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日本映画監督協会 会員名鑑

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2012年度日本映画監督協会新人賞特集 新人賞監督バトントーク

2013年12月16日

2012年度日本映画監督協会新人賞特集

第二弾 『日本映画監督協会新人賞監督バトントーク!!』

[始めに]
 当サイトでは『前年度受賞監督』と『本年度受賞監督』の対談を例年の企画として掲載しております。ありがちな企画ですが、そもそも当協会新人賞は、映画監督が選ぶ新人賞です。つまり受賞者たちが将来のこの新人賞の選者になる可能性も大きい訳です。互いに作品を語り合い批評する行為は、『映画を作る』事をも包括した大きな意味で『映画をやる』『映画を考える』機会であると私は思います。
 今回お届けするのは、2011年度監督協会新人賞受賞監督・砂田麻美さん(受賞作『エンディングノート』)と2012年度の受賞監督・島田隆一さん(受賞作『ドコニモイケナイ』)の対談です。広報委員会の井坂聡委員長が進行役と写真撮影を担当し、副委員長の私、望月六郎が立会人(なんのこっちゃ)を務めました。
 二人は初対面でありましたが、お互いの存在を強く認識されておりました。島田さん、砂田さんが共にドキュメンタリー作品での受賞であった事もその一因です。
 『聞いてみたいと思っていた』これは二人の共通した気持だったように感じます。ドキュメンタリーが持つ独自性・・・宿命と言ってもいい問題・・・取材対象者との関係性や撮影行為の正当性など、共通する課題や苦悩を語り合う非常に充実した2時間となりました。井坂氏も私もこの対談には大いに心を動かされ、双方に幾つかの質問もぶつけました。不躾な文言もありましたが二人は誠実に返答してくれました。このリポートを通じ、30代前半である新進気鋭の作家が抱える問題意識や未来像を感じ取って頂ければ幸いと考えます。

 なお対談は、お互いの作品、背景を熟知した状況で行われております。つまり第三者が聞いた場合多少わかりにくい部分があると考えます。その問題を解消するため、お二人の簡単なプロフィール、作品内容を表記しますので参考として下さい。

○島田隆一氏プロフィール
 2003年、日本映画学校卒業。卒業後、多数の企業用VP制作に携わる。
ドキュメンタリー映画「1000年の山古志」(09年公開/監督:橋本信一)に助監督として参加。「世界の夜明けから夕暮れまで~東京篇~」(12年公開)の一部を監督・撮影。日本映画大学非常勤講師。
『ドコニモイケナイ』が初監督作品。
○『ドコニモイケナイ』ストーリー
 2001年日本映画学校在学中のドキュメンタリー実習に島田隆一が選んだ取材対象は夜の渋谷にひしめく若者たちであった。あてもない撮影の中一人のヒロインが浮びあがる。ストリートミュージシャン吉村妃里・・・歌手を目指すためヒッチハイクで故郷佐賀から上京した少女に島田隆一以下スタッフは魅了されていく。しかし彼女を追いかけての半年間の撮影に影が差していく。所属した事務所からの解雇、居場所を転々とする中で、妃里が突然統合失調を発症し緊急入院、強制帰郷となったのだ。結果映画の制作は中断を余儀なくされ、その後映画学校を卒業した島田隆一は実社会でキャリアを積むことになる。しかし島田氏の心には繰り返される未練と諦観が交錯していた。2010年、島田隆一は10年前の自分に決着をつけるために妃里の故郷である佐賀へと向かった。妃里にはむろんかつての輝かしい面影はなかった。母との二人暮らしの中で単純な作業に従事する妃里と島田隆一は向かい合う事となった。

○砂田麻美氏プロフィール
 慶應義塾大学在学中から映像制作に携わる。卒業度は監督助手として河瀬直美、岩井俊二、是枝裕和らの制作現場に参加する。2011年『エンディングノート』で監督デビューする。最新作はスタジオジブリを描いたドキュメンタリー『夢と狂気の王国』(2013年11月公開)。
○『エンディングノート』ストーリー
 ガンの宣告を受けた一家の父親が自らの人生を総括し、家族にあてた『エンディングノート』を残すまでの姿を軽妙なタッチで綴ったドキュメンタリー。何事も「段取りが命」をモットーに高度成長期を支えて来た営業マン砂田知昭は67歳で会社を退職し、第2の人生を歩み始める。しかし、その矢先重度の胃ガンが発見され...。
 サンセバスチャン国際映画正式出品、ドバイ国際映画祭ムハ・アジアアフリカ・ドキュメンタリー部門第2位。第33回ヨコハマ映画祭新人監督賞。山路ふみ子映画文化賞。
 第36回報知映画賞新人賞・芸術選奨文部科学大臣新人賞等を受賞。

 

