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特集

日本映画監督協会 会員名鑑

わが映画人生

わが映画人生 大庭 秀雄監督編

わが映画人生 大庭秀雄監督編』一部抜粋

1989年2月18日 松竹大船撮影所 所長室にて
インタビュアー大島渚監督
担当 佐藤静夫




ohba01.jpg大庭秀雄監督 1910年東京 青山生まれ)



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大島:大庭さんが映画の世界に入られたのは、昭和9年ですか?
大庭:ええ。
大島:まず、蒲田へお入りになった?
大庭:そうですね。蒲田に一年いたわけです。
大島:どういうところから映画の世界に入ろうと思われたんですか?
大庭:普通の文学青年だったわけでしょう。自分が文学じゃダメだっていうのは何となく分かっていて、まあ、映画ならできるんじゃないかと...。それも、錯覚だったかもしれないけど。若い頃というのは、そういう錯覚に満ち満ちているもんだしね。そして、たまたま野村芳太郎さんのお父さんの野村芳亭先生が蒲田に住んでおられて、それで知り合いがあって、うまく撮影所に入れてもらえたんです。

中略

大島:当時はどういう映画をご覧になってましたか?
大庭:学校の近くに芝園館という劇場があって、そこで随分見ましたよ。安くて二本立てでね。『モロッコ』(1930年)とか『私の殺した男』(1932年)なんていうルビッチの名作もあったし、とにかくいっぱい名画といわれるもの見た気がする。なんて言うか、アメリカ映画なんかの美しい女優さんのね、非常にデリケートな、心の震えみたいなものに感動してね。一種のリリシズムを感じたのかしらね。まあ、こういうのをやりたいなという気がしたわけね。
大島:日本映画は?
大庭:日本映画は見ていない。その当時で日本映画を見ているような学生は、ろくなもんがいなかったんじゃないかな(笑)。でも、実際は小津さんなんかの良い映画が出てたはずだけど、そんな事も知らなかったしね。

中略

大島:蒲田に入られて、当時の助監督室というのはどういう組織だったんですか?
大庭:監督の系統によって部屋が分かれていてね、僕は清水宏、小津安二郎の系統の部屋だったわけ。その隣にね、島津保次郎、五所平之助系統の部屋。それからもう一つ、池田義信、重宗務。この3つくらいの部屋に分かれていた。野村芳亭さんだけは別格で、一つの部屋を持っていたけど、あの人は撮影所長をやったような人だから。 
大島:その頃の助監督は割合出世が早いと言うか、早く大事な仕事をさせられてしまうわけですか?
大庭:いや、そうでもなかったなあ。清水組なんかでは、そうそうたる助監督が4人いて、そこに僕が入ってね、ボールドも叩かしてもらえないんだ。僕はすることがないから、清水さんのアームチェアをちょっと揃えたりね、そういうことをやっていた。そうすると清水さんは、(首をひねって)「うん?」と人の顔をじろっと見たりしてね、タバコはキャメルを吸ってるんだけど、さきっぽだけ、ちょっと吸ってポーンと捨てちゃうんだ。もったいないことするなと思ってね。拾うわけにもいかないしね。そんな感じの仕事をしてたんだよね。

