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特集

日本映画監督協会 会員名鑑

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5年後の宿題

2016年04月05日

描くべき鼓動が聞こえないか、語るべき問題が見えないか
脚本家・映画監督 井上 淳一

はじめての体験だった。福島での先行上映後のパンフレットのサイン会で、ほぼ全員のお客さんが僕に語りかける。映画の感想だけではない。この五年間の、自分の体験、痛み、哀しみ、怒り......話しながら、涙ぐむ方もいる。

『大地を受け継ぐ』は、原発事故二週間後、農作物出荷停止の報を受け、自ら命を絶った父親の跡を継ぎ、放射能で汚された土地で農業を続ける樽川和也さんの「声」を撮ったドキュメンタリー映画だ。映画の中で、樽川さんはしばしば沈黙する。深く、昏い沈黙。何度目かに全編通して観た時に、ああ、この沈黙を撮りたかったんだと思った。その沈黙の中にある声にこそ耳を傾けたかったんだ、と。そこに生きる人の数だけ声はある。しかし、その声はいつも語られるわけでない。沈黙の中に埋もれている。その声を、僕は確かに聞いた。普段黙して語られることのない、福島に生きる方々の、沈黙の声。この映画を作って良かった、と勘違いでも思える瞬間はそんなにあるものではない。その貴重な瞬間を僕は体験した。


樽川和也さん

しかし、いいことばかりではない。先行上映した福島の映画館の支配人は、この映画に批判的だった。福島に生まれ育った彼は、原発事故以降、奥さんと小学生の娘を京都に避難させている。そういう思いを他所から訪れた人に語ってきた。もちろん、その場では誰もが一緒に憤り、中には涙を流す人もいる。しかし、自分の生活空間に戻り、一日経ち、二日経ち、三日経つと結局は日常生活の中で忘れていってしまうのではないか。この映画は、原発事故後、はじめて福島を訪れる11人の学生が樽川さんの話を聞くという作りになっている。映画の中で、学生たちの顔はみるみる変わっていく。生の福島の声に触れ、彼らが受けた衝撃は計り知れない。しかし、東京に戻り、新宿の雑踏の中に消えていった彼らもまた、日常生活の中で忘れてしまうだけではないのか。

そうかもしれない。でも、それでもいいんじゃないか、と僕は答えた。もし、彼ら彼女たちの中に、ひっかき傷のようなものでも残っていれば、それでいいんじゃないか。11人の中の1人にでも、その小さな傷が残り続ければ、そして、その傷を時々気にしながら生きていくのなら、それでいいんじゃないか。知らなければ、何も始まらないのだから。

よく想像しなくては、と言う。しかし、残念ながら、我々の想像力はそんなに逞しくはない。例えば、シリアの難民のことを、例えば、最近あまり報道されなくなったパレスチナのことを、例えば、全く報道されないスーダンの虐殺のことを、我々はどれだけ想像し、自分の痛みとして感じることができるか。答えは明白だ。だからこそ、知らなければ何も始まらない。想像なんて出来ない。そのことを自覚した上で、やはり想像しなくてはならない。この世界に存在する圧倒的な不平等を少しでもなくしていくために。

初日の舞台挨拶で、学生たちの言葉を聞きながら、彼らの中にひっかき傷以上のものがちゃんと残っていることを知った。樽川さんが彼らの中に蒔いた言葉という種が確かに彼らの中で芽吹いていた。そのことを福島の支配人に電話すると、そうですか、良かったです、とやわらかい声で応えた。

そういう映画を僕は作っています。

皆さんはどうですか?

思い出して下さい。五年前のあの日を。これからは、否応なく「3.11」を意識せざるを得ないし、意識しない作品に何の意味があるだろう、くらいのことは思いませんでしたか?この五年、世の中は加速度的に悪くなっています。特定秘密保護法、マイナンバー、そして、安保法制。それでも下がらない政権支持率。そういうことを射程に入れた映画やドラマがどれだけありますか? 毒にも薬にもならない、映画館を出て三歩歩いたら忘れてしまうような映画を作るのは、そろそろやめにしませんか?

『大地を受け継ぐ』は50万円で作った映画です。もちろん、配給宣伝費にはその何倍ものお金がかかっています。それでも、全部で300万円足らずです。映画を作るより、映画を観てもらう、いえ、そういう映画が存在していると世間に知ってもらう方が大変な時代だというのは、誰よりも知っているつもりです。それでも、デジタル化によって、今までより格段に安く、資本側からの制約なく、好きなように映画が作れるようになったのは紛れもない事実です。だからこそ、何かを忖度したり、自主規制という名の、表現の自由を無自覚に放棄したかのような作品を世に出すのは、もう終わりにしませんか。耳をすませて下さい。我々が描くべき人の鼓動が聞こえてきませんか。目をこらして下さい。我々が本来語るべき問題が見えていませんか。

若松孝二さんが、大島渚さんが、新藤兼人さんが亡くなって、彼らが座っていた椅子がぽっかり空いています。誰も座りにいかないのなら、脚本家である僕がとりにいっちゃいますよ。

この記事は、監督協会会報「映画監督」2016年3月号からの転載です。
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