[挨拶~ドキュメンタリー映画との出会い]
砂田  おめでとうございます。
島田  ありがとうございます。緊張しますね。
砂田  ちょうど一年前に、そこに座って、大森(立嗣)監督にお話を聞いて頂きました。
島田  監督協会のウェブで読みました。
砂田  協会から連絡が来た時どんな感じでしたか?
島田  まったく予想していなかったんですよ。この作品自体は、自主制作、自主宣伝、自主配給というかたちで、要はお金の工面も含め全部自分でやっていて・・・公開規模ももの凄く小さかった。最初にDVDを送ってほしいとお話を頂いたときから、びっくりでした。どなたがこの作品を知っていたんだろうか・・・と疑問に思ったぐらいです。最終選考に残っていると知らされてびっくりでした。
砂田  ユーロスペースで公開していたんですよね。 
島田  はい。
砂田  その前に上映会をやってたんですか?
島田  いえ。特に上映会というのは
砂田  最初からユーロスペースで?
島田  話があってから。公開するまで一年ちょっとかかりました。
砂田  2011年のいつ頃完成したんですか?
島田  3月に完成しました。
砂田  じゃ、ちょうど・・・
島田  震災から少し経って、作品が完成しました。公開は12年の11月の末です。震災もあったこともあって、公開が難しいという状況もありました。作品自体が全然認知されていないというか、どう進めていけばいいのかも分からない状態でした。宣伝の方に一からそのお願いしたり、配給の方・・・二人ともフリーの方なんですけど・・・公開に向けてお世話になりました。劇場さんに見ていただくのに結構時間かかったのですが結果として公開できるようになりました。
砂田  たまたま私も、ドキュメンタリー作品でしたし、島田さんもドキュメンタリーですよね。ドキュメンタリーって、人に見せる状況に達するまでが凄く大変じゃないですか。私の映画も最初から映画館にかかることが決まっていて、作ったわけじゃないです。ドキュメンタリー映画をどのようにして人に見せていくかって、これからの凄く大きな課題だと思うんですよね。たまたま二年連続してドキュメンタリーが受賞したって言うのは・・・
島田  そうですね、不思議な・・・
砂田  ええ、すごく不思議だなと思って。でも、それがいいきっかけになって、ドキュメンタリーを見る人が増えるといいな、と思いました。ところで、作品を拝見しました。
島田  ありがとうございます。
砂田  まずやっぱり、その被写体の彼女・・・あのお名前は?
島田  吉村妃里さん、です。
砂田  妃里さんの魅力を見つけたっていうのが、すごくキーですよね。
島田  そうですね。当初、映画学校の実習という形で撮影を始めた時には、そのように言っていただける講師陣は、ほぼいない状態でした。
砂田  そうなんですか・・・なんでだろう?
島田  正直そんなに歌が上手いということもないですよね。映画でストリートミュージシャンを撮影するとなった時には・・・要するに歌を唄う主人公を登場させるって考えた時には非常に上手い・・・映画館でその曲を聴いた時、鑑賞に耐えうる対象者を探すというのが、まあ基本的な考え方だと思うんですよ。ただ我々はスタッフ三人だったんですが・・・我々も学生でしたし、撮りたいのはストリートミュージシャンの実態というよりも、同世代として生きている・・・何かいろんな物を感じている若者を撮りたいという気持ちでした。それを体現しているというか・・・ある種の象徴として、僕らの思いも含めて投影できる主人公を探していた。結果として吉村さんをこの先も追いかけたいな、というふうに考えていたんです。
砂田  吉村さんと出会ってから、東京での撮影を終えるまでどれくらいの期間でしたか?
島田  彼女が入院してしまうまで3ヶ月なんです。
砂田  3ヶ月・・・そんなに短いんですか。やっぱり映像って不思議だなと思いました。作品には日付が書いてあったと思うんですよ。何年とか。一週間後とか・・・
島田  年号のみにして
砂田  二週間後とかってありましたよね。
島田  はい。
砂田  なるほど。ちゃんと計算していけば、分かるはずなんだろうけど、見てる人ってそこまで、厳密に『これは何ヶ月後だったのか』とまで思いを馳せないから・・・
島田  最初は日付を全部出していたんです。前半の部分で対象者と僕らが関係性を結んで行く過程で、彼女がどんどん我々に素の部分も含めて色んなことを出してくるというか・・・素がなんなのかっていうのもわからないですけども・・・色んな相談もしてくるみたいな話もあったので、当初は日記風に日付を入れていたんです。けれどもそうすると効果としてはあまり良くないというか・・・観客にむしろまるで一年間ぐらい一緒にいたかのような錯覚を覚えてもらったほうがいいんじゃないかって判断をして、敢えて最初の年号と途中で二週間後と入れて、明確に彼女が入院するまでの期間がどれくらいであるか・・・敢えて伏せて行こうと今の形にしました。
砂田  なるほど・・・それで三ヶ月後に実家に帰っていって、それから九年間撮影が空いたんですか?
島田  入院期間が一か月半ほどあったので、帰って行ったのは五ヶ月後ぐらいです。2007年末に正式に行こうと決めて、撮影再開は2008年頭です。09年にも取材しました。
砂田  2008年ですか。じゃあ、そこから完成まで三年ぐらいですね。
島田  そうですね。勿論、撮影が無かった間も連絡はずっと取り合っていたんです。
砂田  連絡を取り合っていたんですか?
島田  年に本当に数回です。彼女はその期間の半分ぐらい入院はしているので・・・東京からその佐賀に転院したときにも一年以上入院していました。退院した時に連絡を貰ったとか・・・それから、彼女は頻繁に連絡先を変えたりもしたので連絡先を変えるたびに連絡先を教えてくれたり、それをきっかけに「元気にしてる?」とかの話になりました。
砂田  映画の舞台が東京編から佐賀編に移った時、この期間島田さんに何があったのかって、まず感じたんです・・・映像から。まず画の作り方が全然変わっていた。その間に映像の仕事をされていたのが原因なのか?・・・映像の仕事をしていたことによって、作り方が大きく変わったのか?カメラマンが変わったのか?色んなことを考えました。佐賀編はカメラマンの方を入れているんですか?
島田  はい、参加して貰いました。
砂田  渋谷編はご自分で撮られているんですか?
島田  学生三人、課題として撮りました。
砂田  そうですか・・・やっぱカメラマンの存在って大きいなと思ったんですよ。勿論、監督の演出もありますけどドキュメンタリーって、すべての映像を『ここからこの方向にむかってこのアングルで撮る』っていうわけにはいかないじゃないですか。その瞬間に起きたことをカメラマンがどう切り取っていくかが肝心なわけで、それってある種、半分演出を担っていると思うので。
島田  そうですね。
砂田  自分のこれから作ろうとしている映画に必要なカメラマンを見つけだせたんだなと思ったんです
島田  ありがとうございます。
砂田  そのこともあって、学校を卒業されてもずっと映像のお仕事をされていたのかなと感じました。
島田  卒業後、教材ビデオを制作する会社に、年契約フリーランスという形で三年間助手をしていました。その後、ドキュメンタリー映画の助監督を探していたのが、亡くなられた橋本信一監督でした。中越大震災の際、全村避難になった新潟県の旧山古志村に橋本監督の助監として三年半ほど通いました。映画完成後、宣伝配給まで係わらせて頂き二十八、九まで生活できたわけです。
砂田  どうしてドキュメンタリーをやりたいと思ったんですか?
島田  僕はドキュメンタリー映画というものを映画学校に入るまで一切見たことがなかったんです。もともと劇映画を作りたいと思って日本映画学校に・・・今は日本映画大学となりましたけど・・・入ったんです。入学当時、四期上の先輩が松江哲明監督なんですよね。松江さんのドキュメンタリー作品『あんにょんキムチ』が、丁度学校に入った頃に公開されたんです。
砂田  なるほど。
島田  色んな意味でドキュメンタリー作品が注目をされている時期でしたね。僕が一年生の時に卒業された先輩に『home』という作品を撮った小林貴裕監督がいらして、要は印象的な卒業制作作品がドキュメンタリーっていう時期だったんです。セルフドキュメンタリーという分野を、担当教師である安岡卓治プロデューサーが非常に多くの方と一緒に作っている時期でもあって、単純に面白いなと思ったんです。それから原一男監督を始め多くドキュメンタリー映画を見て行く中で、『あっ、面白いな』っていう感じでした。
砂田  どういうところが面白いと思ったんですか?
島田  『home』を見ていて思ったんですけども、とても身近な感じがしました。作り込まれていく劇映画には或る種の距離感がありましたが、それに比べるともっと身近な感じがしたんです。作り手とその対象者である自分自身の距離感みたいなものが、観客と監督のポジションに反映しているというか、生活の身辺的な部分が撮影されてることもあると思うんですけども・・・そんな感覚が非常に面白いなって、印象を持ちました。
砂田  なるほど。
島田  生意気な言い方ですが『こういったことなら自分でも出来ないだろうか』という凄く甘い考え方がありました。思い描いていた下心は勿論すぐ崩れさるんですけど・・・ドキュメンタリーはドキュメンタリーで非常に難しいと解りました。

