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特集

日本映画監督協会 会員名鑑

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5年後の宿題

2016年04月05日

あれから5年
映画プロデューサー 椎井 友紀子

あの日、五反田のイマジカで午後3時から打合せが入っていた私は、五反田駅近くの大ガードを自車でくぐる手前だった。

車体が横揺れしたかと思うと、ドーンと上下に大きくバウンドしてしまった。

2011年の3月11日午後2時46分、あの東日本大震災からもうすぐ5年を迎える。

我々映画関係者にも、映画のプロジェクトが頓挫したり、現在進行形の撮影が混乱したりなど災難が続いた。そして都内の映画館はほぼ閉館となった。

そんな映画屋も、ロケでお世話になったであろう青森の八戸、岩手の田野畑村や釜石、そして宮城の南三陸町や松島などの被災状況をテレビで目の当たりにし、心が締め付けられる思いを共有していた。

そして同じ思いに駆られた映画屋が、自分達に何か出来ないものか!と結集するのにさほど時間はかからなかった。

3月末に集まった監督やプロデューサーや関係者は約40名弱。

我々が考えた事は3つ。

①今は、救援隊のプロやボランティアのエキスパートの邪魔にならぬ様に、2カ月後の5月ゴールデンウィーク明けから、1年間ボランティア活動を続けてみよう。

②活動内容は、映画上映、物資運搬、花や苗木植えを柱に活動開始を決めながらも、現地の状況に応じて臨機応変に活動する。

③この活動の最中に、キャメラを回したり、ネット掲載はなるべく控える。

この3つを念頭に、約1年間のボランティアをスタートした。

1年間後、我々は再び、そして映画業界全体も自らの生業へと徐々に復帰して行く。

勿論、引続き岩手の田野畑へのボランティア活動を続けている映画屋グループ、東京にいても、被災地の物産を買う事で支援する仲間が未だに被災地に心を寄せ続けている。

私と言えば、2012年の秋からは、津波被害は受けてはいるものの、南三陸町全体の被災で生活を逼迫させた入谷地区の農家のご夫妻、津波被害に合い登米市の仮設にいるわっぱ(婆ちゃん)皆さん、そして、ボランティア活動中多くの支援関係者を、唯一迎え入れたホテルの女将達に会うべく、3ヵ月に1度一泊二日で訪問している。

3ヵ月毎日貯めた貯金箱のお金を持って現地で買い物をしては、仮設のおばちゃん達と昼食、夜は農家の夫妻と食事、翌朝は女将と珈琲を飲みながら、ただひたすら皆さんのそれぞれの今の声を聞くだけにしている。

これが、私の出来る身の丈で長続き出来る被災地訪問だ。

東日本大震災から5年。

地盤沈下した街並みは、再生に向けて盛り土の作業が進んでいるが、未だに仮設に住む方々もおり、不安定な収入で生活を続けている。あの日、命からがら助け合った住民の仲も、徐々に復興の温度差に翻弄される"今"を耳にする。

毎年、3月11日にはメディアは大きく特集を組む。

しかし、絆や寄り添い続ける人間の気持ちを継続させる事は、難しいものだともつくづく考えさせられる。

ここで、どうしても付け加えたい事がある。

先日世間を賑わし続けたSMAP解散!?

当事者SMAPが、未だに続けている活動がある。

それは、唯一特集ではなく毎週番組最後に、あの生中継の謝罪で頭を下げた"スマスマ"と言う番組で、同じくSMAPが頭を下げ被災地復興募金の呼び掛けを続けいてる。

敢えて付け加えるならば、SMAP独立を画策したと言われたIさんが、あの大震災の直後、"椎井さん、私ジャニーズを辞めて震災で親を無くした子供達の為にハウスをつくれないか本気で考えたの"と涙を浮かべながら話していた事を思い出す。

そんな自分の情緒を制し"ユーに出来る支援は他にあるはず!"と、ジャニーさんが悟してくれたとも話していた。

そのIさんとSMAPの事も、東日本大震災から5年が過ぎた今、私にとっては心が痛む1つだ。

この記事は、監督協会会報「映画監督」2016年3月号からの転載です。
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