ラブレター
井坂 聡
「厳しいなあ、井坂さん」と栗山さんに言われた。「苦労してきたんだからさあ、あげようよ」と鹿島さんに言われた。瀧本に新人賞を贈ることに「ウン」と首を縦に振らなかった私に向けられた言葉である。
瀧本は私の作品のチーフを3本やってくれている。それも予算のない、きつい仕事ばかりだった。本当によく尽くしてくれたし、瀧本なしではどれも今の出来上がりの状態には持っていけなかったと思う。だから瀧本に対する思いは格別のものがある。それは今回、予備選考で落ちてしまったが『ジーナ・K』を撮った藤江儀全氏に対しても同じだ。この二人のためには、私は何でも応援したいし力になりたいと思っている。しかし、新人賞に私はこの二人の作品を推さなかった。理由は明解、作品の評価が低かったからである。
全体の講評にも記したが、狭い意味の演出力という意味では何ら問題はないし、今後プロの監督として十分やっていくだけの素質は持っている。恐らく瀧本のことだから、現場でも助監督以上にきっちりと仕切って、スムーズに撮影を進めたことだろう。また、観客に伝えるということで、脚本や編集で色々とサービス心を出したことと思う。しかし、自戒を込めて記せば、それらのことが結果的に瀧本智行という監督の個性を消してしまったように感じた。頭でっかちのテクニック先行の映画、ありとあらゆる知識を持っているが故に、知らず知らず形に縛られてしまった映画、そういう印象を持ったのである。
対する高橋泉監督の今後は、確かに未知数だ。しかし『ある朝スウプは』には、作家の内なる発露を感じた。始めに撮影方法が決まっていたのでなく、被写体二人ととことん向き合う内に行き着いたスタイル。私の師匠の東陽一がよく言っていた「ある出来事が起きた時にたまたまカメラを一台持っていて、何とかその状況を伝えたいというのが、コンテの出発点」、まさにそんな視点をこの映画に感じたのである。この視点を成立させるためには、何よりも写される側に[ウソ]があってはならない。『ある朝スウプは』の凄さは画面に[ウソ]がないことである。といってクソリアリズムな訳ではない。ちゃんと現実を切り取って、再構築して、必要なものだけを観客に伝えているのである。その目線の確かさがある限り、高橋氏はこれからも映画を作れるだろう。私はそう信じて、彼に一票を投じた。さらには、その高橋氏の視点に応えた二人の俳優にも拍手を贈りたい。
高橋氏の作品の出演者は[役者]だった。瀧本の作品の出演者は[演技者]だった。瀧本がその差をおのが胸に刻み込んだなら、きっと一皮むけるだろう。瀧本よ、次回作を待ってるぞ!
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新人賞選考を終えて
鹿島 勤
私が観たのは「ゲルマニウムの夜」「ゴーグル」「樹の海」「美的天然」「誰がために」「隣人13号」「運命じゃない人」「ある朝スウプは」「ジーナ・K」「亀は意外と速く泳ぐ」「Little Birds」である。それぞれが個性豊かで、監督が目指す物がハッキリと出ている作品であった。どの作品を候補にするのか、かなり悩んだ結果、第一候補として「樹の海」第二候補として「運命じゃない人」を推薦した。理由は役者の芝居、居酒屋のお客たちなど、瀧本監督の力量を感じたからだ。内田けんじ監督の芝居と計算された時間軸の演出にも感心させられた。が、結果は「ある朝スウプは」に落ち着いた。この作品が受賞することに異論はない。受賞は紙一重で、他の作品も含めて甲乙つけがたい物であったと云うことである。
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抜群の劇的緊張感
神山 征二郎
井坂委員長の講評のとおりで、私から付け足すことはありません。
「ある朝スウプは」の劇的緊張感には舌を巻きました。おめでとうございます。
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選考会コメント
栗山 富夫
それにしても、なんとまあ暗い気分にさせてくれる4作品であったことか。最終選考にのこった4作品からいちように響いてくる調べは、アノミー(社会が溶融すること)への怖れであろう。借金800兆円にもがく平成16年の我が日本、年間の自殺者数10万の異常事態はここ10年もつづいている。誰もが未来に漠たる不安を抱えて生きている社会。映画がどんなスタイルをとろうと、この現実に立脚する以上仕方がないか。こころが浮き立つ楽しさとは無縁の映像世界・・・。しかし、それぞれがアタマ二つ分くらい他を圧して最終選考へのゴールをかけぬけた。
「樹の海」、瀧本智行氏の作品にまず舌をまいた。富士の樹海に自殺行を企てる男女3人が樹海入り口に向かうバスに乗り合わせる。彼、そして彼女らのみちゆきがオムニバス風に語られていく。少々つなぎに無理を感じさせるところがあるのだが、私には許容範囲と思えた。ながいながい居酒屋での男二人の会話劇、このともすれば退屈を誘う板付き芝居が新人の技を超えたところで成立している。難点だと言あげを許してもらえるなら、セリフの過剰ということだろう。とにかく、重い今がある作品だ。
