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特集

日本映画監督協会 会員名鑑

私のこの一本!

斎藤 久志 監督 篇

2016年06月25日

これで映画に決めました
                             斎藤 久志
 高校三年の時、横浜放送映画専門学院の勧誘上映会で「人間蒸発」を観た。それまでなんとなく8ミリカメラを手にして映画もどきを作ったりしていたが、これで決定的になった。ショックだった。
 いなくなった婚約者を俳優・露口茂とともに探すドキュメンタリー。その探す過程で起こる出来事を全て取り込んで映画は進む。そして最後の最後に映画の決着点を強引に作ろうとするために監督・今村昌平が登場し「セットを飛ばせ」と叫ぶ。「これはフィクションだ」と。なんだか得体のしれないものを観た気がした。「作る」ということはここまで自分を曝け出し、血だるまになっていくことなんだと興奮した。一体何に興奮したのだろう。
 映画は嘘を作る世界だ。チャップリンを観て映画に憧れた。映画は夢工場だということに惹かれていたはずだった。その時始めていた、ごっことしての映画作りもそうだったはずだ。東映映画村で買ったカチンコを使い「ヨーイ、スタート」と言うことが楽しかった。
 「人間蒸発」はその夢の世界(スクリーン向こう)から現実を突き刺してきた。お前らがいるそこが本当に現実なのかと。ドキュメンタリー(本当)とフィクション(嘘)がひっくり返った気がした。
 元々、学校に馴染めず友達が作れずにいた時、映画を作るという大義名分あればきっかけが作れたというのが映画ごっこの始まりだった。その時、ごっこの中にしか自分の居場所がなかった。「人間蒸発」は、ごっこをやり続ければやがてそれは本当になるんだと思わせてくれたのかもしれない。そしてそれは、今あるつまらない現実をぶち壊してくれるものへの憧れだったのだと思う。
 そして1979年公開の二本「太陽を盗んだ男」と「十九歳の地図」。前者の普通の中学教師が原爆を作って東京を破壊してしまうというラスト。徹底したリアリズムから観念へのジャンプ。後者の新聞配達の青年が世界を否定してしまうという観念。対照的な現実のひっくり返し方。映画が運動であることの魅力と観念で世界は違って見えるだという暴力。光と影でしかない嘘の二次元から三次元の現実を破壊、否定できるということ。「映画」という反社会的行為の魔力。
 その後「太陽を盗んだ男」の監督の元で脚本作りに参加することになった時、監督が言った言葉「イメージ出来ることは全て存在する」この言葉にまたやられました。
 どこまで人間が遠くに行けるか?どこまで人間を深く掘れるか?それが僕にとっての映画なんです。なぜなら映画という大義名分があれば、こんな臆病で気の小さい僕でも、なんだってできてしまうのですから。

この記事は、監督協会会報「映画監督」2016年3月号からの転載です。