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アニメ監督ってなんだ!

〜杉井ギサブロー監督/りんたろう監督〜対談


sugirin01.jpg2007/03/01 日本映画監督協会にて(司会:康村諒 撮影:日笠宣子)



☆プロフィール
sugirin02.jpg杉井ギサブロー

40.8.20生

59東映動画に入社、アニメの基本を学ぶ。61手塚治虫率いる虫プロ創立に参加。「鉄腕アトム」演出、「悟空の大冒険」「どろろ」などTVアニメの総監督。(T)「まんが日本昔ばなし」「ナイン」「タッチ」(映)「銀河鉄道の夜」「源氏物語」「ストリートファイター」「あらしのよるに(T)97「ルパン三世」00「陽だまりの樹」02「キャプテン翼」(VP)「羊のうた」。



りんたろう
sugirin03.jpg41.1.22生
(ア)「鉄腕アトム」で監督デビュー。以降、劇場作品、ビデオ作品、TV作品の監督に従事、現在にいたる。









 

 

【アニメ:創成期と現在】

杉井:僕らは東映(東映動画/現・東映アニメーション株式会社)でこの世界に入った。東映は大川さん(大川博氏/当時の東映社長、東映動画を設立)がディズニーをモデルにして、あのフル・アニメーションを日本でも本格的にやりたいと設立したのが始まり。その後、僕らは虫プロ(虫プロダクション/手塚治虫氏が創設したアニメーション制作会社)に移り、アトム(日本初のテレビアニメーション「鉄腕アトム」)で演出になった。

康村:アニメの始まりですね。
 (注:アニメ/現在では日本で作られたアニメーションの総称。以前はジャパニメーションと呼ばれ、一般的なフル・アニメーションと区別している)

杉井:そう。それはTV用のリミテッド・アニメーションなんだ。その当時は、(フル・アニメーションを作っていた)東映系の人たちが「アトム」は演出的にも、技術的にも、あんなものはアニメーションじゃない、と誹謗していた。でもそれが成功し、現在、日本のアニメーションは「アトム」の以前と以後で、分ける事が出来る。
 「アトム」以後のアニメでは、アニメーションの技法で観せるというより、物語性が中心になっているということ。「鉄腕アトム」という漫画の物語、それをアニメーションの手法でどうやって見せるか、そればかり考えていた。

 ちょうど、その頃、僕達の世代はヌーベルバーグを横目で見ながら、フランスの映画監督たちが新しい映像言語で映画を追求している、それ(彼等の映画)と自分達が作っているアニメが関係ないと言う意識が全くなかった。どんどんどんどん、アニメを映画的に見せる工夫をしていった。だから、(アニメは)マンガと映画の中間みたいになっちゃった。

康村:ある年齢ぐらいまでの演出家って、だいたい映画を作るつもりで、アニメを作っていましたよね。

杉井:うん。だから「アトム」以後は、(演出家は)映画技法を使って、アニメーションを作っている。本来、アニメーションと言うのは、まず「技術」「技法」が先行する。アニメーションと言う技法に合った物語を考えるのが普通だった。でも「アトム」以後は、先に物語があって、それをアニメ化する。逆転した。

康村:日本のアニメーションは「アトム」で変わったと言われましたが、ぼくは、現在のアニメーションもまた、大きな変革期を迎えているような気がしています。おおきな要因は「デジタル化」だと思います。映画が無声映画からトーキーに変わった時、映像文法も大きく変わったはずです。映像だけで表現しなければならなかったモノが、音や台詞でも表現できるようになった。
 今のアニメもデジタル化によって、大きく変わってきたような気がしています。自由度が広がった。広がり過ぎて、(アニメの)演出の方法がいま変わってきたな、と思っています。ちょっと話しがそれますが、うっかりするとイマジナリーラインさえ無視してやっている。でもそれはマンガのカット割りを見なれた人たちが(アニメを)見ると、結構平気だったりする。違和感を覚えない。

りん:それはね、演出家の視点だよね。それは確かにある。僕もそう感じているんだけど。
 「デジタル化」というと幅が広すぎて、論点が定まらない。現在一般的に作られているアニメは、原画・動画・背景は2D(紙)でやっていて、ペイントや撮影だけがデジタル。でも、僕がいま前田君(前田庸生氏)なんかとやっている3Dアニメーションは、同じデジタルでも全然違う。幅が広い。2Dという世界でデジタルを考えた時は、いま非常に無駄がなくなってきている。絵の具がいらない、セルがいらない、撮影リテークであるセルキズハレーションがない。(描き方もあるが)豆粒から広大な絵までワンショットでできる。そういう便利さがある。

 (注:セルキズ/セル・アニメーション特有の現象。撮影時、アニメーションも当然ライトを当てなければ撮影できない。セルロイドは傷つきやすい素材で、当てたライトの光がセルにできた小さな傷を反射させる。ライトを横から当てる関係で、特に縦の傷が画面のあちこちに目立ち、作品のクオリティを下げた)

 それから背景も、場合によれば紙描きじゃなくてタブレットで描けばもっと便利。でも、今の美術監督はなかなか2Dから離れられない。実際は、デジタルの場合でもソフトによっては墨のボカシから筆タッチまで全部(繊細に)できる。でもやらない。何故やらないかと言うと、やっぱりデジタルと言うモノに対する固定観念がありすぎるから。
 マッドハウス(1972年、虫プロの従業員だった丸山正雄・りんたろう・出崎統・川尻善昭氏らが独立して設立した制作会社)である時スタッフに、(CG)美術の凄い人を連れてきてデジタルでここまで背景が描けるよ、と見せたらびっくりしていた。(ペイント)ソフトが全然優秀になってきて、スピードも速い。だからいずれは紙で描くと言う形がなくなると思っている。

 僕はいま、絵コンテもタブレットでしか描かない。鉛筆も消しゴムも使わない。自分用に絵コンテ(フォーマット)を作ってはめ込むだけ。あとは、フォトショップとペインターさえ使えば、パッパカパッパカ! どっか行く時はノートブックとタブレットを持っていって、パッパッパと描いちゃう。そういう便利さがデジタルにはある。
 ようするに、2Dはカメラが固定されていた。縦のマルチとかが撮れない。その窮屈さの中で僕達は色々な(演出)手法を考えてきた。つまりびんぼうアニメだった。それがデジタル化で、わりと簡単に(高度な演出が)できる。そういう利便性はすごくある。

