特集

日本映画監督協会 会員名鑑

作品インタビュー

ジム

gym01.jpg でも、ほんとうに自分の居場所がここなのかは分からない。
不安と希望が、いっぱいつまった場所。ジム。

多摩川の丸子橋を渡ってすぐのところに北澤ボクシングジムはあります。元ジュニアバンタム級チャンピオン北澤鈴春が22才でこの場所にジムを開いて10年。このジムでのべ1000人以上もの練習生がそれぞれの思いをボクシングに注いできました。壁にぶらさがったグローブ。汗まみれのシューズ。サンドバッグ・・・・。
gym02.jpg しかし、誰もがチャンピオンになれるわけではありません。おそらく多くの若者は自分がまだ何者か分からないまま汗を流しているのです。強烈なKO負け。引き分け。ある若者はその後ジムを去り、ある者は「もう人を殴りたくない」とつぶやく・・・・。
『ジム』は北澤鈴春とジムの若者達を追ったフィルムです。ジム。それは、誰もが抱く不安と希望が、いっぱいつまった場所なのでしょう。

KO負け。引き分け。ある若者はその後ジムを去り、ある者は「もう人を殴りたくない」とつぶやく・・・・。
『ジム』は北澤鈴春とジムの若者達を追ったフィルムです。ジム。それは、誰もが抱く不安と希望が、いっぱいつまった場所なのでしょう。 gym03.jpg

北澤鈴春とジムの若者たち。
彼らを優しく包むような寺島進のナレーションと谷川賢作の音楽。

監督は、今回が初劇場公開作品となる山本起也。沢木耕太郎のノンフィクション『一瞬の夏』、そしてなによりボクサー北澤鈴春と出会うことで、自らも練習生となり6年にわたって北澤ジムを撮影。更に幾度となく編集を繰り返し、慈しむように『ジム』を完成させた。gym04.jpgそんな山本監督の思いを代弁するかのようなナレーションを、北野武監督作品の常連でもある寺島進が担当。  寺島自身もボクシングファンであり、ジムに通った経験を持っている。音楽はジャズピアニストでもあり、市川昆監督『四十七人の刺客』、市川準監督『竜馬の妻とその夫と愛人』のサウンドトラックも手掛けた谷川賢作。ジムを去るもの、そして、別の職業に新たな道を模索するもの、まだジムにいて汗を流すもの、そして、そこで迷い悩むものの姿。寺島進と谷川賢作の音楽が、ジムの若者達を優しく包んでいく。(パンフレットより)

 

gym05.gif

『ジム』公開記


正確な数字は分かりませんが、一年に製作される日本映画の本数は300本近いとも、或いはそれ以上とも言われています。何をもって「映画」と規定するかという問題はあるにせよ、これほどまでに「映画」が作られる状況は過去に例がなかったと思われます。背景のひとつとして、以前に比べ遥かに劇場に映画をかけやすくなったことがあるようです。それはそれで、作り手にとっては悪い話ではありません。しかし、この量産状況は、「館にかかったかと思うといつのまにか終わっている」作品も増加させているとも言えます。映画作りにかかるお金、時間、そして何より作り手のエネルギーを考えた時、例えば僅か1~2週間の単館上映やレイトショーだけで一本の作品が消えていくという状況は、決して幸せなことではない、そう思うのです。自分の寿命を削るような思いで作り上げた作品が、もう少し大切に映画館で公開されてほしいという気持ちを抱いたことのある映画監督の方も、多いのではないでしょうか。
2001年春、『ジム』というドキュメンタリー映画を完成させました。とあるボクシングジムを舞台に、無名の4回戦ボクサーたちを6年に渡って追い続けた、現代の若者たちの群像です。地味な題材ですから出資者もなく、100パーセント自己資本で「勝手に」作った映画です。映画を館にかけやすくなった時代だからこそ、何とか映画館にもかけることができたと思っています。(2003年1月シネマ下北沢で一ヶ月レイト上映)ただ、僕も自分の作品を「かかったかと思うといつのまにか終わっていた」映画にはしたくないと思っている監督のひとりです。同じ思いを抱く方々に、何らかの参考になればと思い、航海記ならぬ公開記を、遡って書くことにしました。下北沢での上映は終わりましたが、『ジム』の公開記はまだまだ続いています。