[カメラとドキュメンタリー映画]
砂田  80年代の終わりに8ミリビデオといった家庭用ビデオカメラが出てきましたね。
井坂  それまでは、VHCカセットとかね
砂田  家庭でも、ちょっと頑張れば買えるのって80年代の終わりからですよね。
井坂  買いましたね。確かうちなんかも子供が産まれてすぐに。
砂田  家庭用のカメラが誰でも使えるようになってセルフドキュメンタリーが凄く増えたって佐藤真監督も本で書いていらっしゃいますけど、ビデオカメラが使えるようになったことには良い面と悪い面が両方あったと思うんです。映画祭にどんどんドキュメンタリーと称するもの・・・自分の半径500メートルの世界しか描かなくなっていくっていう状況が増えてきて・・・多分私もその世代の一人だと思うんですよ。私の場合物心ついたときに、家の中にビデオカメラがあって。
島田  『エンディングノート』では中学生の時から撮影されていましたね。
砂田  そうなんです。
島田  あの喧嘩のシーンが初めての撮影ですか?
砂田  あの映画の中で一番古い映像があの夫婦喧嘩のシーンなんです。誰もがなんとなく映像を撮れるのはかつてはなかったことですよね。ビデオカメラが生まれたことによって、ある種簡単に人にカメラを向けることができるようになった。娯楽、それから家族の記録としてはすごく便利なことだったと思うんですけど、こうして監督協会の新人賞を頂いてしまい『監督ってなんですか?』ってことに、私なんかは初めてぶち当たったんです。多くの監督の下で働いていたので、その難しさとか、困難さっていうのは分かっていたつもりだったんですが。『監督って呼ばれるだけでは監督じゃない』っていう風にすごく思っているので、自分の名刺なんかにも監督って書いていないです。フィルムじゃない世代で、ドキュメンタリー映画っていわれるものを作った者たちっていうのは、これから監督として何を描いて行くかっていうことが、非常に問われてくるんだと思うんです。島田さんは映画を作っている時、それを公開した後で、なにか変わったことありますか?
島田  『彼女はいったい何していたんだろう』って疑問を九年の間持ち続けたことにも重なるんですけども、9年前、僕は多分、安易に考えビデオカメラを人に向けていたと思うんです。2001年、彼女にカメラを向ける・・・彼女だけではなくて30組から40組ぐらいの若者達を取材していて、ドキュメンタリーとは何なのかってことをほぼ真剣には考えたことはなかったんです。『撮影する』とはいったい何なのか、ということも分かっていなかったです。今は分かったのかと問われると答えに窮する部分はあるんですけど、彼女を撮影して行く中で思い知らされるというか・・・何度か自分の人生の中でそういった経験があるんですけども・・・彼女を撮影して行く中で、やっぱり彼女が統合失調症を発症した時にカメラを向けていた自分というものはいったい何者なんだ?何様なんだ?と・・・そういったことを考える中で『作品にしよう』と考えるようになりました。作品にすることでしか、自分なりの落とし前をつけられないというか。要するに撮影を再開する時に、一番自分の中で変化があった。徐々に変化をしていったと思うんですけど・・・
砂田  被写体との距離の取り方が全然違いますよね。東京編と佐賀編で。
島田  そうですね。
砂田  カメラの撮り方だけじゃないんですけど、例えば鍋を食べているシーンで暖簾の反対側から見ています。東京編の時は、(近い距離を表すジェスチャー)この距離で撮っているじゃないですか。自分と被写体の距離間というか『この人から何を奪おうとして、何を与えようとしている』ということを無自覚のまま撮っている感じがしたんです。でも佐賀編では自分達の存在にちゃんと自覚的であるっていうことを凄く感じたんですよ。佐賀編が始まった時、あそこから映画になって行く感じがしたんですよね。本当はもうちょっと佐賀編を観たかったんですけど佐賀編は結構あっという間に終わってしまって。
島田  2008年と2009年は僕がカメラを持っているんです。その中で相当悩みました。距離感が変わっていないとか、自分がカメラを持つ意味とか、彼女をもう一度撮ること、何を撮るのか、なぜ撮るのか色んなことを考えました。2008年に撮影した素材を使って、勿論編集をしましたし、2009年の撮影の素材を使っても編集をしたんです。けれども、自分が思う形といいますか、それこそその距離感とか色んなことに、こうオトシマエがつけられない自分がいたんです。そこで最終的に当時色々お世話になっていた山内君にカメラをお願いして、僕がカメラを持つのは辞めようという決心をしました。佐賀に行って実際に本人に会ってしまうと、対象者との距離感があまり変わらないんです。彼女はカメラを持っている僕にとても近い距離で関わってきます。それでは、渋谷編とまったく同じ描写になってしまいます。しかし、この10年間、彼女の人生に僕という人間が、大きく係わっていくことが残念ながらできていない現状がありました。勿論これから先も関係性は続けて行きますし、今も連絡は取っています。けれども、僕がずっと向こうに行って、彼女を支えて生きて行くっていう決断が残念ながら僕にはないです。『そのことに自覚的にならなくてはいけないな』と思った時に、カメラマンをお願いして行くって覚悟は決まったのです。ですから現場では・・・僕は前から色んな企業用の映像で山内君と仕事をしていたので・・・現場は割と任せて、彼女が僕に話しかけて来てしまったりとか、お母さんもそうなんですけど、僕にこう色々対話をしてしまう時が多々あるので、そういうときには僕は玄関から出ていって・・・そういうこともやりました。どこまで行っても、僕は彼女の人生において、傍観者でしかないのだということを受け入れるカメラにしたかったんです。
砂田  そこは、意図的に・・・つまり東京編は島田さんに、監督に彼女が直接話すことがたくさんあったじゃないですか? モノローグというか・・・直接的な言葉だったと思うんですけど、佐賀編は誰かと誰かが会話している・・・ダイアログでいってますよね。そこは意図的に変えたってことですか?
島田  意図的に変えましたね。
砂田  じゃあ、監督に対して・・・被写体の人が何かを言ったり触れたりしてくることを一切閉ざした・・・
島田  えーとですね、カメラが回っている段階では、ほぼ閉ざしました。ただ僕が公園で会話をするところがあるんです。
砂田  そこは監督が話を聞いてますよね。
島田  ある撮影を終わって、ご飯を食べていたら彼女から電話がかかってきたんです。あの時点で実は『博多に行って歌を歌うってことをやってください』っというか・・・『一緒にやりましょうよ』みたいな話が済んでいました。そうしたら突然、『今、公園にいるから来て欲しい』と言われて・・・彼女としてはあのように僕に相談したいという気持ちではなくて、『歌を練習するから来ないか?』って誘いだったんです。行くって決めた時点でカメラマンは、僕を撮るって考えていて・・・そりゃまあ当たり前なんですけども・・・僕も『これはもう僕が出ざるを得ないな』と。『彼女と僕の関係性がここで出るっていうことになるだろうな』ってことを考えました。あのシーンに関しては当初自分が佐賀の撮影でやろうとしていたこととはまったく逆のことが起ったんです。撮影自体は・・・撮影というか彼女と二時間以上会話していて、当初は『歌の練習をする』と言って本当に歌の練習をしたり、『なんか懐かしいよね』みたいな思い出話をしていたんです。僕が出るしかないと思った時に、『それならば僕が聞きたいことを聞こう』と思って、聞き始めた感じでした。なので、あそこが一番、自分の中では、『おっ、破綻してしまったなあ』って思いが現場ではあって、ただその『破綻することは、まあ、いいんじゃないかな』というか『そんなことは些細なことなんだろうな』という感じでしたね。作品において僕は、人称をどうしても変えたかったんですよ。吉村妃里という女性の三人称に・・・。映画は当初僕の主格から始まっています。『僕たちは、彼女に出会った』っていう僕の主格から。こんなお名前を出すのは大変恐縮なんですけども、大江健三郎さんが大好きでよく読んでいるんです。『宙返り』という作品で、後半ガラっと奥さんに主格が変わっていく小説がありまして、きっとそれに影響を受けているのだと思いますが、『どうしても吉村妃里さんの映画にしたい。僕の思いを遂げる映画ではなくて、吉村妃里さんという主格を、どうやったら出せるだろうか』っていうことをずっと佐賀に行く前に考えていました。当初、僕がカメラを持って撮影していると、どうしても僕っていう主格から抜け出せなくなって・・・。この映画は僕という主格から始まっているのだから通常で考えれば、それで通した方が収まりがいいんです。新人賞受賞の際にもよく聞かれましたし、公開時にも色んな人から聞かれて、やっぱり答えに窮する部分として『なぜ僕が九年間経ってから行くのか』とか『僕っていうものが見えてこない』ことを、ご指摘して頂いたりしていました。ただ僕としては、そこは敢えてどうしても主格をぶったぎって、なんていうんですか、分断してというか、ここからは吉村妃里という女性の物語なんだということを強く打ち出したかったんです。なので、吉村妃里という主格に変えて映画を作りたかったという思いがありました。現場でのショットと、編集でのモンタージュによって、僕がどう思っているのか、どう見つめているのかを分かってもらえるようにしたいという、とても単純なことでもあるのですが。『それが何を意味するのか』『成功するのか』ってことに対しては、非常に課題はいっぱいあって、難しいことではあったんですけれど、自分としてはどうしてもそういうことをやりたかった・・・そういうことですね。