康村:利便性や、自由度が高くなった分、余裕がなくなった、ということはありませんか?
 僕の友人の一人に、演出の基本を撮出しにおくタイプの人間がいるのですが、彼はあらゆる素材(原画・動画・背景・ペイント)を、ただ撮出しのための素材に考えていて、撮出しの時点て、それらの素材を使って、どうやってカットを見せようかという手法で演出をしていました。それもまた一つの演出方法なのでしょうが、いま、デジタル化によって、撮出し自体が(演出の作業工程から)なくなっています。原画チェックの段階で全てを決め込まなくてはいけない。それは便利で楽なのですが、ある意味、余裕というか、別の意味での自由度が消えてしまった。原画という作業工程の初期段階で決めたことが、もう変更が効かない。

 (注:撮出し/アニメーション演出家の作業工程の一つ。商業アニメーションでは、演出家は撮影現場にいることはまずない。最終的に仕上がったペイント素材(以前ならセル)と背景を組み合わせて、透明なセル等にマジックなどを使い、撮影指示を入れていた。その指定された素材を撮影班に渡す。アニメーションの撮影ルームは暗室で、演出家が撮影現場にいてもあまり役に立たない。この工程を重視する演出家も多かった)

りん:それはね、確かにそういうもどかしさはあるんだけれど。でも、実は撮出しってのは、(今までとは違う方法で)デジタルでもやってる。(アナログの場合)ここに大判の背景があって、演出家がフレームを持って、ストップウォッチで(カメラの動きの)タイミングを計る。ただ、これがないだけ。
 モニターの中で見る事に慣れていないだけでね。僕はこれから慣れていくだろうと思う。(デジタルの場合)BOOKが無ければ、モニター見て「BOOK足してよ」と、簡単に出来る。不自由じゃない。
 (注:BOOK/背景やキャラクターの上に重なる背景)

杉井:そうだね。撮出しってのは、単なる仕事上の合理化だけのためにある作業。それは、きっちりモニターの前に座って、オペレーターと一緒に「そのPANもうちょっと早くできない?」とか「そこに寄らないで、カメラこっちへ寄ってよ」と(今まで以上の)撮出しが、ずっと出来るんですよ。ただ、それをやるとテレビアニメとかでは、時間がかかり過ぎるじゃないですか。だから、(現在の制作工程から)抜いているだけの事で、アニメーション映画の制作工程上で言えば、撮出しができないと言うのは、誤解だよね。

 実際、今まで紙やセルの上で、撮出しをさんざんやってきたけれど、あれはまた、カメラマンが(撮影)台の上にセッティングするのに付き合っていたわけじゃないからね。案外、演出の指示とは違うことをやっていても、なかなか気づかない。そう言う意味ではデジタルの方が、(確実に指示どおりになるわけだから)安心。

 さっき、変革期という話しもあったけど、映画って技術が変われば文法も変わるじゃないですか。アニメがデジタル化され、一番大きな問題は、(この技術を使って)何を語るんだ、ってことだと僕は思うんですよ。セルはもうなくなる。でも、これは(歴史の)必然。だって大昔は切り紙でやってたんですよ。なぜ、切り紙(アニメーション)かと言うと、(キャラクターの後ろの背景を見せるため)周囲を透明にしなきゃいけないから。その変わりがセルロイドだった。でも今、趣味でやる人以外セルは使わなくなった。切り紙がなくなった時と同じなんだね。

 そして今の紙のアニメーションも一緒でね、作業方法(商業ベース)から考えると、特別紙にこだわる理由が無い。どうしても紙の質感が欲しいと言う人以外、なくなっていくと思いますよ。紙じゃなくたって、モニター上で描けるモノ(タブレット)ができているわけだから。その時大事なのは、僕達が今まで紙の上で培ってきた(アニメーションの)タイミングをモニター上に素直に置き換えられるかってこと。
 そういった(演出的なデジタル化)問題と(アニメーション全般の)デジタル化は別個に考えた方がいいと思うね。

りん:うん。動画用紙がいずれなくなる、ということはあるかも知れない。いずれね。でも、僕はなくならないような気もしている。やっぱり、アニメーターがバーとやる感覚(描いた原画を重ね、手でめくって動きをチェックする方法)は重要で、モニターの中に(原画を)全部取り込んで自分で簡単にチェックするソフトがまだ無いから。そういうソフトが出来れば違うだろうけど、でもやっぱり紙の上に描いて自分で感じていくのと、モニターに描くのは違うかも知れない。
 デジタル化ということだけど、2Dと3Dは基本的には似ているけれど、イコールにはならないと思う。どっちがいいとか悪いとかじゃない。僕はもう2Dはいい(笑)

杉井:見切りが早いね(笑)

りん:そう(笑)。僕自身は常に新しい物に挑戦したくなるから、いま3Dでやってる。
 僕が今やってる3Dアニメーションは、あえてピクサーみたいな形ではなくて、日本の2D(アニメ)のテイストを3Dにどうやっていれていくかで苦心している。
 例えば、2D(アニメ)のメタモルフォーゼで、1コマ崩したりするモノを、3Dに入れてる。でもそういう(3Dの)アニメーターは日本では皆無だ。だから今、ほとんど現場は先生と生徒の関係でやってる。

 (注:1コマ崩したりするモノ/アニメーションの動きの中に、1コマ非常にデフォルメされた激しい動きの絵やエフェクトを挿入する日本特有のアニメ手法)

 また日本の2D(アニメ)の一番の特徴は、背景もキャラクターと拮抗するぐらい、同じように重要な役割を果たしているよね。ピクサ--などのアメリカ(の3Dアニメーション)は非常に合理的で、背景はとりあえずあればいい、問題はキャラクターなんだ! キャラクターの人気なんだ! と。だから背景って、以外と書き割りみたいに見える。ぼくはあれが嫌だから、もう少し3Dで質感のある背景を作りたい。で、どうやって質感を出すか。これがメチャクチャ大変なんですよ。今、テストでやっているのは100レイヤーぐらい重ねるわけですよ。そうすると、もの凄い時間がかかる。時間と技術がかかる。でもそうやって、僕らが40年ぐらいやってきた2Dのテイストを3Dに取り入れていく。ピクサ--とは全く違った3Dを目指している。ピクサーと違った3Dというのは、日本の3Dはアメリカではバカにされているんですよ。それは何故かっていうと、ピクサーを頂点にして、それに向かっているから。これは、(予算やスタッフの規模で)かなわないんですよ。だったら、「アトム」の時のように、制作費も無い、枚数も使えない、じゃあ(キャラクターを)引っ張れればいいじゃないかっていう手法を3Dにも取り込む。3Dって1個(モデリング)を作ったら、どうにでも動かせる。でも、それをあえて動かさず、引っ張っちゃう、という乱暴なことを僕はやってる。キワモノ!
 そうすることで、ピクサーやアメリカ(の3D)とは違った3Dアニメーションの世界が出来るだろうっていうのが、大前提なんだね。(日本の)3Dアニメーションって、これからのもんだからね。

