さんもお伺いになってた・・・」

 

野村「ええ」

 

山田「ああ、そうですか」

 

川又「やっぱり制作費の問題が一番・・・」

 

山田「まああったでしょうね」

 

川又「最初はともかくシンフォニーじゃできないから、室内楽でやろうという話まで出るくらい・・・それでもやっぱり野村さんと橋本さんでそれは反対して、だからやっぱり十何年間の執念の作品ですよね」

 

山田「『ゼロの焦点』で野村さんが成功してさらに『張り込み』、その次の作品として野村さんが最初に企画たてられたじゃないでしょうかね」

 

川又「そうかもわかんないですね」

 

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山田「それで僕がまた橋本さんのお宅に伺って、これを今度野村さんがやるんだけども、読みなさいと。読んだらあまりにも膨大だし、筋書きが複雑を極めてるし、とてもこんなの映画になんないんじゃないですか?って言ったことあるんです。無理ですよって・・・。そしたら橋本さんが確かそうなんだけど一つだけどうしても忘れられない描写があるんだよと

   言ったのが、主人公が病を持った父親とこの村を、石川県でしたかね、村を出て行く。それから1年、確か2年、足取りは分からないと。島根県で駐在さんに発見されるまでね。ここなんだよと橋本さんが言うんだよね。わからないと、この部分が。つまりこの映画のクライマックスなんじゃないかって言うんですね。いろんなイメージが浮かぶんだろうと。あの乞食がね、日本の色んな地方を転々としたりお金を貰ったり追われたりね。世代旅の暮らしをしていくのが・・・。この映画で作ることできないかなってよく言ったことを覚えてますよ。だけどそれから十何年・・・お蔵入りになっちゃったわけですよ」

 

野村「開けなきゃいいじゃなくて、駄目ですって言ったら、じゃあまだこの次に気が変わったらやってくださいって捨て台詞を吐いてあれから十何年かかってるのかなあ・・・」

 

山田「やっぱり何度も何度も手を余してるんですね」

 

野村「向こうが駄目だといって、それでごめんなさい、暫く納めてって所で置いて、進んだんですよ」

 

山田「とても困ってたことありましたよ。『宿命』というね、このタイトルの音楽書かなきゃいけないんで、『宿命』っていう発想は・・・あの・・・19世紀的な。とっても書きにくいよ、と」

 

川又「『親子の旅』は少人数で。だから冬の竜飛。それからあんずの里、新緑の来た茨城ですね。それでもこれ皆15人くらいですよね。初めて島根の夏から本隊が来て」

 

山田「どのくらいかかってます?日数」

 

川又「え~っとね、撮影はやっぱり1月の末から一番厳しい竜飛へ行きましたよね。それで封切りがね、10月の15日ごろだったのかな?それで総ラッシュ観たら橋本さんが、ここまでやったら川又さん、秋の紅葉入れようじゃないかって言い出したわけですよ。そしたらまだ9月30日くらいで早いんですよ。高いとこからちょっともみじの木を2.3本失敬して、キャメラ前にナメたりなんかしてやっと誤魔化したんですけどね」

 

山田「じゃあ1月の末からクランクインして・・・9月・・・10月」

 

川又「まあ頭ですから10ヶ月ですよね」

 

山田「間バーンと休みなしで?」

 

川又「あのー・・・、やっぱり冬が終わって―」

 

山田「ちょっと休んで?」

 

川又「ええ」

 

山田「実数はどのくらい?」

 

川又「実数はやっぱり後半は厳しかったからですねえ・・・。あの、甲府の手前で列車の中から布切れをばら撒く、塩山ですか?あそこの夕方撮影をして伊豆の白浜へ飛んで、朝3時からトップシーンのタイトルを撮ってると。厳しかったですよ」

 

山田「やっぱり3ヶ月や4ヶ月かかってる?」

 

川又「そうですねえ、4ヶ月くらいはかかってるでしょうね」

 

山田「やっぱりそのくらいかかるもんなんですね」

 