砂田  そのお話に関係しているかもしれないんですけど、佐賀編の一番最初のシーンで、長い道をゆっくり進んで行ったあとに施設に到着しますよね。そして施設というかNPOの場所に行きますよね。そこでドリーを使ったカットがあるじゃないですか。あのドリーでゆっくり進んで行って最後に妃里さんにカメラが到着するっていうのは誰の意思だったんですか?
島田  あれは僕の意思ですね。
砂田  監督の意思だったんですか。
島田  カメラマンは反対しました。
砂田  ん〜、私もあれはね、ちょっとね、どうなんだろうと思ったんですよ。それは何故かというと、監督があれをしたいということが、あのカットから分かったからです。ドリーが最後に妃里さんに到着するっていう動き自体がどうなんだろうと思ったわけじゃなくて、監督がこういう風にカメラを動かしたいと思っているってことが分かっちゃったんです。それって演出としては・・・凄く偉そうなんですけど・・・『こういうカメラの動かし方をしたくてしてる』っていうか。その先にある演出意図がもうちょっと感じたかったので『あそこはシンプルに背中から撮るとかしたほうが良かったんじゃないかな』って私は思ったんですけど・・・でも動かしたいという気持ちも良く分かります。
砂田/島田 (笑い)
島田  そうですね、あそこはもう非常に批判をいっぱい頂いたので、まあ、そういう意味ではほんとに恥ずかしい事をやったなあ。
砂田  わかりますよ、凄く。(笑い)
島田  なんていうんでしょう。要はドキュメンタリー映画と言うものは実際に生きていらっしゃる方を撮影対象・・・ある意味素材としてやっているから映像は非常に現実であり、真実であり、リアルであり、っていうふうにとられることが非常に多いですよね。そこになんか嘘っぽい仕掛けとしてどうしてもフィクションぽい感じに・・・フィクションぽい感じっというのは語弊があるかもしれないですけど・・・『吉村妃里の九年後を彼女に演じてもらっているのかな?』そんな感覚を観客に受けてほしいと思ったんです。だから芝居感じゃないですけど、作為的なショットみたいな物をどうしても僕が欲していたんだ、と思うんです。正直な自分の気持ちとしては、彼女を再度撮影をして行く中で、この物語にどんな希望を持たせていくか、と言ったら語弊があるんですけども・・・希望とか絶望とかっていう二元論で語るのは好きではないんですけど・・・どう作品として救っていくか、みたいなことはずっと考えていたんです。実際の彼女とは別に・・・なんて言ったらいいのかな・・・吉村さんを九年後に追いかける・・・その中で映画を見た人がやっぱり最後に『ああ見てよかったな、みたいなところに落ち着ける形にしたい』っていうんですかね・・・ちょっと巧くいえないですけど。彼女は本当に入退院を繰り返していて、今年も二月三月と入院していました。そういう現状を見ていけばいくほど、単純に「希望がありま〜す」みたいなことも言えない。かといって彼女の生活がなにかその非常に絶望的かというと、実は僕はすごくシンパサイズしています。日々仕事をし、作業している感覚と、彼女が一枚ずつTシャツをたたんでいる感覚っていうのは、僕と凄く似ています。僕もああいったこなしていく形の作業を非常によくやっているので似ているなあと、そんな風に思う部分がある中で、この佐賀編をどうにかフィクションにできないだろうかと・・・その思いだけだったんです。その思いをどうにかして形にしたいと考えて、結果力及ばずです。監督がこう撮りたいと思っているだけのカットを露呈してしまった。ただ試写の段階でも散々言われていたのでカットすることは可能だったんです。けれどもカットしてしまうと僕としてはなんか収まりが良すぎるのかなあと感じました。ああいうことを自分は考えていた、失敗はしているかもしれないけど、自分は多分この佐賀編を凄くフィクションにしたくて、吉村妃里という登場人物が演じている佐賀編みたいな感覚を自分の中では残しておきたかったので残そうと。恥ずかしいですけど、残そうかなという感じでしたね。
砂田  私も演出のための演出っていうか、こういう風に描きたいから、こういうカメラワークにするんだとか、こういう編集にするんだっていうことで作る時があります。でもそれってやっぱり、そんなこと観客は気づきもしなかったっていう形に落とさないといけないと思うんですよね。技術的なことも含めて。おそらく監督はこういうことがしたくてこうしたんだろうって思われた時点でそれは多分失敗なんだと思うんですよ。あのカットは、いろんな思いでいた気持ちも分かる。そのそういう風に撮りたいと思うのは凄く良くわかるし、私もドキュメンタリーをある種一つのフィクションとして描きたいというのは凄くあったから。
望月  一つ質問してもいいですか。
島田  はい。
望月  観客として彼女がいるわけじゃないですか。被写体としてじゃなく観客として・・・彼女は見る側としてはどんな感覚で付き合ってるのかな?つき合ってるっていうか・・・作品を評価したりとか、作品と向かい合っているというか・・・彼女は単なる取材対象でもないだろうし、君が言っているようにフィクションを演じているわけでもないと思うんだけど、どうなんだろう。彼女自身はどういう心持ちで作品をご覧になっているのかな。
島田  完成して、最初に観ていただいたのが、彼女だったんです。
砂田  お一人で?
島田  DVDを送って、お母さんと一緒に見てもらいました。撮影の段階でいろんな僕が思うこと・・・『それはこういうことをやりたい』と言うことよりも『こういうことを感じているんだ』とか、『吉村さんとこう対面していて、こういうことを感じていて、でそのために僕は撮影にきたんだ』という話はしていたんですね。そういうことも知っていて思うことですが、出来上がった作品は気に入ったと言って貰いました。鹿島の作業所で試写をしていいか、っていう話をもらって、出て頂いた方たちだったので、『どうぞどうぞ』ということになり、皆さんで観ていただいてディスカッションをしていただいたと聞いて、彼女には一観客として僕という人間も含めて、まあ、分かっていただいたというか、その受け入れて貰えたのかなっていう風には思いました。勿論、僕の個人的なところですけれども。
望月  いやまあ、別に聞いただけだから。
島田/砂田 (笑い)
砂田  最近凄く思うのが『私、私、私』っていうか、私自身っていうのをおそらく私たちの世代から下の人たちって言われ続けたんだと思うんですよ。それに対して団塊の世代より上の人たちって、私よりも自分が所属している場、社会の中でひとつのコマとなって働く、目の前のことを一つ一つこなすことで、気がついたら何か人と違うことができていたっていうような・・・ざっくり言うとそういう世代の方と思うんです。それに対して『いつも夢を持ちなさい』『自分らしくいなさい』ということを言われ続けて、そのことが凄く、今の若い人を苦しめているっていう部分がないのかなあって思っていて・・・去年、何校かで中学生ぐらいの人達の前で話す機会があったんですけど、その時に『周りの大人は凄い夢を持てっていうだろうけど、そんな夢なんて持たなくてもいいんじゃないですか』って話したんです。AKBなんかの影響もあって『頑張れば、頑張った分だけ幸せが待っている』ようなことを周りの大人達が一斉に言い続けることによって、何か大事なものを歪めているんじゃないかなって思うことがあるんです。妃里さんがどうして統合失調症になったかっということは映画からはわからなかったけれども、もともと先天的なものだったり、環境とはまた別なところで起きたのかもしれない。わからないんだけども、どこか自分達が生まれた世代によって引き起こされたものっていうこともあるのかなあと思うんですけど、どうですかね。