康村:3Dのアニメ版ですね、3Dのジャパニメーションというか。

りん:そうそう。ジャパニメーションの3D版を今作ろうしている。

杉井:そのジャパニメーションの最初は「鉄腕アトム」。それは、もちろん実写ではなかったけれど、(作っている演出家は)実写とアニメの壁っていうのは、感じてなかった。リアルなパース、リアルな絵を描いて、みたいな。でも大きな錯覚があって、根本的にはやはり、アニメと実写は違うと、実は思ってる。今は(実写映画にもCGが入り込んできて)かなり境界が曖昧になってきているけど。実写は人の肌が撮れる。人の肌の質感で(映像を)撮るって、人間の生身が映る。アニメって、絵画だから、所詮記号なんですよ。どんなにコンピューターが発達して、カメラワークが立体的になっても、やっぱり軸となっている役者にあたる部分が、絵画であれば、やっぱり、(観客への)迫り方が違うと思うんだよね。

康村:その善し悪しは別で......。

杉井:もちろん。だから演出家の立場で言えば、CGが発達すればするほど、僕達は、撮る素材(アニメ作品)を選ばないといけないような気がする。アニメの絵画性を追求していかないといけない。実写と同じような素材(物語)で作る事が結果良いとは思わない。

【職人/クリエーター】

康村:すこし話しが変わります。以前から、個人的に杉井さんやりんさんたち先輩にお聞きしたかったことがあります。アニメの演出......アニメの場合、(業界の中の職種として)実写映画と違い監督を演出を呼びますが、「演出家」は「クリエーター」なのでしょうか、それとも「職人」なのでしょうか。

 さっき、少し撮出しの話しをしたのですが、撮出しがあった頃って、演出って、撮出しができないと、演出になれなかったじゃないですか。つまり、35㎜フィルムの知識や、(アニメーションの)撮影台の知識が無いと演出になれなかった。
 「スライドをする時はタップをこうしなさいよ」「アニメーションの撮影台の構造上、こういう引き方はできませんよ」とか。最低そういう技術が無いと、なれなかった。
 先ほど、杉井さんが本来は、アニメと実写と違う、と言われましたが、ポストプロ(編集以降の作業)の部分ではほぼ同じ作業をしていますよね。
 でも編集といっても、アニメーションの場合、すでに絵コンテで、粗編ができているわけですから。あとは、短く尺を詰めるだけ。20分のテレビアニメや90分の劇場アニメが25分以上になったり、120分になったりする事なんて完全にあり得ない。
 つまり、絵コンテをつくるということは、最低限の編集の技術、知識が無いとできないわけですよね。本来演出は、職人的な(アニメの)技術が無いとできない仕事のはずでした。でも、現在デジタル化が進み、何でも出来るようになって、細かい技術など演出家に不要になりつつある。その時、必要になるのは作家性(クリエーター)かも知れない。

 僕は、アニメの演出家が演出家たりえる存在意義というか、拠り所は「職人」であると思っていたのですが。

杉井:いや、やっぱり僕はアニメーションでも演出家はクリエーターだとおもいますよ。つまり、職人芸だけでは、映画世界を構築する事ができない。
 監督に、職人が持つ技術・経験と目線が必要なのは、特にアニメはハッキリしている。パラパラパラとやった時に、描いた絵が(どんな風に)動くかと言う事をレイアウトの段階で(リアルに)想像できないと......。つまり、誰でも、アニメの演出家はスケッチをしていると思うのだけど、それはスケッチした段階で完成品が見えているから。見えていないと指示できない。
 だから、それは訓練された我々職人であるのだけれど、職人と言うだけでは、無理。そういう職人芸だけで、映画が出来るのか、といわれると、それは......。それを言ったら、幼稚園児だって、映画が作れるわけだから。

 僕は、よく言うのだけれど、アニメーションって、たとえ幼稚園児をつかっても「はいちょっと動かして、撮影して、また動かして撮影して」とやれば動く、作れるわけだから。アニメーションって、子供だって、できるわけだから。
 要は、そこにある種、意味性が加わるか。その意味性を加えるのは、演出家。物を作る想像力を持っていないひとでは、無理じゃないのかな。
 映画世界そのものが、そういう芸術なんだと思ってる。
 ......職人技術だけではね。

りん:いや、「職人」と「クリエーター」と言う概念が難しくてね。
 僕は、イギリスとか海外からの取材を受ける事が多いけれど、彼らは「お前は、ムーミンとかをやっていながら、一方で、もの凄くハードな作品もやっている。お前の作家性はどこにあるのかわからん」「宮崎駿はハッキリしている」と言う。そのとき、僕はこう答えるんです。
 僕は職人です。作家ではないと。あくまでも職人ですと。だけど、職人と言う概念は、例えば、深川とかで風呂桶を作っている......それこそ集めた板を箍で寸分狂わず、作る。確かに長年、水もれなく、しっかりもつわけですよ。非常に、或る意味では保守的で、一つのモノ(技術)をずっと、大事にしている。でも、そう言う意味でいう職人と自分を当てはめると、一寸違うな、とも思う。
 僕の中に、職人芸と言う確固たるものがあって、ただ、ずっと、僕は桶を作る気はない。
僕の理想はピカソなんだから。

杉井:ピカソなの(笑)

りん:うん(笑)
 つまり遊び心で、或るモノを作っては、壊す。次から次へ新しいモノをバンバン作っては、また壊す。僕の憧れは、ピカソの或る種の職人芸なんだ、と言ったらおかしいかな。なんだろ。

杉井:僕は、職人ではなく、芸人だと思っているよ。つまり演出とは何か、ということを端的に定義すれば「ある素材を使って、例えば、ここにある二つの灰皿を使って、一つ(の意志)を(映像で)伝達する。映画世界に仕上げる、ディレクションすること」。つまり、絵を描いてアニメを作っていくと言うのではなくて、いや、描いたって、描かなくたっていいのだけれど(笑)。(アニメーションの)演出は、そこにある素材を使って一つの映画世界を構築してく人間だということかな。

康村:先ほどりんさんが言われた職人の概念は凄くわかりました。例えば宮大工とか,かんざしを作っている人とか、職人と言っても、彼等は、職人と言う名の元に、芸術を自分の中で求めていますね。
 その作品にオッケーを出すのは(本当は)自分だけなんだ、と言う気概。そういう職人という言葉が、アニメ監督、あるいはアニメの演出家の概念にぴったりきていたのですが。