「運命じゃない人」、この人を食ったタイトルから内容を想像するのはむつかしい。技巧の楽しさにポイントがおかれすぎてはいまいか。時間軸がひんぱんに動き、ともすればはなしから取り残される。DVDでの鑑賞をねらっているのだろうか。お芝居はいちばんファッショナブルで切れがいい。しかし、私にはエルモア・レナードやタランテイーノの世界が背後に透けて見えて仕方がなかった。
「ゲルマニウムの夜」、奇妙な作品と受け止めざるを得なかった。撮影、照明、美術、音楽、編集は第一級の仕事ぶりである。これら部門の訴求力はすばらしい。なのに、みおわってこころときめかないのは何故だろう。かなめの演出力はすべてに君臨しているはずであるが・・・。たぶんこんな事だろうと推量される。書き言葉の原作のへそ、それはエロス、タナトス、そして随伴して噴出する暴力の噴出だろう。おまけに主人公が性のお相手をするカトリック神父との神学論争までが加わっている。映像言語がなかなかなじまない領域といえる。メタフィジークの処理に腐心した結果は、フレームが切り取ったイメージはその外の現実社会へのつながりを強く持つことが出来なかった。
「ある朝スウプは」、初々しい作品だった。高橋監督は演技者も兼ねている。この映画は、意外な角度から習慣にしばられた映画人(旧人である小生のような)に覚醒をせまる。カメラは何をどのように見つめたらいいのかについて愚直に一生懸命だ。結果は、すがすがしくとてもリアルな演技をフレーム内に閉じこめた。女優さんは秀抜である。
映画人とは、映画館に足を運ばない人種のことを言う。こんなクリシェを我が身に引き寄せ考える選考会であった。
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新鮮で刺激的
田﨑 竜太
「ある朝スウプは」は最初、我が家の壊れかけのTVモニターの中に現れた。その特殊な映画作法からすると、家庭のTVモニターで拝見するのも正当な方法に思えたが、是非スクリーンで確認したくなり「全委員での試写を」と主張してしまった。同じくビデオでこの作品を観た福岡芳穂委員の賛同を得、ユーロスペースさんのご協力を得、スクリーンでの試写となった。
スクリーンに映し出されたのは小さな日常とその崩壊。ストーリーテリングの方法としては正々堂々の正攻法だが、それ以外は全てが新鮮で刺激的だった。
ストーリーテリングという点で技巧的だったのが、惜しくも賞を逃した「樹の海」「運命じゃない人」の二作品だ。どうして技巧的な語り口を選んだのか、はそれぞれの事情があるのだろうが、そういった作品が複数、新人賞候補となったのは何かを象徴しているのかもしれない。両作品の監督が正攻法で物語を語った映画を是非観たくなった。
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高橋泉さん、ぜひ監督協会に入ってください。
福岡 芳穂
「日本映画の今後」も「監督協会が新人を顕彰する意味」もそれが「映画における芥川賞であるか直木賞であるか」などということも私には実はハナからどうでもよかった。ひとりの表現者である私をどうインスパイアしてくれる作品をつくった監督であるのかということのみが、数年前と同様に、再び選考委員会に参加した私の選考基準だった。どれだけ真剣に目の前のものを見つめ、何を表現し、なぜそれは映画でなくてはいけなくて、どう監督であろうとしているのか。私自身がなぜ自分は監督であるのかといまだに自問しているからこそそんな部分に注目してひとつひとつの映画を観た。そういうことでなければ私が監督を選ぶことなどできない。「映画としての完成度」や「映画的技量の巧拙」を語ることはしたくなかった。
最終段階には残らなかったが『誰がために』の日向寺太郎氏の人間を見つめる眼差しの真摯さは非常に心に残った。真摯に見つめるがゆえに監督自身が戸惑い、モチーフの重さの中で監督が監督であることにたじろいですらいるように見えた。しかし、表現者として対象の前に立ったときのそのたじろぎは、とても大切なものなのではないのだろうか。
『ゲルマニウムの夜』の大森氏はたじろがない。圧倒的な確信犯の破壊者として世界を見据え観客を挑発する。早熟な不良少年の眼差し。それもまた身が震えるような映画の魔力のひとつだ。ただ、彼自身にすでに世界の結論が見えているのかどうかは別として、その映画の中には「結論」が用意されていた。全く在り方は違うが『樹の海』の瀧本氏にもある「結論」が準備され、ただそこに向かって物語を進めていく。彼らは監督としてたじろがず自分の世界観に疑いを持っていないように見える。そこには観客としてのボク自身の想像力が介入していく隙間は与えられない。映画とは何なのだろうか。当然さまざまな考え方はあるだろう。
人はなぜ人を殺してしまうのか。人はなぜ死んでしまうのか。人はなぜ生きてしまうのか。すべてなかなか結論の出ない謎だ。
『ある朝スウプは』の高橋氏はその謎に向き合おうとしていた。