● 2001年4月13日 越川さんとの出会い


越川道夫さんと出会う。越川さんはスローラーナーという配給会社を経営しているという。『ジム』の配給をお願いするために、まずは映画を観てもらう約束だった。
越川さんは、監督協会員である筒井武文監督の紹介で知り合った。『ジム』みたいな作品をやろうと言ってくれる酔狂な配給業者は彼ぐらいだろう、と筒井さんは言ったか言わなかったか・・・その言葉の意味も含め、僕は公開の仕組みも配給という仕事の必要性も、何も分からない状況だった。極端な話、自分で映画館をまわって『ジム』を売り歩こうと思っていたくらいだった。でも、そこは自作の公開でやはり苦労した経験のある筒井監督の勧めに従った。
映画を観た越川さんは、「この映画の配給を断わる理由が見つからない」という彼独特の言い回しで、『ジム』の配給を即決してくれた。僕は『ジム』を配給してくれる人が決まったことはもちろんだが、客観的な角度から映画を見つめることを仕事とする人が『ジム』を商品として認めてくれたことが何より嬉しかった。
まるで公開が決まったかのように浮かれた気持ちでいる僕に、「まあ、一年くらいで館にかかれば御の字でしょう」と越川さんは言った。映画館での上映は完全なる「買い手市場」、半年先くらいまではどこの館もスケジュールが一杯とのこと。公開が決まらないまま放置された状態の作品も多いらしい。逆に言えば、しっかりした作品は製作の段階で既に館をがっちりと押さえている、そのくらい先行して全てが動いているのである。「作り手」の現場からは伺い知ることのできない映画が作られる前後の動き。自分がいかに「映画」というものの総体に疎いか痛感する。

● 2001年12月7日 何故かVHS編集機の前に座っている


完成から8ヶ月、『ジム』のVHSを手に僕は編集機の前に座っている。そして、盛り上がらない気持ちと戦いながら、再編集をビデオで試みている。
この8ヶ月、何度も試写を組み、越川さんが連れてきてくれるはずの「映画館サイドの方」を待ち続けた。しかし、この日まで観に来てくれた人は一人もいない。
越川さんからは『ジム』の弱点として二つ言われていた。ひとつは、ドキュメンタリーであること。もうひとつは、長尺であること。
時々新聞で、「今、ドキュメンタリーが密かなブーム」などの記事を見かけることがある。大嘘である。かどうかはわからないが、少なくとも僕にはそう思える。映画館はドキュメンタリーがお嫌いなようだ。尺についていえば、『ジム』は2時間26分の大作である。先輩のドキュメンタリー監督の伊勢真一さんからは、口を酸っぱく「2時間を切れ」と言われ続けたのだが、『ジム』がだめなら映画監督もおしまいにしようぐらいに思っていた僕は「好きにやる」と頑として応じなかった。越川さんに同じことを言われても、何故映画館が2時間以内という尺にこだわるのか理解できなかった。越川さんに言わせると、2時間をこえるというだけで観てもくれない、そういう反応らしい。昼間のがらがらの映画館を知っている者としては、一日の上映が一回減ったくらいで何なんだと思うのだが、この尺に対する拒絶の本当の理由は直接館と交渉したわけではないのでわからずじまいだった。
スタッフからは、どこかで自主上映を勝手にやっちゃったらどうかとの声も出始めた。言われるまでもなく、そのぐらい弾けてしまいたいと思っているのは自分自身である。でも、とどまった。『ジム』は商業ベースにのせ、映画館でかける。そう決めたからには、もう少し我慢しよう。そう思い直した。自主作品やドキュメンタリーが、いつまでも自主上映という殻に閉じこもっていてはだめだと思う。それは、自主映画やドキュメンタリーを一部の観客からいつまでも解放しないことになるだろう。自主上映自体を否定しているのではない。他の映画と同じ千何百円を払って観ていただく作品となることで、自主であることやドキュメンタリーであることの持つある種の「言い訳」を自ら捨て去る、そういう覚悟を言っているのである。
『ジム』のVHSを手に僕は編集機の前にいる。館にかけるため、2時間以内を目指して。妥協ではなく、作品としてのテンションを落とさない再編集はできるのだろうか。正直、盛り上がらない気持ちを何とか奮い立たせている。

● 2002年6月3日 公開決まる!