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りん:そうだよね。そういうのって概念の問題だから、非常に難しい。宮崎駿さんは作家(クリエーター)である。あの人は、一つのキャラクターで、決まったテーマをもち、ずっとやってきている。
 それを作家(クリエーター)と呼んだ場合、僕は作家ではない。つまり、自分に興味があればSFもやるし、ハードアクションもやる。だから、それは作家でない、あくまでも職人です。と、そういう分け方をして、(僕は)取材を受けている。でも、作家って、どういうものなのか、本当はよくわからない。




杉井:自分が作家なのか、職人 sugirin05.jpgなのか、芸人なのか、自分の意識だけの問題であると思う。
りんちゃんは僕達を職人と言ったけど、やはり、僕はアニメーション映画作家だと思うのですよ。
 日本の場合は、オリジナル、ということを重要視するじゃないですか。今出た宮崎さんもそうだけど、「ほしのこえ」の新海誠さんなど。シナリオも自分でも書き、キャラクターも自分で描き、オリジナルを自分で描いたものを作家と言うけれど、それは、映画をつくっている監督と言う立場からから考えると、そんな細かい事はどうでもいいんだよね。映画の素材の話だから。

りん:本当は個人的にはどうでもいいんだよ。周りが決めてる。勝手にジャンル分けをして、レッテル貼ってる。それは、勝手にしてよって。(笑)
 自分からは、自分が作家だとか、職人だとかはいわないものね、ただ「なんですか?」と聞かれれば「アニメーションの監督をやっている。」と答える。それでいいんじゃないかな。

杉井:実際には、映画作りはじめたら、自分が作家なんだろうか、職人なんだろうか、芸人なんだろうかなんて、考えない。
 例えば、わかりやすく言うなら、僕は芸を売っているから、芸人といいたいね。

りん:芸人かぁ(笑)

杉井:でも、それも言葉(だけの問題)であってさ......。

康村:でも、僕は昔、仲間と言い合った事があるんですよ。職人VSクリエーター論で。 それは、僕らぐらいの世代になると、(アニメーションを)職業としてやっている。りんさんや杉井さんのような創成期からやられているかたがたと違って、たまたま。この職業についてしまった。

りん:もう、確立していた......と。

康村:そうです。僕らは商業ベースでしか、仕事をした事が無いわけです。絵コンテをいくらで受け、演出をいくらで受け、監督いくら、という形でしか仕事をやった事が無いんです。どうかんがえても、クリエーターと言うには、違うかと。
 自発的に自分でなんかオリジナルを発表しようという思考・行動がない。もちろん、心の奥底には、各人、本当はそれぞれあるのでしょうが、実際、日常の中ではあり得ない。

りん:僕もないよ(笑)

杉井:でもそれは大きな誤解だよ。たとえば、素材・企画を会社から与えられるじゃない。会社が用意したもので、自分が演出をする、だから、作家性を出してはいけない。職人に徹する。それは大いなる誤解でさ、与えられた作品で、作家性を出せばいいじゃない。
 そこをね、止める人はいないし。だからさ、(今の演出家たちが)自己規制してやってる。 もうちょっと、厳しい言い方すると、楽な道を歩いているんじゃないか、と。つまりね。自分はね、俺は職人なんだと。だから、会社で用意された素材で、職人芸だけでやっていけば、一番楽ですよね。(仕事の)条件がね、別に作家性を求められているわけではないから。自己規制しているだけ。
 僕はおおいにね、会社から来た仕事で作家性を発揮すればいいと思うんだ。
 あんまりねえ、これは微妙で。例えば「水戸黄門」を作っている時に、勝手にね、自分の作品をつくっちゃまずいだろうし、観客にも怒られる。TVシリーズなんかでは、或る程度、作品の目的ってあるじゃない。それにそった約束はあるのだろうけど、ただ、そう言う仕事をしているから、職人であって、作家でない、とは思わない。ま、厳密にあまり考えた事無いけど、ぼくは、創成期からやっているから、わがままに作れる。あまり、自分が職人仕事をしているなんてかんがえたことないし......。

りん:ただねぇ、そう言う時代からやってきたわけじゃないですか。ぎっちゃんもそうだけど、僕らは、若かったけど挑戦的だった。だから、漫画原作があり、漫画を映像にとりいれなくてはならない。しかも、30分という尺の中で。そこに反骨精神というか、挑戦があった。あの手この手を実験的にやっていく。その実験的な事が、やがていろいろな事に発展した。制約の多いカメラワークのなかで、色んな事ができた。

 いま、テレビアニメを見ていると、(演出を含め、作り方が)非常に保守的だよね。確かに技術は凄く飛躍して、絵もうまくなった。でもね、凄い、保守的。
 何故かというと、確かに、「鉄腕アトム」から始まったテレビアニメとコミックの関係は、蜜月関係で平行して発展してきたことはまちがいないの。でも今はむしろ、(アニメが)コミックの下請になっているんじゃないかな。そこには、挑戦はなにもない。
 テレビアニメの完成度が高かったのは、1970年から80年代。ほとんど、間違いなく(その時点でテレビアニメの演出法は)完成しているんだ。
 その財産で、今はくっている。もっと挑戦しろよ! と思う。でも(見ている限り)それは皆無にひとしい。

杉井:それもね。やはり、新しく会社には入った人が、自己規制をしてしまっているから。

【原作としての漫画、商業作品としてのアニメーション】

康村:でも、実際には自己規制ではなく、確固たる制約が現場にはありますよ。
 20年前だと、シナリオもらって、バーとラフ(絵コンテ)を切って、映像の流れを中心にして、台詞を入れたりして完成させた。ある程度はシナリオを無視できた。でも今は、ゲームが原作だったり、コミックが原作だったりすると、いろいろな注文があり、決定されたシナリオはもう、ほとんどいじれなくなっている。台詞一個変えづらくなってきている。

りん:それはね、康村君の言うとおりなんだよ。
 ゲーム原作とかもあるけれど、特にマンガ原作の場合、出版社の編集部がものすごく力をもっている。編集部は何を守るかと言うと、原作者を守る。その編集部がもの凄く力を持っていて、ま、ある意味じゃ、(編集者が)漫画のオタクっていうのもある。そういうのが、現場にはいってくるから、ちょっとでも原作と違っていると、クレームをつけてくる。でも、それを今のプロデューサーはガードできない。僕の知っている限り、唯一やっているのが丸山(丸山正雄氏/現マッドハウス取締役・Chief Creative Officer)ぐらい。(現場をガード)すると、もう、そこは喧嘩になる。そうすると、あとはその作品をやるかやらないかだけになってしまう。
 原作漫画のコマを絵コンテにうつして、そのまんまアニメーションのアングルにすれば、原作者も出版社も大喜びだ、それが現実だね。