島田  そうですね。僕たち世代はAKBとかじゃなくてASAYANとかで『モーニング娘。』とかがどんどんデピューしていた時代です。『ゆず』がストリートミュージシャンから、メジャーデビューして行く90年代の大きなうねりの中で、誰もが自分も何かになれるんじゃないかって夢を持っていた。多分僕自身もそうですし、当時の彼女も非常にそういうのが強かったなあと思いますね。この間、中森明夫さんと何度かお話をさせていただく機会があっったんです。『おニャン子クラブ』ぐらいからTVに自分の同級生みたいな子が出てる、みたいなことが、80年代からあって、その流れの中で・・・なんていうんでしょうね・・・有名になること、テレビに出ること、ちやほやされることがすごく身近になって、そういうことに憧れる傾向が強くなったんじゃないかみたいなお話をされていました。僕は上の世代からあんまり夢を持てとか言われたことはなかったんですけど、凄く夢を見ている子供でした。中学生とか、高校生から『映画をやってみたい』みたいな感じだったんです。映画ってどうやって成り立っているんだろうとか、ショットはどうやって成り立っているんだろうかってことも全くわからずに、ただ映画をやりたい、映画を作ってみたい、映画監督っていいな、みたいな憧れの中で中学生や高校生を過ごしてきました。そういう意味で僕は自分の世代の影響をどっぷり受けているんだろうなっていう気がしますね。
砂田  みんなが自分自身の自我に向きすぎているっていうのは、なんか凄く不幸なことなのかなと思う瞬間があるんですよね。例えば私で言えば、自分が凄く幸運だと思えるのは・・・昔から映像の仕事をしたいと思っていたけど、今日に至る迄。周りの大人から『君は光る物がある』とか『才能がある』とか言われたことが一度たりともないんです。どこ迄行けるか分からないけど目の前のことを頑張る、一所懸命やればいいってことである種完結しているんですよ。でも妃里さんや特に芸能界を目指している人なんかは『君、ちょっといいんじゃない』『なにかあるよ』っていうことで苦しめられている人沢山いますよね。芸能界はある種特殊なケースかもしれないけれど、それ以外でも何か特別な職業に就いたり、特別なことをしないと自分の人生には意味がないって、なにか強迫観念のように思っている子達がどんどん増えているんじゃないかと思うんです。
島田  僕自身は去年と一昨年に日本映画学校の講師という形で二年間学生と関わったんですが、むしろ僕が学生だった時よりも堅実というか・・・僕は専門学校に入って、就職できるなんて考えていなかったので、卒業後『ドコニモイケナイ』を作品としてどうにかしたいな、みたいなことはこの辺の片隅(脳の一部)にありつつ、どうにかなるだろうみたいな、割と適当な感じだったんですよ。ところが今の子達は、どこかの会社に就職したいって言って卒業制作の途中から面接に行ってしまったりとかして。
砂田  そうですよね
島田  (笑い)
砂田  凄く堅実だっていうのはやっぱり聞きますよね、貯金もよくするし。
島田  だからなんか僕の学生のころに比べてみんな真面目だし、堅実だなあと。なんかこう、偉いなあっていう思いはありましたけどね。ただその僕はドキュメンタリーゼミを指導したので、今のドキュメンタリーの現状からいうとドキュメンタリー映画の助監督につくことは非常に難しいし、先ほどの話にリンクするんですけども、自分で作って映画祭に出したりしない限り、ドキュメンタリー映画の公開って考えにくいんじゃあないか・・・学ぶというステップよりも、もう作っているってことのほうが、多分現状としては可能性が強いんだろうと思うんです。自分がそう考えている時に『あそっか、でもみんな就職を考えているんだな』ってふうに思ってました。不思議だなと思って。(笑い)
砂田  昔は映画監督になりたいと思った時にどういうステップをされることが多かったんですかね?
井坂  僕と望月さん・・・望月さんのほうが先にこの業界に入ってるけど、僕らのときはもう、もうフリーでやるしかなかった。
砂田  フリーでやるしかなかった理由は撮影所がもう解体していたからですか?
井坂  日活がたまに助監督を取っていたかな、僕らのちょっと先輩達の時代に。だけどもう僕らは、もう東映東宝松竹も事務系若干名という募集しかなかったんです。僕の場合はフリーで最初から一度も就職せずに。望月さんなんかは?どんな感じで入ってきたんですか?
望月  自主映画でやっている人もいたけど、基本自主映画じゃなければ、ピンク映画とかポルノ映画とか、そういうところに入るわけです。でも僕らが監督になった今から二十年前ぐらいかな、映画学校の子たちがいっぱい現場にくるようになった。そういう子達はプロの仕事しながら自主映画撮ったりとかね。ちゃんと巧い具合に使い分けるっていうのが多くなった。
井坂  撮影所が人取らなくなったから、大森一樹さんなんかも自主から出てきてます。あと日大の芸術学部出身の人・・・石井聰互(現石井岳龍)さん、松岡錠治さんとか、森田(芳光)さんもいたし、自主映画でならして、で日活で助監督もやりつつ、自分の映画を撮ってとかって人はいますね。
望月  今名前が出たような人たちは逆にいうと、凄く画がプロっぽい感じじゃないですか。撮影所が自主映画の才能をピックアップしてきて、再教育っていったら言い方は変だけど、商業映画っていうのはこうやって撮るんだぞっていうことをプロデューサーたちが教えたりして、立派な劇映画の監督になられた人ばっかりだから。自主映画、自主映画しているかっていうと・・・原将人さんとかは自主映画の香が残っているけど、先ほどあげられた方達は・・・こんなこと言ったら失礼かもしれないけど・・・撮影所がもう一度練り直したバリバリの映画監督だと、僕は感じます。その点自主映画のエリートじゃなくて映画学校の生徒達が忙しい中、時間を見つけて普通に自主映画をやってるのは偉いなと思いました。
井坂  僕も日本映画学校の講師やってました。さっき島田さん言ってた『あんにょんキムチ』なんかも、卒制の時観ているしね。
望月  俺の時は『home』だったね。
井坂  ああ〜『home』
島田  まさに僕は一年生でいました。(笑い)
望月  一番最初に聞いた部分でカメラの話があるじゃないですか。カメラって結局、あるとなんか被写体が『home』もそうだったし『あんにょんキムチ』もそうだったけどお医者さんと先生みたいな感じになっちゃうんだよな。カメラってものがあるとそこは現実とは違う、撮影されている空間みたいのが生まれる。撮影されている空間だと、街に犯罪用のカメラがあると抑制が生まれる効果ができて病院みたいな環境になる。登場人物はカメラがあるってことで、自分自身が演じてるっていうか、演じさせられてるっていうか、演じちゃってるのか、とかそんな感じがする。カメラの存在ってやっぱ大きいんだろうね、回せちゃうってことが。
砂田  そうですよね。
井坂  砂田さんの作品なんか観ていると、お父さんが8ミリとか好きだったんですか?
砂田  そうですね、ホームビデオが好きでしたね。
井坂  お母さんと新婚時代のビデオ以前の映像とかは相当好きなんだろうなって。
砂田  祖父が好きだったんですよ。
井坂  なるほど、
砂田  祖父が昔の8ミリビデオで記録していて。
井坂  誰が撮ってるのかなと、凄く気になっていたんだよね。
砂田  その影響で、多分父も結構ビデオカメラ、映像を好きだったと思うんです。
井坂  そっか。
望月  原将人さんがいつもカメラ持っていたの知らない?
井坂  原さん?そうですか?
望月  どこいっても喋ると回すから、喋れないんだよ。16ミリなんだけど、要はカメラ人間みたいなさあ。
砂田/島田  (笑い)
井坂  カメラ人間。(笑い)
望月  常にカメラと一緒にいて、何かっていうと回されるから、こっちが途端に被写体になっちゃうんだよね。
砂田  周防(正行)監督がいつもカメラを持ち歩いていらして、それで撮影禁止っていう看板を見ると、ちょっと安心するらしいです。『ここ大丈夫だ、撮らなくていいんだって』と思うとちょっと嬉しいんだそうです。(笑い)
井坂  周防さんって舞台挨拶の時に舞台の上からお客さんを撮るんですよ。
島田  へえ〜凄いなあ。
砂田  私は全然、普段自分でカメラ回したいって気は全然ないので、その感覚は分からないですけどね。
島田  でもあれですよね、作品の中で砂田監督が回してらっしゃるんでしょう。ほぼそうですよね。
砂田  はい。
島田  あのお葬式以外全部そうですよね。
砂田  はい。
島田  すごいうまいなあと思いながら観ていて(笑い)
砂田  量は廻してないんです、全然。ほとんど回していないんです。24時間カメラ回して、お父さんに張り付いていたんだろうと、思われることがあるんですけど、ほんとにちょっとです。
島田  でもまあこう、病室で寝てらっしゃるところから東京タワーにいくところがあるじゃないですか。正直どういう心境でそこにいらっしゃったのかなあ。作品にしようっていうふうに思っていらっしゃるカメラワークだなっていうふうに思ったんですよね。
砂田  作品にしようってことよりも、カメラを回すっていうことは、そういうことだっていう感じだったと思うんですよ。
島田  監督にとって。
砂田  これをどうするかってことよりも、その空間を映像で切り取ろうとした時に考える思考っていうのが、多分その瞬間は父から東京タワーにカメラをパーンするっていう行為に繋がっているんだと思うんですよね。
望月  作為的とか作為的じゃないとかではなくて、カメラが何か作品を生むとか生まないとかっていうことも含めて、劇映画みたいなものもやってみたいという気持ちはあるの?今はないとか、いずれとか、どんな風に考えているの?

