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特集

日本映画監督協会 会員名鑑

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フィルム派の遠吠え・・・?

2009年05月19日

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とうとう劇映画の半数以上がHD(ハイビジョン)撮影、という時代なのだそうだ。だからこそ、改めて「フィルムで映画を撮ること」について考えてみたいと思う。
いわゆる撮影部的視点からの「色合いや画質、画調」といった技術論を闘わせたいわけではなく、また映画のことをあえて「シャシン」と呼ぶような懐古調の思い出話を展開したい訳でもない。ハードの進歩は確かに多くの恩恵を映画作りにもたらしているが、同時にそこで隙間からこぼれ落ち消えていく映画作りの大切な何かを、監督の視点から今一度問い直してみたいと思うのだ。
座談会のゲストは平山秀幸、冨樫森両監督。そこに広報委員会から、井坂聡、瀧本智行、小林聖太郎の3監督が参加。少し喋りすぎたと反省しきりのまとめ役(編集長)は山本起也。都合6名による「監督からのフィルム論」である。(編集長/山本起也

座談会出席者プロフィール

平山秀幸(ひらやま ひでゆき)
50年福岡県生まれ。フリーの助監督を経て、90年『マリアの胃袋』で監督。92年『ザ・中学教師』、95年『学校の怪談』、98年『愛を乞うひと』、01年『ターン』、02年『笑う蛙』『OUT』、05年『レディ・ジョーカー』、07年『しゃべれども しゃべれども』『やじきた道中 てれすこ』など。監督協会新人賞、98年モントリオール世界映画祭国際批評家連盟賞など多数受賞。

冨樫森(とがし しん)
60年山形県生まれ。フリーの助監督として相米慎二、井筒和幸、平山秀幸監督らに師事。01年『非・バランス』、02年『星に願いを。』『ごめん』、04年『鉄人28号』、06年『天使の卵』、08年『あの空をおぼえてる』など。

井坂聡(いさか さとし)
60年東京都生まれ。東京大学在学中は野球部に所属。フリーの助監督として瀬川昌治、東陽一監督に師事。96年『【Focus】』で劇映画デビュー。00年『破線のマリス』、02年『ミスター・ルーキー』、03年『g @ m e 』、07年『象の背中』など。96年毎日映画コンクール新人賞、藤本賞新人賞受賞

瀧本智行(たきもと ともゆき)
66年京都府生まれ。フリーの助監督を経て04年『樹の海』で監督デビュー。07年『犯人に告ぐ』、08年『イキガミ』など。

小林聖太郎(こばやし しょうたろう)
71年大阪市生まれ。関西大学卒業後、原一男の「CINEMA塾」に第一期生として参加。その後劇映画の助監督を務め、06年『かぞくのひけつ』で劇映画デビュー。同作で監督協会新人賞を受賞。

山本起也(やまもと たつや)
66年静岡市生まれ。広告映像の演出を経て03年ドキュメンタリー映画『ジム』で劇場デビュー。他のドキュメンタリー作品に06年『ツヒノスミカ』。

1.モニターの登場が現場を変えた

瀧本 僕が今、42歳なんですけど、僕がチーフの頃、10年ほど前から24P(ハイビジョン)っていうのが何となく出始めて。当初はまだ24Pでやる方がフィルムよりも高かったんです。

井坂 仕上げが高かったんですよね。

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瀧本
 そうです。撮影もそうだし、仕上げで言うと、それこそ僕がチーフの時に初めてAvidの編集【注/映画の現場にも、ラッシュフィルムを切り貼りする従来の編集方法の代わりにコンピューターによる編集が登場。その代表的なシステムがAvid】の現場があって。だからちょうど境目というか、助監督時代はフィルムと24P両方を経験した世代です。平山さんは24Pは?

平山 やったこと無いんですよ。というか、自分がやってきた時代がフィルムだったということで、デジタルっていうものがわからん訳ですよ。わからんものには手を出せないみたいなところがあるので。フィルムで撮影して、編集もフィルムってことになると、もうほとんどシーラカンスっていうかね。阪本順治監督と俺ぐらいじゃないかって言われ方をするんだけど。別にそこで敢えて一生懸命力んでフィルム!というつもりも全く無いんですよね。

山本 そうですか。

平山 お客さんはね、フィルムもビデオもそんなこと、どっちでもいいと思うんですよ。要するに24Pで撮ったものもお客さんにとっては、へぇ、ビデオなの、っていうぐらいのことだと思うんですよ。ちょうど僕ね、『お葬式』っていう映画のチーフをやった時に、初めて現場にモニターが来たんだよね。でも今、モニターって当たり前じゃないですか。同じように、フィルムからハイビジョンになっていくっていう必然性みたいなことも、何となく今感じてはいるんだけども。

山本 冨樫さんはいかがですか?