公開が決まったらしい。11月、シネマ下北沢。
人を待たすのは平気でも、待たされるのは嫌いな僕の我慢も限界に達し、春前くらいにはほとんど気持ちも切れていた。重病の患者でも、「大丈夫ですよ-山本さん」と医者に言い続けてもらえればもう少し生きてみようという気持ちにもなるのかもしれないが、越川さんは医者でいえばむしろ軽傷の患者でも「俺、やばいんじゃないか」と不安になってくるタイプの人である、というのは言い過ぎで、とにかく忙しくてつかまらない人なのだ。そこで、スローラーナーのメンバーに「頼むから僕の気持ちが切れないようにまめに連絡をくれ!」とお願いし、森君という優秀なスタッフが僕を励ましつつシネマ下北沢から「2時間に再編集するなら観てもいい」という言葉をとりつけてきてくれた。これが3月。短縮版のビデオを送り、そこからまた返事を待ち、やっと公開が決まったのだ。製作から1年2ヶ月がたっていた。
まずは2時間版へのフィルムの再編集、再ダビング。それと平行して簡易チラシづくり。
ビラまき・・・ 状況がにわかに動きだし、あわせて越川さんからもやっと連絡が入るようになったのである。

● 2002年9月26日 シネマ下北沢と初顔合わせ


シネマ下北沢荒井支配人と初顔合わせ。支配人といっても若い。ばんばん仕切られてしまうと思っていた僕は、無理っぽいリクエストも「はい、はい」と聞き入れてくれるこの若き支配人を僕が仕切ってしまっていることに気付いた時には、話し合いは終わっていた。
映画館との契約は、いろいろなケースがあり一概にこうだとは言えないが、映画館と、配給、製作とが共存しながら着地点を見つけていくのが基本的な考え方のようだ。『ジム』の場合は。まず、入場料の総額を館が4に対し製作、配給が6で分配する。(販売物の分配比率はまた異なる)製作、配給サイドはこの取り分から宣伝費を捻出し、残った利益を配給3、製作7の割合で分ける。最低補償のような付帯事項は、これはもう作品によってさまざまらしい。とにかく、僕のリクエストを受け入れてくれた荒井さんに損はさせられない。
『ジム』は、時期がちょっとずれて年明け1月25日から28日間のレイトショーと正式に決まった。下北沢のキャパは公称50席。28日間満席が続いたとして、入場料を1300円とすると、182万円。これの6割だと109万2千円。そこから宣伝費を引いて・・・
ちなみに宣伝費だが、例えばよく夕刊にのる映画の広告、紙面の下半分の立て長のやつで、一番細いものが、一般紙で120~130万くらいだそうだ。つまり『ジム』は、28日間大入り満員でも、まっとうな新聞広告ひとつ出せないことになる。
そこで、文化庁の補助金の申請を出すことにした。優秀映画上映支援事業という制度がある。宣伝費の3分の1、600万円を上限として、公開する機会に恵まれない日本映画の館での上映経費を一部負担する制度である。仮に通ったとしても入金は上映終了後だから、とりあえず越川さんと僕と各々持ち出しで、印刷にかかるお金や郵送費、人件費などを払っていくことにした。
宣伝費の問題はたぶんどの作品においても深刻である。前述のとおり、邦画、洋画問わずあまりに公開本数が多いことが、宣伝費の高騰を招いていると思う。とにかく、計算すればするほど、絶対つじつまが合わなくなる。映画を公開して利益が出る仕組みがわからない。それでもたくさんの映画が生み出され、館にかかる現実・・・
僕はとりあえず、以前在籍した会社の退職金を宣伝費にあてることにした。他の作品は、どのようにしてやり繰っているのだろう。