川又「野村さんその辺も凄くはっきりしてるんですよ。かかるのとかかんないのと」

 

山田「そうねえ」

 

野村「しかし往生してたね、あの辺は」

 

山田「やっぱりこの作品を色んな意味で成功するって言うのは僕もあの、思っていませんでした。ほんとこれは大成功でしたねえ。いわば重っくるしい物語でしたしねえ」

 

川又「本じゃ一番嫌いだって言って、映画では一番好きだって人いますよね」

 

山田「ああ、そうかそうか、そういうことあるなあ。本はある意味キザでね、これね」

 

川又「本が長すぎますよ」

 

山田「そうねえ、本てそうか、原作の意味か。そうそう、あの原作はね、ちょっとシンドイとこあるんだよなあ。申し訳ないけど。かなり省いてますもん、あの脚本にするには。『八つ墓村』(1977年)ですけども、この大ヒットした映画ですけども。この企画はやっぱ野村さんが考えた?」

 

野村「僕一人じゃないですけどね」

 

山田「横溝ブームの時代じゃあるけども、これもびっくりしたような企画でしたね。ちょっと僕なんかは想像つかない。『八つ墓村』が映画になるって事自体がね、やっぱり野村さんなんかじゃなきゃ考えつかなかったんじゃないのかなあ。横溝作品が色々作られたわけどもねえ。他にも」

 

川又「"たたりじゃぁ"ってキャッチフレーズが流行って」

 

山田「これも随分あれでしょ?お金をかけた映画ですよね」

 

野村「ええ」

 

川又「今みたいなデジタル合成があると、最後の火事とか楽なんだろうけどもね」

 

山田「ああそうか、確かにそうだなあ」

 

川又「何にも無かったですからねえこれは。ロケハンが長かったです。1年半ロケハンやってます」

 

山田「どういうこと?」

 

川又「構成が決まんないんですよ」

 

山田「この前75年、76年、77年ずっとロケハンやってる」

 

野村「結局やるかやらないか決まらない。それとズルズル引き延ばしてましたから」

 

山田「正式にクランクインが決まらなかった?」

 

野村「決まらなかったですねえ。なんか具合悪い、やらないとすりゃ潰される。それで何かあの時期、最後エイとばかりにやったところですよねえ」

 

山田「大体そういうとこはハッキリしないんですよね。この松竹という会社は。ハハハ。未だにそうだけど何かずるずるしてて、誰か責任持って"よし、やろう!"という人が出ないんだよなあ。ちゃんと誰かが明確にとらないと。会社は大切なんだなあ。あれはやっぱり野村さんと橋本さんが相談して?」

 

川又「『八甲田山』は橋本さんですね」

 

山田「あれは野村さんがお撮りになるという予定ではなかったんですか?」

 

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野村「あれは2つに割れたっていうか僕が監督補みたいな形でやりましょうよって言って」

 

山田「監督なさる気持ちは最初からなかった?」

 

野村「なかったですね」

 

川又「やっぱり『八甲田山』から言ってましたけどね」

 

山田「ああそうか、条件がなかった?」

 

川又「うん。それでキャメラマンも木村大作というのが、まだ正式じゃなしに、実験みたいなのを撮ってたわけですよ」

 

山田「あれも・・・『八甲田山』も僕はそんな映画ってあんのかなって思いましたからねえ」

 

野村「良かったと思う」

 

山田「あれもすごく当たりましたね。あれなんか野村さん成功すると思ってらっしゃいました?」

 

野村「そうですね、やりだしてから大体思ってきたですね、むしろ。結局続けてやれば何とかなるだろうって、腹ができたら動かそうという形でね」

 

川又「大体長期ロケで、スタッフが逃げ出すという写真だと脱出します。『人間の条件』のとき、僕の下についてた助手が東京から偽の電報を打たしてね、帰ったことあるんですけどね。もう辛くてね。『八甲田山』のときもやっぱりそういう問題があったと聞きましたけどね。やっぱ、もうそれだけ大変な仕事やってるってわかりますよ」