中略


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大島:大庭さんも、渋谷(実)さんも、吉村(公三郎)さんも、原(研吉)さんもお酒をお飲みにならなくて、「ティークラブ」と称して、たいへん青春を謳歌されてたように聞きますけど?
大庭:いやあ、そんなこともないんだけど、そうねえ、みんなお酒は飲まなかった。でも、原さんは、エピキュリアンというのかな、「お酒という人生にとっての、ある種の楽しみを享受しない法はない」と言って、修行したのかな、そのうちに酒飲みになってね、色々やって、城戸さんに怒られたとかあったけどね。
大島:助監督時代は、ダンスホールに行ったり、映画を見たり...。話題としては映画以外はやっぱり文学ですか?
大庭:僕はね、音楽が好きだったでしょ。だからね、喫茶店でレコードを聞くのが何より好きだった。僕の人生なんて3分の1はレコードを聞いていたんじゃないかと思うくらい。
大島:その頃は、もっぱらクラシックですか?
大庭:クラシックです。
大島:ある意味で、すごくジャズが流行っていた頃じゃないんですか?
大庭:僕は、ジャズに対してはオンチだった。
大島:昭和の初めから10年くらいにかけての、一種の「教養」の世界ということは言えますね。そういうものと、撮影所の雰囲気というものとに違和感は無かったんですか?
大庭:多少あったよ、そりゃ。
大島:傍から見れば、あいつら生意気だとか?
大庭:そりゃあ、そういう態度はこっちも見せなかったけど。とにかく、それまでは半ば「ヤクザな世界」だったんじゃないかしら。
大島:撮影所の世界というのはね。
大庭:僕は昭和9年に入ったんだけど、5、6年頃から大卒が少しずつ入ってきて、多少撮影所が知的化されて。僕はその狭間に入ったんじゃないかって、気がする。
大島:その頃は、城戸さんがもってらした指導性というか、助監督なんかにも色々と指導することがあったんですか?
大庭:よく助監督を集めてね、口頭試問じゃないけど、「主観と客観について述べよ」とかね。バカの一つ覚えでね(笑)。大島君たちの時もそうだったろ、あの人はテーマが決まってるんだ。だいたいトルストイの「芸術論」あたりを読んでの何かだと思うけど、そういう見方で人間を見ていた気がするね。僕なんかも途中でね、多少目をかけられていたと思うんだけど、むこうは撮影所から出て駅に向かう、大きな鞄を持ってね。僕は撮影所に向かって歩いていて所長に会うわけだ。僕が深々と頭を下げると、「君、最近少しは映画が分かったか?」と一言声をかけて、「はっ、何とか...」ってこちらが応えようとすると、そのままスーッと行ってしまう。むこうは全然止まらないわけだ。後姿を見て面白い所だなと思ったよ。
大島:その頃は、城戸さんだってそんなお年じゃないでしょ?30代くらい?
大庭:そうね、40...いや、30代だったかもね。
大島:映画界全体がまだ若かった頃ですね。
大庭:例えば、清水宏なんてのは30歳の時すでに、大家の風貌を備えていたからね。
大島:清水さんは助監督に色々教えたり、説教したりするんですか?
大庭:教えはしないけど、おっかない監督だったね。
大島:ただただ恐い?
大庭:人間てあんなに威張れるものかと思うほど威張ってる。
大島:他の監督も威張ってたんですか、その頃は?
大庭:大体ね。だから僕は「何て無教養な奴らだ」って気がとてもしたね。清水さんとか島津さんとかが、あんなに威張ってるのを見ると何て無教養な人種だと。しかし、彼らには才能があるんだ。僕には教養があるが才能がないと思った。
大島:どうして島津さんには才能があると思ったんですか?
大庭:だってね、書く脚本が上手いもの。短時日のうちにパーッと書いちゃうでしょ。あいつのどこにこんな才能があるんだろうと思ったよ。
大島:それはストーリー展開ですか人間描写ですか?
大庭:描いてるテーマといい、描写といい、何となくほほえましい人間を描く。島津さんなんか特にね。
大島:よく、蒲田調とか大船調とか言われますねえ、もう大庭さんが入られた頃にはある程度確立してましたか?
大庭:もう、定着してたと思う。
大島:あれは誰が作ったんですかね?もちろん一人じゃなくて、何人かが...。
大庭:僕は大船調というのはね、もちろん大船の監督たちやシナリオライターの才能という面はあるけど、やっぱりみんなアメリカ映画を真似したんだと思う。それともう一つは、当時新聞小説というのが映画の材料にもなったし、みんなもよく読んだわね、菊池寛とか小島政二郎とか。ああいう教養小説というか常識的なもの、そういう影響が大船調には多いにあるんじゃないかしら。
大島:ある意味、日本に中産階級、ある程度、生活に困らない階級が出てきたことに関係があるんでしょうね。
大庭:そうでしょうね。変な中流的な意識っていうかしら、そしてモラルっていうかしら、そんなようなものがあって、それに乗ってたという。
大島:後年、小津さんなんかは随分日本的だと言われたけれども、結局は小津さんも随分アメリカ映画から学んでらしたってことを、僕たちも後でわかりましたけども。あの頃、やはりアメリカ映画っていうのは、かなりご覧になったんですか?
大庭:そりゃ、見てましたよ。だって他にお手本ないもんね。素晴らしいなって思ってね。
大島:小説でも、川口松太郎さんなんかは、アメリカ映画から筋を取ったのがあったでしょう。
大庭:あった。
大島:江戸時代に置き換えて。
大庭:『鶴八鶴次郎』(1938年 監督 成瀬巳喜男)にしろみんなそうだわね。
大島:今考えて、蒲田調、大船調というのは、一体どういうものだと思われますか?
大庭:そうねえ。...まず、人間の善意っていうようなもの、その讃歌だったんじゃないかしら。色んな要素があると思うけど、ちょっとしたリリシズムとかユーモアとペーソス。昔の言葉で言うと「涙と笑い」だわね。そういう人情の世界。
大島:面白いですね。ある意味で言えば、当時の日本は戦争その他できなくって、実際問題、戦争もしてるのに一方では蒲田調とか大船調の優雅な世界がある...。
大庭:その頃は戦争なんかしてなかったですよ。
大島:しかし、実際には大陸ではやってたわけだから。
大庭:当時、日中戦争は、事件というか事変というくらいにしか受け取らなかったわね。僕は昭和の10年...、11、12年頃までは日本は良い国だって気がしてたもの。
大島:そうかもしれません。僕も、小さな子どもでしたけど、それこそ中産階級的な幸せの中にいたと思います。