[ドキュメンタリーと劇映画・・・そして編集]
島田  現段階の気持ちとしてはまずはドキュメンタリーをやりたいという気持ちが僕は強いです。けれどドキュメンタリーと劇映画の違いはなにか、って説明しろ、って言われると結構辛いんですけど、大きなところでいえば、現実に生活をしていらっしゃる方を、撮影交渉して、その方を撮影してってことを、やっぱりまだ追求したいなっていう気持ちが僕は強いですね。砂田監督はどうなんですか?
砂田  私は、ドキュメンタリーをずっとやってきたいという気持ちはまったくないので、二作目はフィクションやろうと思って準備してたんですけど、今はドキュメンタリーを作っているんです。(笑い)
島田  ああ、そうなんですか(笑い)
砂田  ドキュメンタリーになりましたが、もうこれで終わりだと思っています。(笑い)
島田  小説もかかれるんですか。
砂田  はい 小説も書きます。
島田  素晴らしい。
砂田  ドキュメンタリーってなんか凄くシンドイですよね。そのシンドさが心地いい人とそうじゃない人がいる気がして、心地いい瞬間も分かるんですけど、同じ苦労をするんだったらそのエネルギーをこれからはフィクションに持って行きたいと思っています。
島田  心地いいと感じたことはあんまりないですね。
砂田  基本的にやっぱり搾取していると思うんですよ。被写体からなにかを。一方で演じている人たちっていうのは、監督とある種共犯関係があるのかなあと思うんですよね。そこが決定的に違うような気がして、劇映画を撮ることの苦労は勿論、沢山あるんだろうけど、これからはそっちを挑戦したいという気持ちがずっとありますね。
島田  僕自身は吉村さん含め、吉村さんだけではなくて学生の時代の実習も含めてドキュメンタリーの被写体としてカメラを回した方が何人もいて、まだ僕はそこから背を向けられないなというか。
砂田  ドキュメンタリーからってことですか?
島田  やっぱり回してしまったことも含めて、この表現を選んだことに対して・・・なんていうんでしょう・・・恩返しができるのか分からないんですけど、なにかまだ中途半端な自分っていうのがいますね。ここで辞めてしまったら、最初から僕が劇映画を選んでいれば、多分この悩みはなかったんでしょうけど、一度ドキュメンタリーを撮ろう、作ろうっていうことに対してぼくはまだどこかで・・・どうしたら完結するのか全然わからないのですけど・・・そこが自分の中でストンと落ちる日がくるのか・・・ずっとこないでドキュメンタリーを続けて行くか分からないですけど、その辺を自分の中で考えて行きたいなっていうのが今の正直な気持ちですね。うん。確かに悶々としますし難しいです。自分って何なんだろうって思いながら・・・っていう感じはしますね。(笑い)
井坂  さっき撮っていたから聞き逃したかもしれないんだけど質問、いいですか?吉村妃里さんをずっと追っかけたくなったのは、多分実習の時だから二年生の時ですよね。そうだとすると卒業制作の時はどうしようと思っていたのかな。それから卒業して結局何年か経って会いにいきたくなった。仕事している中でその他にも取材対象者っていろいろあったと思うんだけれども、彼女に対してここまで執着したのは何故なのかな?
島田  卒業制作に関しては、勿論企画をそのまま継続したいと言う話をしたんですけども、ま、そのときの担任であった原一男先生が、要するにそれは駄目だと。新しい企画を出せという話になりました。勿論学校を辞めて撮影を続ける選択肢や色んな選択肢がある中で原先生と話し合って、僕自身は彼女が転院というかたちで向こうでも入院していたので撮影自体はほぼ出来ないだろうと考えました。そうなると編集という作業段階になるわけですけど、その当時ドキュメンタリーの編集を僕は一度も経験してない状態だったんです。二年生の実習の撮影が完成せずに、そのまま三年生になってしまったので、要するに完成品を作る経験を一度もしてない状態だったのです。このままじゃ『学校辞めて編集します』といっても、どう編集していいか分からないので、今後彼女の作品を作らないというのではなく、取り敢えず卒業制作は別の取材対象でやろうという形を選びました。卒業後は僕一人で編集を続けて、安岡さんに見て頂いて、どうにか形にできないかという状態が四、五年続いていったというのが現状でした。勿論その間仕事もしていましたし、他のドキュメンタリー映画の助監督もしていたので、ずっと携わっていたわけではないですけど、どうにかして纏めたいと思って卒業後、二時間ぐらい迄にして行く作業をしながら、どうしたら完成するかってことをずっと考えていましたね。
望月  それってまあ自分の話じゃない。
島田  はい。
望月  自分の話は置いといて・・・編集を覚えたいとか自分の話でいいんだけどね。ちょっと威張った言い方してるけど、やっぱり何十人か見たストリートミュージシャンの中で彼女がなんかインパクトを持っていたからでしょう?
島田  一番最初の動機ってことですか?
望月  ていうか継続した動機も含めて。
島田  そうですね。
望月  僕もなんか君ぐらいの年の時に、三ヶ月ぐらいの間に友だちが病気を発症するの見たことあって、結構インパクトあった。君の作品を見て、そんな部分を撮ってないな、撮っているのかもしれないけれど編集で落としているなと思ったんだ。そう言った過程を島田さんも見たんだろうなって、さっきの話を聞いて思いました。あんな輝いていた人間がたった三ヶ月間でどうして劇的に変化してしまうのか・・・彼女をずっと追っかけたい動機なのかな?
島田  そうですね、当時彼女が三ヶ月で統合失調症になっていく過程を見ていた一番近くにいた存在ではありました。すごくショックでしたし、確かにその経験がなかったらその後制作を続けていたかどうか・・・そうでなければ実習というところで纏まっていたと思います。自分の中で一つの課題として終わっていたものだったんだろうなって・・・それは大森(一樹)監督も言ってるように『あのことが起らなかったら、この映画は成立しなかった』っていうその通りなんだろうなと自分の中でも思います。人間への興味もそうですし、ドキュメンタリー映画を撮る自分、撮ることに対するその考えというか、興味というか、モチベーションというか、そういうことも含めて全部の引き金にあのことがなっていると思いますね。
望月  『ドコニモイケナイ』を観て僕も東京編の取材に一年ぐらいかかっているのかなと思いました。三ヶ月っていうと凄い短い間に劇的な事が起きたんだな、と思うんです。そんな部分を敢えて使わなかった・・・過激な部分を省いたというか・・・少し距離をおいたというかな・・・そんな事をさっきの話を聞いて感じました。本当は見せられない部分も随分あったんじゃないですか。
島田  『彼女がおかしい』って連絡が入って二日後に入院するまで僕らは病院の手配とかで慌ただしく、要するに彼女がすぐ入院しているので、何をもって見せられないか、の判断は難しいです。確かにもっと撮影していますが、あそこは編集マンから助言を頂いて映画的にスパっと入院したほうが・・・倒れて入院という形を取った方が作品のテンポと、構成上の問題で切りました。僕の編集ではずーっと使っていたので、で思い入れがやっぱり強くてですね、そういったシーンが本当に切れない状態だったのを編集マンが入って割とばっさりいったっていう形でしたね。
井坂  編集の話がでましたけど、劇映画っていうのは勿論編集の要素って大事だけどある程度コンティニティがありますよね。ドキュメンタリーって当初の企画があって、実際撮影して編集して行く中で、構成の練り直したりとかありますよね。そういう意味で言ったら編集の力ってもの凄く大きいと思うんですけど、砂田さんも島田さんもドキュメンタリストとして、編集マンとのかかわり方って、どういう風にして対話をしてきたのかなあっと・・・その部分をお聞ききしたい。
島田  砂田監督はご自身で編集されているんですよね。
砂田  編集マンの方と一緒にお仕事をしたことはないです。私がついた監督はたまたま全員自分で編集される人だったんですよね。その逆にどうやったら編集マンの人と一緒に仕事をしていけるのかっていうことが課題でもあります。やっぱり人の手が加わったほうがいい編集ができる側面ってあると思うんですよ、絶対的に。フィクションと違うのは決められたカットを撮っているわけではないから、全部の素材を一から観てくれるぐらいの編集マンがいたら、また違うステージにいけるのかもしれない。当然予算的な話もあるのでやっぱり自分で撮っているから、自分で編集した方が的確にできるんじゃないか、っていうふうに思ってしまうんですけど。
島田  普段から編集されていたんですか?
砂田  そうですね。学生時代にもともと映像の勉強したいと思って、最初に始めたのがドキュメンタリーだったから。自分で撮ってパソコンを使って自分で編集するのは学生時代からやってました。
島田  拝見させていただいて、いや~非常に編集が巧い方だなあって思って・・・編集だけじゃなくて全体的にってことですけど。僕は僕自身が悩んでしまうタイプなので駄目なんですよ。思い入れが強いタイプなので切れないっていうのがあって。だから砂田監督の作品を観た時に例えば、過去の映像とのカットバックというか、小気味よくスパーンといって、また前のシーンが入って来て、また戻ってとか、構成も非常に見事で、テンポも凄く良かったので凄い方だなと思っていました。編集も撮影もご自身でやられていて、かつ題材としてご自身のお父様にカメラを向けていたんで・・・冷静さといいますか、先ほどカメラを回すってなったら、もうそういうふうに考えるとおっしゃっていたし、多分編集でもそうなんだろうなっていうか。
砂田  そうですね。だから作っている時に感傷的になることは一切なかったですね、特に編集している時に。だから今ね、『エンディングノート』を全然見れないんです。出来上がってから時間が経って、作っていた時の感覚っていうのが、だいぶ時間がたっちゃったので、上映会なんかで音がホールから聴こえてくると耳を塞ぎたくなる。冷静に観るには暫く時間がかかると思う。
井坂  それはいわゆる、砂田麻美監督から、個人砂田麻美になっちゃう感覚ですか?
砂田  まあ、そんなにかっこいいものじゃないかもしれないんですけど、あのとき、ホントに冷静に素材と思って見れたものが、今はその時の家族としての気持ちが蘇っちゃうんですよね。凄く不思議だなと思うんですけど。
島田  凄いですよね。
井坂  僕だったら肉親とかってことになっちゃうと、自分で撮って来たものをだいたい自分で編集できるのかなっていうぐらいの気になりますね。
砂田  う~ん。
島田  僕自身、対象者とか、素材とかに対して、思い入れが強い人間です。で、凄くあの腑に落ちた言葉があって、それは映画学校の仲間に言われたんですけど・・・『お前は実は何にもできないんだ』と。『カメラもヘタクソだし、編集もヘタクソだし、お前は何にも出来なくて、お前は思いだけの人間なんだ』と。『お前は思いだけなんだから、その思いをなんとかして一緒にやれる人間を見つけてこないと、駄目に決まってんじゃないか』って言葉が自分の中でストンと落ちたというか。彼なりの優しさだったのかもしれないけどそれを受け入れようかなあ、と。僕は編集もできないし、撮影もできないし、何にもできないんだけど『でもどうにか作品にしたいんです』っていうことから始めて行くしかないか、と。で当時知り合っていた編集マンとかカメラマンにお願いをして、どうしても作品にしたいんですっていうことでやっていきましたね。
砂田  タイトルを見ると構成の方は3人いらっしゃるじゃないですか。編集の方とみんなで常に話し合っていたんですか?
島田  実はこの作品自体が、プロデューサーが僕みたいな形なんですよ。
砂田  はい。
島田  いろんな事情があってプロデューサーってタイトルを出していません。構成だけで名前が今入っているんですけど、編集時に作品を客観的に捉えてくれる存在として大澤(一生)さんに入って貰いました。大澤さんには週一回とか月一回とかのスパンで観てもらう。編集マンが基本的に座ってましたけど、僕と編集マンが一緒にやっていく形でしたね。
井坂  さっきの話に戻しますけれども、どうしても作品として仕上げたいという思い、純粋に作品に対する思いはあると思うんです。例えば僕らも、書き残して何年も溜めているのはありますけども・・・シナリオを書き始めたらピリオドまでいかないとだめだ、という意味での責任感があります。さっき島田さんが言ってた・・・撮ってしまった、対象者となってしまった人間に対する責任感というのもありますか?今回僕は選考委員もやっていたんです。選考委員会とか受賞パーティーの席で・・・冷たい言い方をすると『島田君がカメラを廻すことによって、あの子が病気になっちゃったんじゃないか?』っていう意見もありましたよね。そんなこともありますし、それに対する引っかかりというか、いろいろあるのかなあって・・・そういうこと一切考えたことなかった?
島田  当初カメラを回してた時に一番反対していたのは僕だったのです。反対しながら回していたんですけど。そのことはずっと付いてまわっていますね。そこがやっぱりわだかまりになっていて、先ほどお話したようにドキュメンタリーを選んだ自分というものをまだちょっと考えていきたいっていうのは、まさにそういうことですね。もしかしたら引き金を弾いてしまったかもしれない自分がいて・・・それでも作り上げてしまう、作品を作ってしまう、作りたいんだって思う自分がいます。今回の対象者に限らず、すべての対象者に対してそういった側面はありますし、なんていうんでしょうね、悶々としたところは常にありますし、今もありますし、解決したわけでは一切ないですね。公開すると決まった上でその様に言われることは覚悟していたんです。けれど直接、わあって言われたことはあまりないですね・・・はい。
井坂  確かにドキュメンタリーをやっていけばやっていくほどずーっと関わっていくよね。それこそ昔のドキュメンタリスト原さんなんかもそうだし、土本(典昭)さんとか、僕の師匠の東(陽一)さんとか、あとは小川紳介さんとか、ずーっと何十年も一つの対象とね、こう、向かい合っていたりするから、そりゃ、どんどん、どんどんシンドくなっちゃうよね。
砂田/島田 (笑い)
望月  取材対象があるってことだけれども、作者だって費やしているもの費やしているから・・・それをあまり考えちゃうと何にも出来なくなっちゃうよね。取材対象に作者も寄り添っているんだから。こっちは観客として二時間しか見ていないけど、何人かで観ているんだし・・・見せ物にしているって言う点ではみんなして加担しているわけだし。
砂田/島田  う~ん。
望月  う~ん。
島田  ですね。