康村:監督OKが出た絵コンテを、出版社チェックにまわし、OKが出て、初めて決定稿になる。つまり監督OKが、じつは決定稿ではないことになっている。

りん:そう。微妙に会社によって違うだろうけど、それがまかりとおっている。だから、僕はこういう状況が続いていくと、アニメはダメになる、と思ってる。

康村:それで、最初にお話ししたように、イマジナリーラインさえ、あまり、おかしいと思えなくなるようになってきている。それは、あまりにも漫画の影響を受け過ぎているから。見る側も作る側も。
 漫画を見なれた人たちには、多少、イマジナリーラインを越えるカット繋ぎは、たいした問題でなかったりする。

りん:見る方もね、昔は寛容だったんだ。
 いま、例えば「ナナ」という作品がある。漫画を見ているファンが、アニメを見ている。だから、一寸でも違うと、それはちがうとクレームを付けたりする。結果、どうしても主導権が原作者や出版社に行ってしまう。
 僕らが作っていた「鉄腕アトム」だって、手塚さんの原作があった。でも、(原作者である手塚治虫氏の許可もあり)僕らは勝手にやってた。

杉井:今だに勝手にやってるよ(笑)。

りん:そう。おれたちは、勝手にやってこられた。
 でも、今は勝手にできない(状況がある)。それが現実だよ。情けないけどね。

杉井:そう(笑)。それが現実なの? ぼくは現実を知らな過ぎるな(笑)。
  僕なんかはね、(原作をアニメ化する時)一番始めに原作者に会いますよね。で、いまから僕がアニメにするので、原作とは変わりますよ。だって、原作はコマ漫画なんだし、それを映像にするってことは、まず時間軸が入る。アングルが変わったり、ショットがかわったりもするわけだから。それは了解して下さい、と。
 それと(アニメ化された時)キャラクターは動くわけだから、原作の止まった絵である漫画とは全く観点がちがうので、できるだけ合わせるけど、(キャラが多少は)変わるのは了解して下さい。そこで(相手が)嫌だと言ったら、仕事しませんよ、僕は。

りん:そうだね。ぎっちゃんなんかもそうだし、僕もそうだし、丸山もそうなんだけど。でも、全体を見渡してみると、違う。で、問題は業界には、次々と制作進行も入ってくる。 そして(彼等は)それが当たり前だと思ってしまっている。そうやって原作者側から、直しがくるのが当たりまえなんだと。そういう状況が、テレビアニメの中に蔓延している。

杉井:そんな(笑)。蔓延していていい事無いでしょ。

りん:そりゃそうだよ。だから、衰退していくんじゃないか。

杉井:でも、不幸だよね。コマ漫画どおりなんて、(映画としては)成立しないよね。

りん:だから、僕らががんばって、アニメはアニメ、コミックはコミックなんだ、って言い続けないといけない。アニメと漫画のスタッフ両者が、ちゃんと理解しあっていた昔の蜜月関係があった時と大きく変わっちゃった。アニメーションが外貨を稼ぐようになり、そこにビジネスというモノがバーンとはいって、変わってしまった。

 むかし、俺が(原作をアニメ化する時)丸山と集英社や小学館に行った。かならず行ったんだけど、特に小学館なんか、超ウルサイから。行って(制作方法や演出方法の違いで議論になると)アイツがキレる時は、俺がキレない。俺がキレる時は、アイツがキレない。と(二人には)暗黙の了解があって、それでアニメとコミックは違うと、話す。でも、マッドハウスと丸山と俺がいると、なんとか(原作/出版社サイドとパワー)バランスがとれてた。

 でも、最近、色々な連中に話を聞くと、もうそう言う風にはやっていけないと言う。
だから、新しく入ってくる制作進行は(原作/出版社サイドから直しがくるのがあたりまえ)、そう言うモノなんだと、思ってしまっているんだ。

杉井:だって、もの作る人間が、いちいち、これでいいのかなって、OKが出せないのなら(原作者サイドにお伺いをたてていたら)監督業が成立しないよね。

康村:そうですね。全くその通りだと思います。

杉井:やっぱり、もの作る人間は、どっか自分の価値観があって、OKだせる立場でないと、作品世界を構築できないよね。
 アニメーションは特にね。構造物が質感を持っていないから。厳密にいうと、そういうことをいちいち、考えて、(作品世界を)構築しているわけだから、自分の美学だったり、自分の中にあるわけだから。それが漫画原作のコマ割りを再現するだけになったら、映画として成立しない。

 漫画家だってさ、自分の画風で売ってるわけだから、キャラを勝手に変えられては困る、と言うのはわかりますよ。(僕達も)意図的に変えようとしているわけじゃない。出来るだけ、原作者の世界に合わせよう、似せるようと努力はする。でも、一番大事な部分、(漫画の)止まったコマと、時間軸が通っている映像では基準が違うわけだから。本来の媒体が違う。

りん:例えばね、こういうことがあって......。松本零士さんとは、ケンカしながらも結構友達関係なの。で、このまえ新しい「キャプテンハーロック」を作ってくれって、別の所から依頼がきた。でも「ハーロック」って、もう(映像化されていない)原作も無い。でも僕は「ハーロック」と言うキャラクターが好きで、オリジナルに近いような形で作った。松本零士さんは、僕がやったってこともあって、それをOKした。ただ冒頭に「これは松本零士原作/キャプテンハーロックのりんたろう版です」と必ず入れてくれと。それは松本零士さんの(原作者としての)ギリギリの所なんだと思うんだよ。尊重すると。僕の作品は松本零士さんのエッセンスをキチッと入れているつもりだし。(松本原作が)好きだからやってる。そういうところの歩み寄りのギリギリ。そういうのは、作家によってあると思うんだよね。

杉井:つまり、出版社サイドのクレームって、編集者の想いであって、漫画家の想いとは違うんじゃないの。バカじゃないんだから。自分は静止したコマ漫画描いて、(そのまま映像として)再現してくれなんて、思ってないんじゃないの。