中略



ohba04.jpg大庭:僕はねえ、最初、映画なんてどう撮ったって同じだと、要するに未だにそうなんだけど、脚本第一主義...だったのかしら。もちろん、その後、映画は撮り方が大事だってことを、吉村さんに教わったりして、そういう意識を持っていったんだけどね。映画に対して、ちょっとナメたところがあったのが、僕なんかはマイナスだったなあ。
大島:どうしてですか?
大庭:いやあ、映画を上手く撮れなかったもの。
大島:自分で撮っていて、あまり上手く撮れていないと思うわけですか?
大庭:いや、あまり上手く撮れているとか、撮れていないとかいう意識もなかったんだけど、そのうち、これは自分の考え方がいけないんだっていうことには気がついたわね。映画の撮り方には、小津式とか島津式とか色々あったんだけど。やっぱり映画は島津さん風に撮らなきゃいけないんだって気づいたのは、監督になってからだね。
大島:島津さん風に撮るというのは、具体的に言うとどういうことですか?
大庭:アメリカ映画みたいに撮るということだよ。つまりね、それまでの日本映画は、初めにコンポジションありきという感覚の映画が多かったんだよ。小津さんなんか真にそうでしょ。カメラも動かないしね。島津さんの映画だと人物本位で、カメラが人物を追っていく。僕はね、アメリカ映画の特徴は人物本位で、主役なら主役にカメラが食いついて追っていく。もちろん、その中には細かい構図とかも意識には昇るんだけど、それよりなにより人物を追っかける、そうでなきゃいけないんだなあってことを後にやっと気づいた。それが、果たして、正確かどうかは、別ですよ。自分ではそういう意識を持ったわね。
大島:吉村さんもそういう考え方ですか?
大庭:そうだね、そう思うよ。兎に角、島津系統の監督は撮り方が上手いなあと思ったもの。

中略

大島:大庭さんは戦争には、行かれなかったんですよね。
大庭:行ったんだよ。でもね、教育召集っていうのかしら。でもね、さすがに兵隊にしなかったね、鍛練隊とか言って体操ばかり。
大島:それは昭和20年くらいですか?
大庭:19年かな、終戦の一年前だね。
大島:では、終戦の時は日本にいらしたんですね。
大庭:そう。