[未来]
井坂  島田さんが橋本さんにくっついて山古志村に行った頃、僕も映画学校にいました。橋本さんまた新潟にいってるよ、なんて講師同士で話もしました。島田さんもそれこそ3年も行っていた訳でしょう。
島田  そうですね
井坂  今度は自分が山古志の人を撮ってみたいっていうふうに考えたりはしますか。
島田  実は二週間前にも山古志にいっていたんですよ。映画大学ドキュメンタリーゼミの合宿を9日間でやるって話を安岡さんから頂きました。山古志村は年に一回行くか行かないかですけど、未だに対象者の方とも繋がっています。学生の映画作りに関わっていただいたり、新しい方を紹介していただいたりという関係性は続いていますね。でも自分が撮りたいのは、実は僕、東京生まれ東京育ちなので、究極言えば山古志の牛をやっていらっしゃる同世代の方が『山古志いいですよね』っていう言葉に本心で共感出来ていないんです。というのも僕はやっぱり東京で今後も生きて行くだろうなと思うんです。要するに『山古志に移り住むほど山古志が好きか』って問われると『大変そうだなあ』と思ったりすることもあったりします。僕自身は自分なりの東京を今後も描いていけるだろうか、模索していきたいなあっていう気持ちが強いですね。
井坂  それはわかる気がする。僕も東京生まれ、東京育ちなんでね、別に地方が嫌いってわけじゃないけど、東京っていう地方が僕は好きだっていう、生まれ育った故郷というかね。
島田  なので僕には山古志っていう人たちを撮ることは難しいのかなあっていう気はしていますね。
望月  もう次回作とか考えてるの?
島田  具体的なものはないですけど二本ほどの構想があります。取材対象と知り合っている過程と言うんでしょうか、話し合っている状態です。でも実際に撮影しましょうってところまで進んでいる企画はないですね。
望月  それはやっぱり東京の話っていうこと?
島田  そうですね、東京の話ですね、二つとも。
井坂  このインタビューはウェブに公開されます。読者の中には監督希望の若者もいるかもしれません。彼らが参考にできることもあるので、いくつか質問させて貰います。僕はドキュメンタリーに詳しいわけじゃないけれど、昔はフィルムで撮影していたからガラガラ回すわけにはいかないですよね。だからある覚悟を持ってシュートする。いちいち演出家の指示を待っていられない状況であればカメラマンの直感でパーンと行く場合もあるだろうし、音だけでも取り合えず録っておこうと判断する場合もあるかもしれない。ビデオってメディアはフイルムから見ればただみたいな価格になっている。編集を含めた仕上げも家庭で作業が出来るわけですよね。島田さんにもドキュメンタリストの先輩として安岡さんがいて、千葉さんがいて、原さんがいますよね。フィルム時代のドキュメンタリーと現在の作り方・・・手法の差っていうのがありませんか。先輩達が言うことと自分達の作業の間にギャップとかを感じることはありますか?ドキュメンタリーにかかわらず便利な機材が出たことによって、映画の手法は変わって来たのでしょうか。砂田さんや島田さんの世代では映画作りの入り口が広がったように僕は感じるんです。そんな二人がウェブの読者に対して『これから映画を作っていくならこんなふうにアプローチしたらもっと発展していくよね』みたいなお話してしていただけたら嬉しいなあと。我々は昔ながらの作り方は知っているけど、このウェブの読者達は『現在どうやって撮っているんだろう』とか『どうやって公開に漕ぎ着けているんだろう』とか、『金を集める方法だったり』とか、きっと知りたいことはいっぱいあると思うんです。
砂田  フィルムじゃないってことで撮り続けられ環境であることがアドバンテージだと思います。でもいつカメラを回すのかっていうことへの意識っていうのは、本当に一番大事なことだと思うんです。ずっと廻している人が多すぎるから、下手すると被写体にとって結局監視カメラと変わらなくなってくると思うんですよ。テレビの現場を時々垣間見ると、カメラがずーっと延々とレックしたままなんですね。フィルム時代では決してありえなかったことだと思います。その一瞬一瞬に賭けたとおっしゃっていましたけどまさにおっしゃる通りだと思います。是枝監督がCocooのドキュメンタリーを撮った時なんですけど、これはいわゆるご指名というか是枝さんに作ってもらいたいという話があってスタートしたんです。にも関わらずツアーに密着して行く中で是枝さんはツアー中Cocooに一度も話しかけなかったんです。私は横で観ていて『もう信頼関係はできているのに話しかけないのはなんだろう』とずっと思っていたんです。けれど是枝監督はツアーが終わって、一つ区切りがついた一瞬に初めて、一緒に沖縄に行って、彼女が一番リラックスできる丘の上でゆっくり話をきいた。やっぱりそれが演出だと思うんですよね。自分はこの映像を持って何を表現するのかっていうことを突き詰めた上で相手にカメラを向けていくっていうことが、大事なんじゃないかなと思って、自分もそのことに一番気をつけてます。回しすぎない。映像を。
島田  僕自身はずっと回しちゃう失敗を・・・まあその結果として作品完成したので、その良さもわかるんです。あの当時、吉村妃里さんだけではなく、街の若者たちみんなに対し会う度にカメラをずーっと回していた自分がいます。でもただそれだけじゃ作品にならないんですよね。それを痛感した十年だったと思うんですよ。撮影機材は安くなり、一人でも回せるようになった。ずっと回せる、下手したら一日中、回していることが可能になっても、それで撮られた素材が・・・逆に言えばその瞬間がどんだけ面白いって事も含めて、それだけではやっぱり作品にはならないんだなあ、ってことを痛感してきましたね。なので、やっぱり僕も同感です。
砂田  単純に瞬発力が鈍るんだと思うんですよ、ずっと回してると。この瞬間だっていうものが分からなくなっちゃう。っていうことが一番問題なのかと思います。一方でメリットは高価な機材がいらないことはやっぱり圧倒的にチャンスを増やしてるとも思います。本当に表現したいものがある人、これは人に見せられるものだっていう状況を作れた時は、今はそれを世界中に発信出来るじゃないですか。
島田  そうですね。
砂田  そこはもう圧倒的に有利だと思うんですよね。
島田  そうですよね。
砂田  被写体との関係性は別として、一人しか見る人がいなかったとしても作品として残すことができますよね。ただ、プロの現場を経験することは、私なんかは凄く大事なことだと思うんです。いくら簡単にできるようになったと言っても、そこに漂う緊張感とか、どれくらいプロって厳しいものかっていうことを、肌で感じた上で、じゃあ自分は何ができるかを考えるってことは、私にとって凄く必要なことでした。
島田  そうですか。
井坂  例えば砂田さんがプロの現場にいって、どんな厳しさを感じました。
砂田  その一瞬に、これぐらい妥協しないでやって、初めてスタートなんだっていうのが、印象でした。
井坂  劇映画の現場ですか?
砂田  劇映画でした。監督助手として。やっぱり学生でいくら編集ができたとしても、なんとなく次元の物の考え方だったと思うんですよ。
井坂  島田さんは劇の現場はいったことないの?
島田  僕は劇映画はないんですよ。
砂田  別に劇映画でなくてもいいと思うんです。先輩とか、先輩っていうかな、上司っていうのかなあ、フリーで働いている人間はなんて言っていいか分からないけど、どうやったら現場につけるのかっていうことが、なかなか難しいんだと思うんです。私も全然分からなかったので、実は待ち伏せでした。トークショーの後とかに待ち伏せして、働かせて欲しいんですけど、とお願いして入りました。
島田  そうなんですか?
砂田  他に方法を知らなかったから。
島田  それはすごいな。
砂田  どうしたら現場に入れるのか、全然伝手がなかったので。
井坂  映画学校とかいろんな監督がきているけど仕事の量が少ないから、みんなに回してあげられないけどね。
砂田  去年も同じこと言ったんですけどこれから本当に映画がなくなっちゃうんじゃないかと思っているんです。私、映画がなくなるんじゃないかって本当にいつも危機感でいっぱいなんです。
井坂  その場合映画っていうのは劇場でかかる映画なんですか?
砂田  そうですね、人々が映画館に行って映画を見るっていう環境ですね。でもまあ中高年の人が映画館に行くっていうことがあるので、そこまで特別なことじゃないけど。
望月  映画館って映画にとって最後の砦だと思うんだよね。あらゆる形態の映像があるその中で、『これは映画なの?』『なんで映画なの?』と問われた時の最後の理由が・・・ライブじゃないけど不特定多数の人間が同時に見るってことじゃないかと思うんです。映像的に画像が素晴らしいとか音がいいとか、そういう問題よりも、誰かと一緒に見るって行為が大切な装置なんじゃないかな。一人で観ていると熱気って伝わってこないけれど、同じ空間にいる人間が同時に明らかに興奮しているなとか、・・・みんなが泣きたがっているとか・・・そういうの、感じるじゃないですか。いくら科学が発達してもね、一緒に観てくれる人を作るとか・・・環境っていうのは作ってくれないからね。
砂田/島田  そうですよね。
砂田  その体験を若い時にしておかないと、映画館の映画ってこんな面白いものなんだって知らないから・・・そしたらみんな携帯でいいってなっちゃいますよね。(笑い)
望月  DVDでね、観てどうのこうのっていうけど、真面目じゃなくなっちゃうんだよ。トイレ行ったり画像止めたり、電話かかってくると出ちゃうし、全然真面目さがない。映画館に入ると冒頭に切ってくださいっていうから切るけど普段うちで観る時、電源は一々切らないもんね。だから全然緊張感もないし。
砂田  そうですよね、劇場はある種の観客に緊張感を強いますもんね。
井坂  ライブとか演劇だとそこに生の人がいるから見に行く動機付けがあるけれど、映画って劇場の魅力を知っている世代が少なくなってくと、テレビでライブを観る様な感覚に思われちゃったりもしかねない。そうなると、別に劇場じゃなくっていいや、ツタヤで100円で借りられるし。
望月  オーディションで役者のプロフィールに、趣味映画鑑賞って書いてあって『どんなの観るの?』って聞くと、全部DVDだったりして。ああ、彼等にとってはそれが映画なんだってね。
砂田  中学生とかにも「映画見る人!」って聞いたら、凄い手をあげたんですよ。凄いと思ったら、みんなまあ、DVDで、映画館に行ったとしてもシネコンでしかやっていない映画とかで・・・それしか映画ってものを知らないから。
井坂  特にドキュメンタリーなんか生まれてこの方観たことない、っていう子もいっぱいいるだろうし・・・。
砂田  そうですね。
井坂  テレビのドキュメンタリーっていっても旅番組とかが精々ぐらいの感覚でね、いわゆる本格的なノンフィクションっていうのはどうなのかな。
望月  今はBSとかあってさ、地上波ではできないようなやつがBSで結構やってたりもしますよね。映画は映画館で見たほうがいいけれど、今はこういうことなのかな、と思ったりしますけどね。
島田  実は僕自身、小学校の時に母親がレンタルビデオ屋さんから借りて来てくれて毎週見ていたという経験から始まっているんです。勿論高校生になってからは映画館に行ったりし始めましたけど。原体験としては、割とビデオから始まっているんですよ。小学校二、三年の頃、母親がビデオを借りて来て、毎週土曜日のうちの娯楽なのかな・・・チップスとコーラを買って来てくれて、『ベストキッド』そういうのを見せてもらった経験から始まっているんです。
砂田  私も最初はDVDだったけど、だんだん自分で映画館に行けるような年になってからは、ああ、やっぱり凄いなあって。
島田  うん、勿論そうですね。
井坂  なんか締めますか?
砂田/島田  (笑い)
砂田  私締めるんですか?(笑い)
島田  僕が締めるんですか?(笑い)