りん:うん。思ってない。いや思っている人もいるだろうけど、一番始末が悪いのは編集者。編集者が力を持ってる。でも、話してみるとバカなんだけど(笑)。オタクなんだよ。アニメもよく見てる、オタクなんだ。だから漫画編集者が、今の業界、よくも悪くも一番のネックになってる。
 だから、編集者と現場のプロデューサーの闘いになる。そこが難しいところなんだよ。
そこでケンカになった時、トップに(監督として)杉井ギサブローや俺がいれば、その作品はオシャカになるか、向こうが「わかりました。杉井さんの好きなようにやって下さい。でも、ここだけは外さないで下さい」となる。
 だから、僕らが、口を酸っぱくして、(アニメーションのために)「今頑張る」というのはそこしかないじゃない。だから、杉井ギサブローは杉井ギサブローで常にそう言う事を思って言い続ければいいとおもう。
 あとは、どうあがいたって、30年後のアニメーションなんて、俺死んでるし、どうなったってかまわない(笑)。関係ネエよって(笑)。

【実写映画とアニメーション】

りん:だいたい、ぎっちゃんの場合、(アニメーションへの憧れ)ディズニーがあって、アニメーションと言う世界へストレートに入ってきた。でも僕なんかは不純で、アニメーションなんか、どうだってよかった(笑)。本当は実写の監督になりたかった。
 だから、この年代で不純な動機でアニメーションに入ってきたの僕ぐらいじゃない(笑)。

杉井:そうだよね(笑)。朝、東映動画にきて、撮影所ばっかり行ってるんだから。

りん:ただ、どっかで(少年の頃から)漫画とか模写していたから、アニメとかに入っていけた。でもずっと、実写へのコンプレックスがあった。
 だけどあるとき、はたと気づいた。たとえば、黒澤明さんなら、アフリカの大地に沈む夕日をワンショットだけ撮らせてくれ、と言ったら、ひょっとしたら許されるかもしれない。
 でも、僕がもし新人監督で、そんなこと(こだわり)言った所で、OKなんか出るはずが無い。しかしアニメなら簡単だ。だって、それを美術監督に言って、描けばいいんだから。それから、今村昌平さんが「赤い殺意」の中で、押し入れの中にカメラを入れて撮った。アニメなら簡単に出来る。小津安次郎さんがローアングルで撮るために、縁台の下にカメラを置いた。これだってアニメなら簡単に出来る、っていうことに。

 


sugirin06.jpg その時、アニメの良さ、可能性を  感じた。それから、もう一度アニメでやろうって、決心した。「銀河鉄道999」あたりまでは、本当は、凄く悩んでた。あの頃までは「アニメなんてどうだっていいよ。実写がいいよ!」って思っていた。それぐらい不純でやってた。

杉井:僕はね、りんちゃんと反対。りんちゃん(の気持ち)はね、(僕らには)わかってた(笑)。だって、暇さえあれば、撮影所に入り浸っていたんだから。もう、わかってたんですよ。本当は実写やりたいんだな。でも、(社員としての)席としちゃ東映動画(現/東映アニメーション)しか空いてないから、入り込んだみたいな(笑)。
 僕は小学5年で決めてましたから。アニメーションにはいろうと!

りん:だから、本当は目線が違っていた。背中合わせだった。

康村:お二人は同期でしたっけ?

りん:いや、ぼくが半年ほど遅いかな。

杉井:そうだね。そして僕はその頃「東映のシステム、こんなんでいいのかな?」って、新人ながら、密かに、生意気に思っていましたよ。だって、人によって(同じキャラクターなのに)描く絵が違うんだから。

 「えっ、大工さん(大工原 章氏/アニメ監督)と森さん(森 康二氏/アニメーター)て、1本の映画で(同じキャラが)こんなに変わっちゃっていいの?」って。で、大塚さん(大塚康生氏/アニメーター)には「大塚さん、結構自由に描いてますけれど、キャラがずいぶん違いますよ」って、大塚さんには「動いたらわかんないのっ!」て怒鳴られて(笑)。
 だって、ディズニーなんかしっかりしてるじゃないですか、キャラクターの統一性とか、カメラワークとか。
 その頃は、僕らはまだ原画を描く力がないのに「じゃあ原画描いてみる?」とかっていうことが許されるおおらかな時代だった。だけどやっぱり内心「こんなにバラバラで映画作ってていいのかなあ」って、思ってた。もちろん言わなかったけど、思いながら東映動画を過ごしてた。

 やっぱり虫プロで手塚先生の下で「アトム」を始めてからっていうのはね、簡単な言い方をすると「(アニメーションにとって)動きって、一体何だよ!!」って、考えるようになった。つまり、動かなくったってね、ストーリー性があれば成立した。だって(アニメーションなのに)3秒間も4秒間も絵が止っているんですよ! で、目だけパチパチやって、口だけパクパクして台詞を言ってる。もう始めて僕がやったときは「こりゃ、インチキだよ!!」「(アニメーションなのに)止め絵を映像にしてるだけで、動いてないじゃないか!!」と。ところが、やっていくうちにこりゃもう根本が違うんだ。そうすると、ディズニーが作っているフル・アニメーションみたいなものにこだわっているよりは、ずっとこっちの方が、物語性とか、題材の幅とか、確実に広がると僕は思ったね。

 だから「どろろ」やってる頃はね、わざと映画的に作ったんですよ!! 僕らの子供の頃には大人の背中からこう、わけの分からない難しい映画見てたりした時代があった。そういう子供たちに背伸びをさせて、映画の語り口で「どろろ」って世界をアニメで描こうって。結構意識的にね、実験やってたりした。時代も良かったんでしょうね。つまり、職人であるって意識よりは、(何でも)作っていいんだ!! って、そういうムードが虫プロにあった。 
 手塚先生が作家だからなのか、みんな結構自由にやってたって感じがする。
 それがだんだん定着して、逆に言うとアニメ大国になって、アニメと漫画はある種一体だから、今度は漫画のコマを使ってアニメを作らなければいけなくなってきたとしたら、不幸ですよね。

康村:ちょっと悔しいんですけど、漫画家の人も上手くなって、(映像のアングルとして)結構使える絵が、今は多いんですよね。

杉井:そりゃ「アトム」だって一杯ありましたよ。だって、手塚先生自身の漫画がね、映画的だったから。日本のストーリー漫画っていうのは、手塚治虫って作家が中心になって創ったもんじゃないですか。何をやったかっていうと、それまでの漫画に映画性を入れたんですよ。あの人は漫画という形を使って映画を作っていたんです。「ジャングル大帝」にしても何でも構成から流れから(それまでの漫画の)見せ方じゃないですよ。全てが映画のような構成になってる。それが、たまたま「アトム」で映像化した。やるほうだって非常に楽でしたよ。原作が映画性を持っていたんだから。