そのほとんどが一部屋の中での一組の男女の話であるにも関わらず、最近映画に限らず多い「関係性の希薄さ」「物語の希薄さ」をなぞっただけの表現に留まることなく、人間の深い謎にたじろぎながらもなんとかそこに、人間と向き合うことに踏みとどまろうという意志を感じた。形として非常にミニマムな表現であることは間違いないが、かといって野放図な撮りっ放しではなく、ツールとしてのDVカメラの特性をもよく知り具体的に丁寧にひとつひとつのカット一瞬一瞬の時間をつくりあげて、しなやかで強靭な観客への問いかけの映画として成立させている。映画のラストのひと言が決して世界への「結論」ではなく、「私自身が生きること」への激しい希望と闘いに繋がっていく。
『ゲルマニウムの夜』は私の前を塞ぐように立ちはだかった。『ある朝スウプは』はただそこにじっと立ち尽くしていた。ボクは結局、立ち尽くしているものに近寄っていってしまった。
高橋泉氏が今後より大きなバジェットの作品をつくることになったときにいったいその監督としての「技量」はいかがなものなのだろうかといった議論も出た。だがそんなことを語っている余裕が我々にあるのだろうか。映画そのものの形態がいま変化しつつある。我々こそがその状況をよく見極め続けねばならないだろう。映画監督としての可能性とは、映像表現の変化との追いかけっこであるのかもしれない。
それと最近、高橋伴明さんから、「去年に引き続き似たような内向きの作品を新人賞に選んで(だから私は決してそうは思わないが)、これでは受賞監督が協会に積極的に参加してくると思えない。高橋泉氏が協会に入会しなかったらオレは絶対に今回の選考委員会を許さないからな」...という恫喝を頂戴した。私は「絶対に入会させます」というひと言でともかくその場での伴明さんの鉄拳から逃れた。
高橋泉さん、お願いですから是非監督協会に入ってください。
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初めて選考に参加して
本木 克英
私が推したのは「運命じゃない人」、「ゲルマニウムの夜」、「樹の海」の三本でしたが、俳優の掌握と制御がもっとも優れているのは誰か、という基準に最終的に納得し、「ある朝スウプは」の高橋泉監督の受賞に賛同しました。
もはやジャンルともいえる「日常淡々系」かなと、やや冷ややかに「ある朝スウプは」を観始めましたが、直に先入観を払拭する凄みをもって、同棲する男女がリアルに迫ってきました。狂気に傾く男と、彼から離れられない女の、甘い恋愛を超
えた関係。監督と俳優が共に暮らさなければなし得ないのではと憶測するほどの、身を切るような演出。画のセンスもよく、確かに作品として傑出した独自性を発揮していると思いましたが、同時に、この監督は、彼の極めて私的な世界から出ないのではないか?今後も俳優たちとこれほどの濃密な関係を築かない限り、撮らないのではないか?と余計な疑念も湧きました。よって、上記の私が選んだ3本と同列に論ずることは難しいと判断し、敢えて外しました。職業として監督を続ける人を応援したいという想いでした。
内田けんじ監督の「運命じゃない人」は、時間軸と人物の視点を交錯させるシナリオの妙と、よく練られたセリフが高評ですが、私はむしろ演出に感心しました。お人よしの会社員はじめ私立探偵ややくざなど、類型的になりやすい人物たちを細かい動作や小道具を駆使して、過剰に走らず、独特の面白さを出している。ぎこちない男女のやり取り、女に気持ちが通じたときの宮田の変な踊り、強気な探偵がヤクザを前にうろたえるサマなど、随所で笑えました。候補作品群のなかでは唯一のコメディー志向に共感し、イチ推しとしました。
「ゲルマニウムの夜」は、映画でしか表現できない衝撃に満ちた作品でした。雪中を進む牛の冒頭シーンから、寒々とした北の教護院の雰囲気、屠殺、解体が行われる家畜小屋などを、忘れ難い美しさと静謐さで画を切り取り、音楽も良かった。俳優たちにこれだけの変態的行為をさせた大森立嗣監督の力、偽善と醜悪を直視する眼に感服します。こだわり続けた性器が修正によって見えなかったことと、暴力の果てにあるものが感じられなかったところが残念でした。敢えて見せなかったのかもしれませんが、私は感じたかった。
「樹の海」の瀧本智行監督には、新人としての瑞々しさより、経験に裏打ちされた安定感のある演出力を見せつけられました。四つのエピソードを組み合わせ、俳優たちを導き、市井の人たちへとうまく定着させている。素直に感動できる唯一の作品でした。居酒屋の態度の悪い店員や、「遠い世界に」の間違った歌い方など、細部への目配りも効いていました。エピソードが多いとか、樹海の底知れぬ怖さと、死に臨む心の闇が足りないという意見も出ましたが、私は瀧本監督のヒューマニズムを大いに買いたいと思います。
結果として、内田、大森、瀧本三監督は、敢えて顕彰せずとも今後も商業映画の世界で十二分に力を発揮していけるだろうという総意であったと思います。高橋監督には、娯楽映画の世界にも進出し、是非、ラース・フォン・トリアーやジョン・カサヴェテスのような監督になって頂きたいと、勝手に楽しみにしております。
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