このページの先頭です

特集

日本映画監督協会 会員名鑑

特集

特集・暑い熱いッ!あの作品の夏ゲンバ

2016年08月17日

『絵の中のぼくの村』挑戦?
井坂 聡

初日・2日目と雨が降ったり止んだりの天気でスケジュールが半分も消化できずに迎えた3日目の朝、外の様子を見に宿舎の建物を出たところ、通り掛かった地元の人が「崖崩れちゃって通れないよ」と話しかけてきた。「えっ!」となって慌てて見に行くと、カーブを曲がった先の山道が土砂で塞がっていた。そこを通らない限り、下に降りる道はない。一瞬目の前が真っ暗になった。

1995年の夏、私は東陽一監督の映画『絵の中のぼくの村』の撮影のため、高知にいた。時代設定は終戦直後でオール高知ロケ、しかも撮影期間は夏だけなのに真冬のシーンもある! さらに当初はスーパー16の予定だったが、クランクイン間際に35ミリでの撮影に変更となった。しかし予算はない。チーフ助監督の私は撮影実数を切り詰めたスケジュールを考えざるを得なかった。

この時、助監督13年目。私はスケジュールを組む上で2つの決め事を持っていた。先ずは1週間に1度必ず撮休を入れること。人間の集中力には限界がある。適度な休養を取ってリフレッシュした方が効率も高まるし質も保てるという私の持論をスケジュール作りに取り入れていた。もう1つは隠し玉として使える隙間を忍ばせておくこと。1日の撮影分量を決める際、多少のトラブルがあっても吸収できる時間を加味しておくのは基本であるが、シーンの難易度、監督の演出リズムを理解していれば、他の人には分からないように余裕を上乗せしておくことも可能になる。そうやって、一見すると満遍なく予定が入っている総合スケジュール表のあちこちに私だけが見える隙間を作って、大きなトラブルが起きた場合の吸収スペースとしていたのである。ああ、しかし! クランクインから3日続きのアクシデントで、隠し預金はあっと言う間に目減りしてしまった。

幸いにして崩れた土砂はすぐに取り除かれて、翌日には無事に通れるようになった。しかしこの後も問題は続いた。フィルム撮影であるのでラッシュが上がるまでは諸々の確認ができない。東京の現像所から16ミリ縮小プリントが届き、宿舎である使用されていないドライブインの食堂に映写機を持ち込んでの最初のラッシュで、画が気に食わないと東さんがリテイクを要求した。スケジュール表の隙間にリテイク場面をはめ込んだ。だが、これは序章に過ぎなかった。次のラッシュでもまたまたリテイクが。そして3回目でも......。業を煮やした東さんはビジュコンを用意しろと言い出し、本番のカメラワーク全ての確認を行うようになった。当然通常よりも時間のかかる撮影となっていった。残りの撮影日がどんどん減っていく中、隠し玉も底を尽きはじめる。新たに計算し直し、修正したスケジュールに何とか隙間を作る努力をした。それでも決めた撮休だけは動かさなかった。ストレスが溜まる時こそ息抜きが必要だからだ。

ある日、山の中で主人公の子どもたちが鳥を追いかけるシーンの撮影があった。強いライトが必要とあり当然ジェネレーターを使用する。シンクロなのではるか離れた場所にジェネを置き、山道に何十メートルもキャプタイヤを這わせ、それを落ち葉で隠していく。想像以上にその作業に手間取り、撮影開始予定時刻を大幅に過ぎてしまった。しかしいざ始まるとハイピッチで進んで、無事に終了することができた。ホッとした私に東さんが笑顔で語りかけてきた。「井坂さん、挑戦的な目で俺を睨んでたね。東、撮りきれるのかって」「睨んでなんかいませんよ。私はそんな無礼なことはしません」と私も笑って答えた。撮影準備の間中、私は頭の中にスケジュール表を思い浮かべながら、その日の夜の撮影への影響や、取りこぼした場合の段取りをじっと考えていたのであった。それが東さんには『挑戦的』に見えて、「クソッ、絶対に撮りきってやる」と火がついたとのことだった。こんなやり取りが出来る信頼関係があったからこそ、様々なアクシデントを乗り越えられたのは間違いない。とにかくそれまでの助監督経験の全てのノウハウをフル稼働させて何とかクランクアップにこぎ着けた。

この撮影には、高知県吾北村(現いの町)の方々をはじめ、多くの地元の方々にエキストラや現地スタッフなどで多大な協力をいただいた。坊主頭・おかっぱ姿になってくれた子どもたち、真夏に冬の衣装を着てもらった人たちなど、全ての場面に思い出が詰まっている。撮影隊のわがままに嫌な顔一つせず、差し入れを持ってきてくださったり、やさしい言葉をかけてもらったり、今でも感謝は尽きない。この支援と協力がなければ、映画は形をなさなかった。この固い繋がりが20年以上経った今も、私を高知と結びつけてくれている。

映画『絵の中のぼくの村』は1996年ベルリン国際映画祭で銀熊賞を受賞した。暑い夏の1カ月の濃密な時間を過ごした全ての力が結実した瞬間だった。そして、この作品は結果的に私の最後の助監督作品となった。

翌年、私は『[Focus]』で劇映画デビューした。

1|2|345