[終わりに]
井坂  さっき聞いていてまあ感じたんですけれど、よくドキュメンタリーは劇映画のように、劇映画はドキュメンタリーのようにとか言いますよね。僕なんかは劇映画育ちですけど最近つくづく思うのは、撮影現場においていかにドキュメンタリーを作るかなんですよね、結局。プロがどこ迄追いつめて行くかって話になると、被写体っていうか俳優さんがどれだけ生になっているかを見たい・・・そのためには追いつめていくし、つまり演出をしていくってこともあるんです。砂田さんは劇指向を持ってらっしゃる、でまあ島田さんはまだまだドキュメンタリーにこだわりたいってことなんですけど、劇映画とドキュメンタリーの端境と言えばいいのかな、そんなことを意識したことってあります?先程の話ではドキュメンタリーの被写体が生の人ってことだったけど、実は劇もそうならないと困るんですけれどもね。
島田  多分現状としても垣根がなくなってきているんじゃないかと思います。砂田監督が、助監督につかれた錚々たる監督たちって、ドキュメンタリーと劇映画を行き来されていますよね。佐藤真さんが本の中でヴェンダースがドキュメンタリーと劇映画とか、大作映画とインディペンデントの作品を自由に行き来している、と書かれていますけど、凄く僕は憧れますね。憧れるって言うとなんですが『これをやりたい』とか『こうじゃなきゃいけない』ってことよりも、雑多なところで、バランスをもって撮れるような作り手になれたらいいなって、僕は思っていますけどね。
砂田  私はフィクションを撮ったことがないから、カメラの向こう側は常に生身の・・・演者じゃない人達しか見たことないけれど、いつもアングルの中にある人たちが・・・その画が映画的であるかってことを意識しているので、奇抜な瞬間とか、センセーショナルな瞬間を狙うよりも、観ている人が自分が観ているものがフィクションなのか、ノンフィクションなのか、境がなくなるような瞬間っていうのを、いつも狙っていきましょうと。逆に自分がフィクション撮るようになったら、逆の現象が起きるのかもしれないなあと。
井坂  望月さん、何か?
望月  僕ら劇映画の人間は現場で何か起きるようにしている。心が動いている時間を作り上げてそれを撮っているだけだから。だからまあ富士山があって、どっちのルートから登るのかってことぐらいで登る先は一緒なのかなあ、って思います。そういうふうに考えないとそっちはそっち、こっちはこっちみたいになっちゃうんだろうなと思いますよ。
井坂  言い残すことはないですか?
砂田  じゃあ、あのお互い(笑い)
島田  お互い(笑い)
砂田  頑張りましょう。
島田  頑張りましょう。
井坂  お見合いみたい(笑い)
砂田  お見合いみたい(笑い)
井坂  やっぱり次回作をね、見たいですよね。
砂田  そうですよね。
井坂  作り続けて行くっていうのがね、やっぱり。
砂田  うんそうなんです。
島田  そうなんです、それが本当に。
島田  今撮影をされているんですか?
砂田  はい。
島田  それがドキュメンタリー?
砂田  はい。
島田  そうなんですか、楽しみですね。
望月  いつ頃完成するんですか?
砂田  多分公開できるのは、年内、11月ぐらいには出来るんじゃないかと。
望月  じゃあ、すぐなんですね。
砂田  すぐなんです、まだ撮ってるのに(笑い)
島田  撮影は。
砂田  去年からしています。多分ギリギリ迄撮影して、並行して編集して。
島田  またご自身でやられるんですか?
砂田  はいカメラ回してます。
島田  凄いなあ。
望月  何人ぐらいのチームなの?
砂田  今は、2人手伝ってくれている人がいます。エンディングノートの時はもう本当に全部一人でしたけど、時間もまあ、その時はあったから。
望月  機材持って行かなきゃなんないし、音録らなきゃなんないとかね。
砂田  音は、だから自分で撮ってますね、もう恥も外聞もかなぐり捨ててテーブルの上に置いちゃう、投げ入れるみたいな(笑)。もう、しょうがないと思って、そんなピンマイクを綺麗に仕込むとかできない状況があったりすると撮っちゃいます。
井坂  余談だけれども、僕も日芸とかの講師もやっていて卒業制作を観ていて、画はみんな凝っているんだけど音の処理が酷いよね。なんでこんなに雑なんだろうって思ってしまう。画に気を使うぐらい、音に気を使って欲しいなって。
砂田  それも結構、ビデオの弊害かもしれないですよね。両方とれちゃうから。
望月  実際は編集する時に頼りになるのって結構音だからね。
井坂  だからきっちり本当はね、音は録らなきゃいけない、録音って大変なんだよね。
砂田  そうなんですよね。
島田  僕も学生と一緒に何回か作業する中で、その意識に行く迄に段階があるんだなって、わかりました。やっぱりまず画で、で編集やっても、まず画のカット繋ぎとかは凄く考えているし自分なりに色々とやってるんですけど、音は、なんか撮影時の同時録音した音を無自覚にそのまんま入れてぶつ切りになっていたりとかします。音をどう入れて演出していくかは意識して行ける人と、あんまり関係なくいっちゃう人と、パックリ分かれる気がしてますね。
砂田  一個、言い忘れていた。『ドコニモイケナイ』の中にウィークリーマンションから出てくださいって言うおばさんがいるじゃないですか。ああいうおばさんを劇映画で描けたらいいなと思いました。あんなにリアルに出てけって言える人、あれがちゃんと演出できたらいい映画になるかなと。凄い印象に残りました.凄くリアルだった。
一同  (笑う)
井坂  えーとじゃ、ちょっと最後に四人で。(記念写真を撮る)

-終わり-

         文責 望月六郎