このページの先頭です

特集

日本映画監督協会 会員名鑑

わが映画人生

わが映画人生 新藤兼人監督編

『わが映画人生』新藤兼人監督編

 

sindo002[2].jpgのサムネール画像      

        新藤兼人監督、1912年生まれ

 

インタビュー:神山征二郎

構成:渋谷昶子

担当:中村幻児

   仲倉重郎

   山名兌二

 

sindo001[2].jpgのサムネール画像

        シナリオ会館 会議室 1998424

 

映画界に入った経緯

 

神山「新藤先生は最初から監督をしたかったんではないかと私なりに思っていたんですけど、その辺はいかがなんでしょうか?」

 

新藤「そうですね。まあ家は私が若い頃に没落しましてね、私は兄の世話になったんですけれど、昔は兵隊検査を受けると一人前になったということで独立しなけりゃならない。そういう時にね、家が没落したというのもあって精神的に挫折してたんですよ。尾道にいたんだけどその時ね、山中貞雄の『盤獄の一生』という映画を観たんですよ。それは非常に生き生きとした作品なんですよ。それを観てね、突然映画監督をやってみたいと思ったんだね」

 

神山「ああ、やっぱり」

 

新藤「それで京都へ来て助監督になろうと思ったんだけどいっぱいいてなれないから、やっと現像場へ入って。そのうち映画を現像してるうちにですね、毎日膨大なフィルムを現像してるんで、僕たちは内容はどうだっていいから短い方がいいわけよ。それで、現像場に一冊のシナリオがついてくるわけね、儀礼的に。誰も読まない。それは現像所長宛てに来るわけだけど。それをみんな便所に持っていくわけですよ。和紙で出来てて柔らかいから」

 

神山「トイレット・ペーパーになってる?」

 

新藤「そう。それでね、僕もちょっと覗いてみたんですよ、シナリオを。ところが昔はね、ここのところ剣劇よろしく、てなことなんですよ。ここのところラブシーンよろしく、ってなことが書いてあったりするんだけど、そこが一番長いんだ、フィルム」

 

神山「見せ場、ですね」

 

新藤「ここのところ剣劇よろしく、なんてとこが延々と続くわけ。それでね、シナリオというのは大変なもんだと思ったわけね。それで、監督よりかはシナリオをやってみようかなと思ったのね。それからは便所から家に盗んではですね、興味持ったりなんかして。シナリオで何かやりたいと思っているうちに戦争に行ってですね、シナリオライターの夢も消えるかと思ったんだけれど、まあ戦後になって、また帰ってきたから、シナリオやってたの」

 

神山「そのへんが第一作の『愛妻物語』に描かれてますけれども、39歳ですよね?脚本家としては一価をなされたあとで」

 

新藤「会社に所属してるでしょ、シナリオライターが。戦後大船には25人くらいいましたけれど、それがまあ会社の意向に沿ってシナリオ書いてるわけね。だからまあ私にはシナリオが来ないのがわかってるわけですよ。そういうような状態の中で、じってしてなきゃならんわけね。その中で、近代劇全集ってのが43巻あるんですけど、それを買ってきて全部読んだの。まあ僕の勉強したというのはそれだけしかない」

 

神山「実際にそれを読破するってのは大変なことで、大概言うだけで普通読みきれないものですけども」

 

新藤「まあ一日ですね、2,3本読むんだけど、朝起きたら読むと、昼からまた読むと、夜また読むと。大体学校行ってるようなつもりで毎日やるわけ。他にやることがないから。その最中にね、嫁さんが死んだのね。その人は僕の恩人でね、その人がいなかったらそういう惨めな状況を耐えられなかった。その人が力になってくれた。そういうものがないと自分一人ではなかなか生きられなかったし、夫婦だからどんな風に生きていこうかって震えてたから。例えば溝口健二に僕が書いたシナリオを、これはシナリオじゃないストーリーだ、なんて言われた時は足が震えたね。立ってられない。そういうふうなことだから非常に自分で自分を頼れないと思ってた時代で。それでね、どうもね、そのことを書かないと戦後が始まらないような気がしたわけね。ところがね、書いてみるとどうも人にやらせたくないのね。僕のことだから。それはだからフィクションが三分で事実が七分みたいなシナリオなわけですよ。奥さんの心を他人に触らせたくないって気がしたのね。それで、これを監督してみたいと思ったわけ。それが、会社がやらせないわけよ。シナリオライターが監督して成功した試しがないの、それまで。そのうちにね、独立プロを興すことになったんですよ。その時にね、『愛妻物語』やらせるから松竹に残れ、と言われたんですよ。でもそんなことしたら男がすたる。やめると言ったんだからやめる、という風にしてやめたんですけどね。それで条件もそんなにいい条件じゃなかったんだけど整ってね、僕もね、これ一本やるんだっていう風にしてやったんですよ。本当にそう思ったの。僕はやっぱりね、シナリオにものすごく執着があるんですよ、シナリオ書きたいっていうね。でもあっちこっち要するに不満なとこがでてきちゃってね。だからまあ一つ監督を本格的にやってみようかなという気持ちが出たんですね」