 その結果、日本のストーリー漫画っていうのは、映像性っていうか、映画性をもって成熟してきたんですよ。だから、実写がどんどん漫画原作やってるじゃないですか。「のだめカンタービレ」とか「どろろ」もやってるし。テレビ番組の(漫画原作の実写)ドラマ化って、僕はひそかにアニメ業界の危機だと思ってるんだけど。かたっぱしから実写ドラマ化して、結構人気もでる。本来ならアニメ業界の方にくるはずの企画が、実写の方に流れちゃってるって現実があって「えっ、あれって、本当だったらうちの方へ来る仕事なのに、実写の方にいっちゃってるんだよね」って(笑)。

康村:でも、それって、(映像)業界にはプロデューサーがいないって宣言してるんですよね。(実写にもアニメにも)オリジナル(企画)を出せないという事は。
 でも、また悔しいことに、結構実写の方が(漫画原作なのに視聴率を)稼げたりしますよね。

りん:あのね、(実写とアニメの関係で)一つ例をいうとね。「映画芸術」っていう雑誌があって、時代によっては、三島由紀夫とか種村季弘とか吉本隆明とか、そうそうたるメンバーが原稿を寄せていた。で、あるときね、種村季弘さんとか吉本隆明さんが映画芸術の特集で、スピルバーグとルーカスが出てきた時代、ちょうどその時にルーカスとスピルバーグを取り上げて、二人が声をそろえて言ってたのが「日本のアニメの技術が盗まれた!」と。もちろんいい意味でね。で、延々とそれを語っていた。それからだいぶ経って、同じようなメンバーで「今度は日本のアニメがルーカスとスピルバーグを模倣している」って言うのね。

 これは象徴的な出来事だと思った。

 確かにルーカスやスピルバーグ、特にスピルバーグなんかは日本に来ると、日本のアニメビデオをドサッと買っていったって聞くしね。お互いに(表現技法を)盗んだり盗まれたり。言葉は悪いけど、そういうエキサイティングな関係があった。その典型がウォシャウスキー兄弟の「マトリックス」だ。ジェームズ・キャメロンさんが「タイタニック」を撮る前、別のSF映画を撮る予定があって、「アメリカの3Dチームはいらない。日本のアニメーターのタイミングが欲しいんだ」って言って(アニメーター)を何人か連れていった、優秀なのを。そして「君たちのギャラは好きなだけ出す。仕事が終わるまでビバリーヒルズに住ませる。だから自分の作品を手伝ってくれないか」と。つまり(アニメにある)日本独特のタイミングが欲しかったわけだ。そうした時、アニメーター全員が帰ってきた。要するに「僕達は技術だけを売る気はありません。自分の作品があって初めて成立するんだ」って。そのSF映画をジェームズ・キャメロンさんはあきらめたって聞いた。

 そのくらい、日本のアニメは独特のモノを持っている。僕はある大使館に行って講演をした時、大げさな言い方をした。「日本人のDNAの中に、やっぱり俳句の五七五調の間(マ)が在って。そういう部分が(アニメのタイミングに)入っているんですよ」と。
 それがあの(アニメの技術である)引きのテンポになったり、芝居をバーとやって、ピタッと止めて台詞を言ったりするタイミングになっている。ジェームズ・キャメロンさんはあれに憧れたらしいんだよね。向こうの3Dって、ただひたすら動いているから。
 それなのに、今は逆に全てそういうものを捨てて、アメリカナイズされたものを取り込もうとしている、アニメの中に。これが衰退していくもう一つの原因! と僕は思っている。

 「サブと市捕り物控え」を監督した時、僕は枚数を出来るだけ少なくし、映画的に作ろうと思った。絵は止めて、ガンガンキャメラワークと音楽と音でね。その時新聞に「座頭市」の監督の三隅研二さんの記事が載っていた「いやぁ実はね、アニメがバカにならない」って。「サブと市」についてのことだったのだけれど......要するに真っ黒ベタの画面の中で、刀がバッと斬る。それは刀を見せないで、光だけが走って、そこから血が流れだす、といった手法を僕は引っ張り出した。そういうのを三隅さんが見て、座頭市を撮る時に役に立ったと言ってた。それが実際にはどう役に立ったのかはわからない。インスピレーションだけの事かもしれない。でも、そういう見えない(影響しあえるような)関係が実写とアニメにはあったよね。
 いまはなくなっている。

杉井:だから今の「サブと市」の時なんて、原作者の石ノ森章太郎さんは、(アニメになり)自分の漫画とはキャラも違う、カット運びも全然違うのに、りんちゃんが監督をして喜んでたんだよね。そういう作家が漫画の世界にいた。僕は、日本の漫画は素晴らしいと思うよ。(一つの媒体として)完成しているんだから。でも、もう1回、それをそのまま映像でやる意味ってわからない。それは見たかったら、漫画を読むべきなんだから。

【アニメの未来】

杉井:(商業として)いまはアニメーションという仕事がね、もう固定化されちゃっているということかもしれないね。だって、できるだけ漫画原作に絵が近く、カット割りも近く、ストーリーも同じように再現しなきゃいけない、それがアニメなんだっていう業界になりつつあるのなら。それがいやな人はやらなきゃいいし、それが好きな人はやったらいいというふうに職業になる。そういう意味で初めに出た演出家が職人かどうかというと、微妙に職人性を要求されるでしょうね。後やる本人が納得するかどうかの問題で...。で、実際にはりんちゃんが言ったようにアニメ業界は、俯瞰でみればそういう方向にいってることになる。

りん:危うい。

杉井:でも中味(現場スタッフ)は必死になってみんなやっている。だからなんともいえないけど、やっぱり衰退していくんではないか...まあ、確実ですね、それは。言葉は悪いけど、成り下がっちゃう。本当に。...でも、一方ではそう見えないんだよね。ビジネスとして成功しているから。

りん:アニメがビジネスとして成功して、世界中にアニメが広がった。テレビ放送は当たり前。どこの国でもアニメのコスプレをやってたりする。大もうけしてる人間もいるわけだ。  でも、実際には、別の角度から見て衰退しつつある。技術がこれだけ発展して、デジタル化されても、逆に言うとさ(ビジネスとして成功してくると)、どんどんオリジナルの企画が通らなくなってくる。...数字ではじきだす時代だから。このキャラクターは(視聴率や興行収益)なんぼだ...っ。てアメリカ風にね。だから「ゴンゾ」なんていう会社なんて今マネジメントが大変で、そっちへ(制作思考が)全部いっちゃった。要するに銀行が(製作に)入る、ファイナンス系が入るという所で成り立っている会社は、もう全部数字(利益優先)できちゃう。(スタッフが育たない)危うさ。