● 2002年12月9日 宣伝マンの憂鬱


『ジム』のマスコミ試写が終わった。この試写のために1700通ほど案内を出した。来て下さった方は、100人と少しだった。新聞、週刊誌などの大手のマスコミは冷たかった。越川さんの電話には「必ず行く」といっておきながら実際来てくれた新聞の文化欄担当者はゼロ。大手週刊誌、テレビも同様だった。試写の中盤から「これはやばい」と思った越川さんは、ビデオの送付に切り替えた。フィルムで撮った作品をビデオで観られるのは本当に気持ちが悪い。それでも、観てもらわないことには始まらないので同意した。(結局、新聞、週刊誌、地上波のテレビで取り上げてくれたところはゼロに等しかった。ビデオも、観てくれたのかどうかもわからない。ただ、『週間金曜日』という雑誌があるが、駄目もとで自ら押し掛けていって担当者の方にビデオを託したら、後日「気に入った」と連絡があり評をのせて下さった。完成後すぐに取り上げて下さった『SWITCH』誌と、記憶にあるのはそのぐらい。そのふたつはとても嬉しく印象に残っている)
パンフレットの文章をどなたに書いていただくかも問題である。また、僕はあまり好きではないが、著名人からコメントをいただきそれでチラシを作るということも考えなくてはならない。実は、ノンフィクション作家の沢木耕太郎氏に、『ジム』完成当時手紙を書いて、電話で「必ず観る」との返事をいただいていた。しかし、その後何度手紙を書いても連絡は来なかった。多分、沢木さんのノンフィクションに影響を受けた純粋なファンとしての「観てほしい」という願いがどこかで変質し、「できればお言葉をほしい」といったニュアンスが入り込んで来たことを沢木さんは見のがさなかったのではないか、そう思える。映画監督でありながら、公開が決まってからの僕はまるで宣伝マンだ。映画を作るのは苦しい作業だが、宣伝マンとしての居心地悪さに比べたら遥かに健康的で楽しい時間だといえる。
でも、待てよと思うのだ。作り手としての領域にとどまっているから見えないだけで、どの作品にも宣伝を担当している人はいる。彼は、彼女は、多分何度もマスコミに裏切られ、それでも電話をかけまくるのだろう。あざといとわかっていても著明な方にコメントを求めるのだろう。要は、そういう部分を作り手は見ないですんでいるだけの話じゃないか。『ジム』の場合はこうした上映にまつわるさまざまなことも含めての「映画作り」と考えればいいじゃないか。むしろ、それが『ジム』という映画そのものだといえるのではないか・・・
結局パンフレットの文章は、ノンフィクションライターの渡瀬夏彦氏、加藤毅氏にお願いした。映画監督の四宮鉄男さんが試写を観て優れた文章を書いて下さった。コメントは、やはりノンフィクションライターの長田渚さんにいただいた。(自分で自分の宣伝をしているようで居心地は確かに悪かった。救いは、渡瀬さん、加藤さん、四宮監督、長田さんと、このことがきっかけでその後もおつきあいが続いたことだった。沢木さんからは結局連絡はなかった)