 

sindo003[2].jpgのサムネール画像 

 

 

『原爆の子』

 

神山「ピカドンが落ちた時の向日葵とか子供とか虫とか、あれは作り物じゃないと思いますけど非常にインパクトが強いですよね。原爆映画って何十本もあると思いますけど、やっぱりあの描写に勝るものはないというか」

 

新藤「原爆落ちたとこはやるわけにはいかないしやってもうまくいかないんだから、それはやっぱり象徴的なある一つの描写が必要でしょう?それはだから僕はね、映像だという風に思うんですよ。象徴的なものがないと時間的に短縮できない。象徴的なものが参加しないとですね、映像のリアリズムが生まれないというように。まあその時はそういう深い考えはないんだけど勘としてね、そういうもんがあった。これはやってみるとね、またしてももう一つなんですよ。それでまあ、監督というものの道があるとすればその突き当たるとこまで行ってですね、引き返してこよう、と」

 

『縮図』

 

神山「それで『縮図』になりますね」

 

新藤「まあこれもやっぱり映像的に、徹底的に人間追求というようなことをですね、溝口的手法に加えて、やってみたいと思ったわけですよ。そうするとね、乙羽(信子)さんの中のものをね、撮り残してるという感じがしてくるんだよね。僕の監督としての撮り残してるようなものが次々出てくるし、乙羽さんも撮り残してる。つまり何か役をやる、監督をやるということでは一応それでいいんだけれど、技術者と技術者の継ぎ合いだけになる。もうちょっとこう、精神的な結びつきが欲しい。そうしないと本当のこう、表現したいものが生まれないんじゃないか、というような考えになっていったんですね。それでまあ、職業監督にはなれないような気がしてるしなるつもりもないし、自分の好きなもんだけをやるというのでいきたいというのがあったから。それはね、一方ではいけなかったらシナリオで食うっていう感じがあるもんだから」

 

sindo004[2].jpgのサムネール画像 

 

神山「ありますからね(笑)。強いんですよね」

 

 

多作

 

神山「まあそういうつもりにしても40歳近くで初監督されて、44,5作撮られてて、これは決して寡作じゃなくてどっちかって言うと多作ですよね」

 

新藤「多作になりましたね。長生きをしたからね。それもあるんですよ。溝口さんなんて58歳で亡くなったから。おかしいような感じがね。僕ら溝口さんと接してておじいさんだと思ってたから。だから長生きをしたから、こういうことになりましたね。まあしかし独立プロを50年近くやりますけど、みんながその間食っていけたわけ。それはね、5本に1本くらいうまくいってるの。そういうことだけなんですよ」

 

『裸の島』

 

新藤「『第五福竜丸』やってね、経済的に最低になっちゃったんですよ。それなら解散するかどうかというところだったから、商業ベースとはまったく別ので私がやりたいものがあったんですよ。いけなかったら解散しようと思って。それが『裸の島』。やっぱり映像だ、と。一にも二にも映像。映画ってのはそういう表現だと思って。それでまあ台詞のない映画をね、やってみたらいいと思ったんですよ。初めから受けると思わなかったし、人が観にも来ないんじゃないかと思ったんですけど、まあこれがね、うまくいったのね」

 

神山「モスクワでグランプリですよね」

 

新藤「僕らは撮影所から出てきた人だから、スタッフを30人くらい組むのが常識だったんだよね。ところが金はない。だから必要なだけでやろうと思ったんですよ」

 

神山「何人でしたっけ?」

 

新藤13人。俳優が2人いるから15人。そういう貧しさに出会わなかったら過去の日本映画の常識を破ることはできなかったんですよ。それで皆に2万円だけ渡して、それを家族に渡してもらって、島に行くんだから何もいらない、煙草銭だけあればやれるんだってことで(島に)渡ったんですよ。その代わりフィルムはずいぶん使った。とにかく最後(にしようと思っていた)だったから贅沢にやろうと」

 

神山「それまでの日本映画のやり方とはまったく違うシステムですよね」

 