杉井:でもりんちゃんなんかの場合はさ、もともと、アウトローっていうか、「俺には関係ねえよ」って意識がある。...俺もそういうところがある。

りん:それは杉井キサブローという人間だから、俺っていう人間だからやってこられた。これから、本当に現場にファイナンス系が入ってね、それをやらざる得ない状況になった時、止めようがない。一回アニメがだめになればいいんだけどさ。

杉井:そうじゃなくてもね、TVっていう媒体そのものがもう情報家具になってるんですよ。単なるインテリア。今時ね、TVの前に座って、じっといつまでも番組見てる人はほとんどいませんよ。で、どんどんチャンネルを変えて、自分の見たいもの、ニュースだとか自分の好きな役者さんが出てるドラマとかを選んで見てる。

 アニメ界っていうのは、もう90%がテレビアニメで業界が成り立っているのに、社会的には、視聴者はテレビ離れを起こしちゃってるんですよ。テレビ離れという社会を前提に、これからアニメ業界っていうのはね、どこへいくんだろう。僕は、自分の業界だから、衰退していっていいとは、やっぱり思ってない。どっかでね。活性化されて、色々面白いアニメを作れるような場であって欲しいんだけど、やっぱりそういう風にしていくには、いつもやっぱりある種、映画制作にはつきものなんだけど、経済性とか制作状況と戦っていく姿勢がなければいけない。
 そういう姿勢が作家性なんじゃないかと僕は思うのね。

りん:だからいかにそのアナーキーでいられるか! マッドハウスの場合で言うと、丸山がいることによって、やっぱあそこは大きな会社になったけど、(根本は)アナーキー。ぎりぎりの所でやってる。でも、会社が大きくなればなるほど、そうではすまされないような状況が出てくる。そりゃあそうだと思うよ。だから第一線でやってる俺たちが唯一やれるのは無駄でも戦って、抵抗していくしかない。そう言うシステムに対してね。そういう風なものが、映画作ってきた人たちの、歴史でしょう。

 

sugirin07.jpg杉井:それが自己満足じゃなくて、我々は映画作っているわけだから、観客とともに行くんだけど、そういうメッセージ、反骨精神を持っていけるかどうか。そのレベルで言えば、オリジナルであるかないかとか、絵が似てるとか似てないなんて、随分ちっちゃい話でね。
 基本的には、ある社会構造...例えば、経済原理ばかり走ってても、経済原理だけではモノ作れませんから。そうすると、やっぱりそうするといかに作り手が反抗して戦っていくかってことになる。一人じゃしょうがないけど、やっぱりムードとしてそういう力を持っていく。それは作品の内容と関係がないように見えるけど、実はその反骨精神こそがやっぱり面白いもの作りたいとか、次の(新しい)ものへ向かう力になる。それをとっちゃったら、何をやるんだよって話になっちゃうからね。
 いまマンモスになっちゃって、杉井が何を吠えようと、そんな時代じゃないよって言われたらオシマイだけど。

りん:いや、「遠ぼえ」でいいと思う。僕達は「遠ぼえ」レベルでやっていくしかないと思う。 
 僕は自分の力なんて、その程度だろうと思ってる。でも、それなりの意味・価値はあると思う。もちろん、聞く耳を持つ人もいるかもしれない、少数派だろうけど。でもほとんどは「杉井がああ言ってた」「りんがこう言ってた」ぐらいだよ。

 将来テレビアニメはなくなるかもしれない。携帯への配信、コンテンツになる。全然(映像ドラマの)概念が違う時代が来る。そういう中で、アニメもまた違う方向へ行かざるを得ない。

杉井:それは今日の核心だよね。(アニメ等の映像番組が)テレビモニターからパソコンのディスプレーへ変わるのは目に見えてる。それがやがて携帯画像になる。そうするとアニメだけじゃないと思うけど、映像そのものへの接し方が違ってくる。

 僕らの仕事って、映画館という空間で上映されるか、TV放送で家庭で見るかを分からず作るってことはあり得ない。当然、インターネット配信においては、そこでの演出の考え方が変わるのは当たり前。
 好きな奴もいるかもしれないけれど、1時間半も2時間もパソコンの前でずっとモニターを見ているなんて、普通ではあり得ない。そうすると、もしかして(映像ドラマは)3分とか5分とか、長くても10分の勝負になる。日本のアニメの考え方は大きく変わりますよ。

 職人であれ芸人であれクリエーターであれ、なんでもいいのだけど、僕なんかは「何でもいらっしゃい」という気持ちでやってる。「1分でやれ」と言われればやるし「古いアニメスタイルでやれ」と言われればやり。いかなるものにも対応するけど、だからといって、その時に自分の中に映画を作る作家性がなくなるとは思えない。
 なんか、映画ってそう言う仕事なんじゃないの?
 ディレクションするっていうのは、素材があってナンボの世界で、それが映画を演出するっていう仕事なんだから。僕個人は、題材を選ぶって感覚はないね。2頭身のキャラだろうが、8頭身のキャラだろうが、不倫のドラマだろうが、SFだろうが、そういうものにはあまり関係なく、いかに自分の世界観との接点を見つけられるか、だけだからね。

りん:そういう点では、全く似てるんだよね。基本的には。それだけじゃなくて、そういうふうにやっていく自信があると思うんだ。何故、自信があるかと言うと、あらゆる修羅場をくぐってきて、抽き出しが沢山あるから。
 今の演出家とか、3Dやってるチームなんか抽き出しが一つしか無い。だからイザとなって、にっちもさっちも行かなくなった時、パンクするわけだ。でも、僕らはパンクしない。一杯ある抽き出しが自信となって、イザとなった時そこから引き出す。2頭身であれ何であれ、自分に引っかかる物があればやる。

杉井:もちろん、全く接点を見つけられない物はだめですよ。でもそれ以外ならなんでもOK。それを作家と呼ぶか職人と呼ぶかは、どうでもいい。好きに呼んでちょーだい。

【アニメ監督ってなんだ】

康村:ではそこらへんも含めて、最後に、「アニメ監督ってなんだ!?」と問われると?

杉井:「映画監督って何だ!」という質問とイコールですよね。作家であり、芸人であると思ってる。アニメという素材を使った芸人だね。

りん:映像の表現者。つまり、ファインダーから覗いている覗き魔、「エロ事師」だ。

康村:今日は本当に長い間、ありがとうございました。




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 (注:演出という言葉について/日本のアニメーションはその仕事の9割以上がテレビアニメーションであり、それを軸にアニメーション監督は仕事をしています。一般的にアニメーション業界では、職業としての監督を監督と呼ばず、演出と呼んでいます。アニメーション業界でいう監督はテレビシリーズを統括するチーフディレクターや劇場作品の監督をさしています。今対談では、業界の慣習どおり「演出」と呼んでいます)