● 2003年3月25日 財務省印刷局の研修に『ジム』がかかる


『ジム』の下北沢での公開が終わって一ヶ月。僕は市ヶ谷の財務省印刷局研修所にいる。
下北沢での公開はまずまずの盛況だった。有料入場者数約700人。真冬のレイトショーでは上々だということだった。それから一月後、『ジム』が財務省印刷局の研修で使われることになった。
この話は、『ジム』を観た僕の高校時代の友人が紹介してくれたものだ。紙幣を作る仕事を担う若者たちの研修のいわば自由枠で、映画を上映し話をした。(映画を最後まで眠らず観た人、との問いに、20数人中一人しか手を挙げてもらえなかったのは少しショックだったが・・・
(こういう席でも眠らせないドキュメンタリーを次は作らなくてはと、決意を新たにした次第。)
たぶんこういう話は、『ジム』のようなフットワークの軽い作品でないと無理なのだろう。他にも、一本の映画を上映することでしか生まれようのない素敵な出会いがあった。
4月23日、『ジム』が多摩美術大学上野毛キャンパスで上映される。黒木和雄監督作品(22日)、小川紳助監督作品(24日)などとあわせた上映会のテーマは『上映運動と映画作りを考える!』。そもそもこの話は、シネマ下北沢である日の上映後、「あのう、多摩美で『ジム』をかけるなんて無理ですよね・・・」と話し掛けてきた松浦君という学生との出会いがきっかけだった。松浦君は元水道屋。小川紳助作品に触発され仕事をやめ多摩美に入り、テキ屋で生計をたてながらビデオでドキュメンタリーを撮っているという、君自身をドキュメンタリーで撮れ! と言いたくなるようなキャラクターの持ち主である。
5月5日には小岩コミュニティホールの『メイシネマ上映会』。主催の藤崎さんはもう何年も前からこの上映会を独力で続けている。3日には四宮鉄男監督の、5日には伊勢真一監督の作品も上映される。
5月末から、渋谷のアップリンクでの一週間の公開も決まった。地方でも、金沢の香林坊ハーバーという組織が10月、『ジム』の上映会を主催する。この組織は、旧市街にあるつぶれた映画館を再利用し町起こしイベントをやっている団体で、金沢大学の学生などが主要メンバー。金沢市が補助金を出して支援しているとのこと。噂には聞いていたが金沢というのは進歩的な試みが盛んな町で今から出会いを楽しみにしている。

● 2003年5月18日 さらに公開は続く


『ジム』をめぐるさまざまな動き。面白いところでは、『ジム』の最終日の打ち上げに紛れ込んでいた女の子に「どこから来たの?」と聞くと「大分。」 それははるばる遠くからとお酒をふるまっていると、「大分のミニシアターで『ジム』できないかな・・・」
そこで、その小村さんという女の子にばんばん飲ませ「よーしそれなら君が交渉するんだ、頑張れよ-」と送り返すと、数日後、本当に大分のシネマ5という映画館から「あのー、お客さんの女の子が『ジム』の資料を置いってたんですけど」と電話がかかってきた。早速ビデオを送り、上映を検討してもらっている。
施設の性格から場所を明らかにはできないが、鑑別所に収監された少年たちに『ジム』を見せることができないかという話も進行中である。これも下北沢で映画を観た後アンケートを書いて下さった方に僕が返事を書いたことがきっかけで立ち上がってきた話しである。
更に、この原稿を書いている途中で『ジム』の作曲家の谷川賢作さんから「宮崎に俺の友だちがやってる映画館があるんだー」と電話がかかってきた。他にも、大阪第七芸術劇場、伊勢新富座での公開が決まり、また、新潟、四日市、名古屋など、ビデオを送り上映を検討してもらっている映画館も増えている。
前出の多摩美大生の松浦君。秋には、芸術学部を持つ大学の学園祭を『ジム』を抱えてまわる計画をたてるという。
映画を作り、公開して、改めて一本の映画がもたらしてくれるたくさんの出会いを思う。「かかったかと思うといつのまにか終わっていた」そんな思いを自分の映画にはさせたくないと思い、始めたことで、逆に自分自身生かされている、そんな実感がある。
『ジム』の上映を画策し始めてから二年。三年目に入り、ようやく一般公開を皮切り に、さまざまな形態の上映が立ち上がりつつある。それでも、ひとつの作品というだけでは広がりにも限界がある。『ジム』の上映が、他の埋もれた作品、独立系の作品の上映と何らかの形でからみ、それがひとつの網のようなつながりになっていけたら。そして、『ジム』を介して出会ったいろいろな方が、さらに他の作品との出会うことのできる場も広がっていけば・・・