 

山田「やっぱそうなんだ、映画ってなあ・・・」

 

川又「いや、今そんなんやったら居なくなっちゃうよ。スタッフ」

 

山田「誰も居なくなっちゃう?アハハ」

 

川又「松竹からの自立・・・そもそもこれはあの、その頃僕も出入りしてたわけですけども、名前はなんだっけか・・・『黒字の絵』というね、清張さんが映画化したいということで、井出かずみさんが書いたり、うまくいかなくて黒人のシナリオ家に書かせていいんじゃないかって事で、  ハリウッドに行ってたりしたんです。結局まあ、うまくまとまんなかったわけですね。その間に霧プロの清張作品なんか、逆に言うと、過ぎてって言うか、それでむしろベタな部分が多いですよね。結局はもうちょっと要領良く出来ないかって気はしてたんです」

 

山田「やっぱり野村さん苦労しちゃったわけ?」

 

野村「そうですね、もっと良くなるだろう、良くなるだろうと言ううちに行き詰った所があったんでしょうね。で、まあそれと平行して『柳葉物語』なんていうのずっと温めてきましたからねえ」

 

山田「まあ、プロダクションは中々大変ですけどね。だって今、独立プロが当たり前になってきたけど、大島君や篠田君達が、わーっと独立プロ出たのを、その頃の事覚えてらっしゃいます?」

 

野村「あまりむしろ、そういう意味で言えば、まともなものがあったのかもわからないですね。だんだん壊れてきたって言うか、そういうものがなんか支えられてなんとなしに、出てきたという、あと1、2年かかってるのじゃないかしら」

 

川又「松竹ヌーベルバーグなんていうのは、野村さんがバックに居たから成立したみたいなとこがあるわけですよね?これはまだ誰も居なかったら、まだあの連中、誰も出来なかったんじゃないかなと思うんですよ。   ただ、まああまり人と同じことやるなって、いつも言ってる事なんですけどもね」

   

山田「そうね、野村さんは常に異端というのを喜んだ人だったし、自分も異端であろうとした人」

 

野村「そういうのはあまり少なくなったですねえ」

 

山田「もっとも松竹の申し子みたいに仕込まれてたんだけども、異端の人って感じがしましたねえ。昔あの、まだ映画界が華やかになる前ですけども、キネマ旬報かなんか、その、現在の日本の監督の名前が出て、それをどういう系統かって、こうつまり、先祖の系譜みたいなのを作ったことがある。で、この人は師匠は誰、この人の師匠は誰って。で、野村さんがそれを御覧になってて、それで『僕は誰も師匠がいないよ』と。ずっと上になると、なんていうのかな、もういきなり確か野村芳亭さんも飛ばしていたなあ。師匠のつけようが無いって言うんで、それで野村さんが笑ってらしたことありましたよ。それで僕はハハアっと思ったもんですねえ。野村さんは誰の監督に付いて、そっから学んだということが、あまりそういう風には思ってらっしゃらないわけですよね」

 

野村「うん」

 

  3 shot 2.jpgのサムネール画像 

 

代表作

 

 

山田「野村さんの、野村作品から映画ベスト3とか何が・・・」

 

野村「あはは・・。どういうの選べばいいのかね、果たして」

 

山田「まあ、色々わりに出来がいいとか、出来が悪いけども愛着があるとか、出来の悪い息子がかわいいみたいなとこがありますからね。ま、印象に残ってるというのが。なんでしょうか?」

 

野村「何でしょうね?」

 

山田「処女作なのか、若い頃なのか」

 

野村「今までのものじゃまだ無いですね」

 

山田「ハハハ。そういうとこ野村さんらしいですね。「砂の器」にしてもですか?」

 

野村「ええ」

 

川又「まあ、あのよく野村さんが言ってるのは、代表作とか自分で言うべきじゃないって言ってるんですよね。皆が選んでくれるのが代表作じゃないのかって言うのをね、言ってるわけだ」