中略

大庭:僕は、終戦の二日前にね、池田忠雄さんに会ってね、「大庭ちゃん、戦争が終わるよ」って聞かされて、「あっ」と思って、久しぶりに心が晴れ晴れとしたね。もっとも僕は前から言ってたんだ。木下さんと中村さんと横浜を歩いている時にね、戦争の話になってね、「この戦争は天皇陛下が止めるっておっしゃらない限り終わらないよ」って言ってたんだ。なんとも暗澹としてたけど、それは言い当てたね。
大島:そういう話ができる程度には、撮影所の中にそういう雰囲気はあったんですか?
大庭:我々の中ではね。でもね、これも大船だったからかもしれないね。よその撮影所じゃね、そんなことを言ったら非国民と言われるような空気があった撮影所もあったと思うよ。大船はね本当に「しょうがねえ、リベラル」だったからね。
大島:そういう「しょうがねえ、リベラル」というのはどこから来ていたんですか?
大庭:それが大船調を生んだんだろうしね、みんなの気質、体質。つまり、戦争とかそういうものに対して、「行けー!」とか旗を振るそういうヒロイックな奴がいなかった。そういうヒロイックなものに対して軽蔑心を持っていた。大船調の中には江戸の下作者の空気もあるからね。どうせ俺たちは活動屋だよと。あまり高邁なことも言わないけど。何となく自分を卑下した部分、下作者的な気分があったからね。
大島:戦時中に戦意高揚映画をバリバリ撮っていた撮影所の方が、戦争が終わるとガラッと転換して、今度はいわゆる民主化映画というか、イデオロギー映画というか、そういうのを作り始めましたね。そういう意味では大船っていうのは、両方の時代にちょっとズレていたのかも知れませんね。
大庭:そういう意味では象徴的だと思うんだけど、戦争が終わったでしょ。ストライキがあって、本社の回りで監督なんかも呼びつけられて、組合がインターナショナルかなんか歌ってワッショイワッショイやってる。僕なんかはその中に入る気がしないわけだもの。戦争中はあんな肩身の狭い思いをしてね、戦争が終わっても僕は行く所がない。銀座の裏道を一人でとぼとぼ歩いてね、僕らの道は狭く細い道なんだと思ってね。常に左右から圧迫を受けてね、どちらにも寄らない細い道を辿ってるんだなという感じがしたね。自由主義というか、リベラリズムというのは非常に難しいものなんだという気がした。

中略



ohoba05.jpg大島:戦争中、戦争直後というのは大庭さんの体質に合わない時代だったと思うんですが。その時代が過ぎて、少し日本の社会が落ち着いた頃から、大庭さんの作品がすごく力を持ち始めたというか、アピールする時代が来たと思うんですが。それは『帰郷』(1950年)、あるいはその前の『長崎の鐘』(1950年)あたりから、俺もやれるなという感じだったんですか?
大庭:そんなに別に意識したわけじゃないんだけど、一番映画に対してムキになってた時代、そして何となく映画の文体が分かり始めたというか、自分なりにできかかった時代だったのかしら。とにかく一番ムキになってた時代で、たまたま運良く『帰郷』なんていう良い題材にぶつかったんで、上手くいったんでね。

中略

大島:大庭さんの映画のテーマに、世の中に背を向けている主人公と、もう一つは不倫というものがあったと思うんです。これは今の不倫ではなくて、もう少し前のきちんとした言葉としての不倫ですね。正規の夫なり、愛人のいる女が他の男に心を寄せると。やっぱり非常に強いモチーフとして、あるような気がするんですけど。
大庭:強いて不倫というものに興味を持ったわけではないんだけど、そういう時の女心の異様なものに興味を持ったかな。

中略

大島:大庭さんはそういう人間の、特に女の心の細かい襞、あるいは揺らぎみたいなものが一番お好きなんですよね。
大庭:そう、好きなんだ、これはどうしようもないんだ。...また、それしかないんだね。僕は終生のテーマは何かというとね、甘美哀愁しかないよ。非常に恥ずかしいんだけどね(笑)。
大島:大庭さんは甘美哀愁というか、心の襞というかそういうものを『純白の夜』(1951年)とか、『情火』(1952年)の時は高級にお描きになったんですけど、それを大衆版になさったのが『君の名は』(1953年)だったんじゃないでしょうか?それで、大ヒットしたんではないかと思ってますけど。
大庭:そうかな。まあ、たまたま岸恵子という、質の高い女優と出くわしたのも幸いしたかなとも思うけどね。

後略