新藤「違うやり方。それで僕たちに初めて自信ができたんですよ。それは簡単に

言えばね、みんなで一つ鍋のものを突き合ってるという。同じとこに寝て同じもの食ったりしてるから。ギャラの違いは多少あってもみんな要するに同列なんですよ。本来そうあるべきなんだけどそれまでなかなか気がつかない。古い形を破れない訳ですよね」

 

sindo007[2].jpgのサムネール画像 

 

『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』

 

神山「今までのお話を伺ってきて、例えば初期の3作品、『愛妻物語』は青春時代の自伝で脚本家になるまでのお話ですよね。『原爆の子』は広島に生まれた人間としての思いが非常に強く出た作品だと思いますし、『縮図』になってくると、貧者と言いますか社会の片隅に追いやられている人間に目を向けている。まあ新藤作品の原型のようなものが早くもこの3作に出てるんだなってことを思ったんですね。一方脚本家で一本立ちされて、それから監督されてというお話を伺っていますと、脚本家ってのは筋立てを作る仕事ですよね。監督になった新藤さんは映像派と言いますか映像モンタージュみたいなことを考えておられてて。どの作品も共通しておられますけれども、それからしばらくして溝口さんのことを記録映画で撮られましたね。これは今まで他でそういうことをした人はいないわけで、新しいことをされて立派な出来栄えだったと思うんですけども」

 

新藤「『愛妻物語』は私のことですね。それから『原爆の子』は私が住んだ町っていう。『縮図』は貧しい人々という、まあ親子のつながりということなんですね。私のテーマはほとんどそういうことなんですね。家が崩壊すると離散しなければならない。離散するとね家というのは人間にとってどういう価値観を持ってるんだということが、幼い頃に植え付けられたイメージであるんですよ。だからね、全部そういうことをやってるわけよ。いろいろな形で。つながりというようなことをね。作家が作る作品ってのはね、すべて自分史だと思うんですよ。自分の歴史に関係してると。『ある映画監督』の話をすると溝口さんはね、いろんな意味で私の恩師なんですよ。今でも溝口さんのことを思い出す時間は長いし、心の糧になったりしてる。だから溝口さんのことをいっぺんやりたいと思ったわけ。どういう風にやろうかと思ったんだけど、ドラマというのは人間の記録を映してる。俳優を使ってても人間の記録を映してるという考え方がありますから、記録性というものを通過しないでそこへいけないんじゃないかって考え方があるんですよね。そういう考え方でやってみたんですよ。溝口さんという人を描くのにどういう方法が一番描きやすいかと思ったりしたから、溝口さんと関わった俳優さんと裏方と39人インタビューしたんですね。ところがシナリオを見ないで俳優に突然出演してもらいますね。そうすると俳優というのはですね、自分を表現する技術を持ってるもんだから、咄嗟に出てくる何かをうまくアレンジされれば、ある一つの塊となって力を持って発揮される、というのがドラマトゥルギーにあったんですね。監督の中には、シナリオがあらかじめ回転してますから。書いちゃいないけど。この無形のシナリオが回転してるからうまく出会えると、いう感じがちょっとするんですよね。そういうのは監督術の中で非常に重要な部分じゃないかな」

 

sindo009[2].jpgのサムネール画像 

 

現役でいられること

 

神山「まだ現役で監督されてるというのはかなり特殊なことですよね。でも僕は、なぜそれがまだやれてるのかの秘密っていうのが、自分の中のことを掘り起こすことを常にされてきた、これがどうも答えって言いますかね、そこにあるのかなと思ったんですけれども」

 

新藤「僕らシナリオで30歳の時も40歳の時も50歳の時も60歳の時も老人というのを書いてるわけですよ。老人というのはこんなもんじゃないかなと思いながら。しかしね、80歳超えて老人になると、老人ってのはそんなもんじゃないですよ」

 

神山「結構闘争的と言いますか」

 

新藤「つまりね、やり尽くしてないことがたくさんあってね、それがやりたくてしょうがないんですよ。それから我欲も突っ張って来ちゃってるわけですよ。自分の儲けた金はみんな使って死にたいとかね(笑)。だから穏やかじゃないんですよ。それは若い人もあるんだけど、老人になると特にそういうもんが旺盛になってくるわけですね。そういうのが支えてるだけですよ。人間というのはね、すべて仕事をしてきたと思うんです。仕事というのがね、どの人にも一生なんですね。できれば自分の仕事に執着しながら、やれなくてもやりたいと思いながら、最後までいたいという感じはしてますね」