冨樫 ほとんど同じで申し訳ないんだけど。私もこだわりがあってフィルムで撮るわけじゃないですよ。やっぱり、カメラマンがフィルムでやらしてって言ってくるし、『鉄人28号』だってプロデューサーがこれフィルムでしょって言うから、ああそうですねという感じで。だからポリシーがあってやるわけじゃない。だけど、どっちかを選べるとしたら、やっぱりフィルムでやりたいなというぐらいのことはあります。まぁその理由はいくつかあるんですけど。やっぱりモニターがどうしても。まぁ、フィルムの現場だってモニターあるんですけど、基本的にあんまり好きじゃないもので。できればモニター付けないでって言うんです。一番嫌なのは、俺が、フレームのこととか画をどう作ってるのかを気にし始めて、芝居に集中出来なくなるんですね。任せてしまえば、一切気にせず芝居だけのことを考えられるのに、見えちゃうもんだから、あれ、これ違うかもとかって、なんかスケベ心が出てきちゃうんですよ。それを自分で抑制できないので、出来れば無い方がいい。

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井坂
 モニターがあるとみんながその場で批評家になっちゃうよね。

平山 ハイビジョンが現在活躍してるってことと、モニターのことと、何かわからないけど、共通のニオイを感じるんですよ。モニターについて言えば、『お葬式』の時のカメラマンが伊丹さんに「冗談じゃねえよ」と。「誰が管理するんだ」と。撮影の問題なのか、録音の問題なのか、演出の問題なのかで、結構カメラマンと大モメしたりしたんですけどね。でもまぁ、そのカメラマンは最初かたくなでも、モニターの便利性?便利性っていうのも変だけども、そっちを選んで、すごく柔軟な感じで最後はもめなかったんだけど。一番最初はやっぱり、何の為にモニターがあるんだっていうことがあって。

井坂 平山さん、現場にモニターありますか?

平山 いや、だから、基本的にあってもいいけど見ないですよ。例えばよく、初めて映画の監督をする異業種者、歌手とかお笑いさんとかって、1回見にいったらね、モニターに向かってよーいスタートかけてるんですよ。やっぱりよーいスタートは俳優さんにかけるもんでしょっていうのが。まぁ言わないけども。

瀧本 それもう、異業種だけじゃないような気がしますけどね。そういう監督の方が多い気が。

山本 モニターが登場したことによって、監督の現場でのポジションっていうのが決定的に変わったって思いますね。

瀧本 テレビっぽいですね。テレビのスタジオっぽいですね。

山本 モニターと似たような意味ですけど、カメラマンに「ファインダーを少しのぞかせてくれ」と言って、サイズを確認したりみたいなことはないんですか?

平山 ほとんどしない。

山本 冨樫さんは?

冨樫 しない。何かね、のぞかないほうが格好いいという育ち方をしちゃったんですよ。のぞかなくてもわかってるっていうふうに見られたいというか。

平山 ほんとはわかってねぇんだよ。

冨樫 わかってないんですけど。あ、こんな画を撮ってたんだって思うんだけど。そういう育ち方をしちゃったんですよね。

瀧本 僕はけっこうのぞきますね。

山本 フィルムの場合、ラッシュがあがったときに初めて撮影したカットと対面するわけですね。そのドキドキ感が面白いんじゃないですか?

瀧本 いやー、結構「あ痛・・・」っていうのがありますね。手持ちのシーンとかが僕は多いんで、一応カメラマンに、手前の芝居はともかく「バックのあれをここは入れといてね」とか、演出的な狙いを言うんですけど、カメラマンって手持ちの場合だと特に本能で、手前にいい芝居があるとそこにグーッと行くんで、ラッシュ見たときけっこう「あ痛・・・」っていうのがある。基本的には僕もモニター見ないって教わり方をしたんですが、そういう時だけは見とかないとと思いますね。

山本 逆に良い方の「あ痛・・・」ってこともラッシュの時にはないですか?

平山 まぁ悪いときの数に比べると少ないよね、それは。俺も『お葬式』やった時には、モニターがあるわけだから、「あ痛・・・」は無いですよねって、伊丹さんにずっと言ってたの。リテイクも絶対ないですよねって。みんな見てるわけだから。そしたら「リテイク」じゃなく「撮り足し」って言葉で来た。まあ、うまくいった時は全てがいい方に考えられるんだけど。「あ痛・・・」ってときも絶対あるわけだから。でも不安は不安だけども、じゃあその前に全部画をモニターで見とく方がいいのかっていうと、それでもない気がする。

瀧本 それはそう思いますね。フィルムの撮影現場に、撮影している画のチェック用としてモニターが登場して久しい。フィルムで撮るか撮らないか、という議論の前に、出席者の間でまず話題になったのがこのモニターの存在だった。フィルムの現場にはそもそもモニターなどなかったから、そこでどんな画が撮られているか、現像するまでわからなかった。現像したフィルムを初めて目にするラッシュ試写は、従ってとても重要なものであった。モニターの登場とともに、ラッシュ試写というものの位置づけも変わってきた。(山本)

2.ラッシュを皆で見なくなった

山本 ビデオの登場で、ラッシュ試写というものがすごく大きく変わりましたよね。昔ラッシュを見る前に、ぺちゃぺちゃ喋ってたら、撮影部から怒られて。何でこの人たちこんなにピリピリしてるんだろうっていうのがあったんですね。フィルムラッシュのときの、みんなシーンとして見るという緊張感みたいなものが。

冨樫 ビデオ撮影の場合、プロジェクターで大きく映写してはくれるんだけど、違うものを見てるんだなっていう感じがあります。

山本 ラッシュ終わってから、チーフが隅っこの方でカメラマンに、「すみません、何とかのカット、半絞りオーバーでした」とかって謝ってるんですね。僕ら、わかんないじゃないですか、半絞りぐらいじゃ。

瀧本 全パートあるんですよね。全パート。だから演出部は演出部として、あぁって思うことがあって、美術部は美術部で、あぁあそこあれしておけば良かったとか、だからほんとラッシュの後ってみんなが反省会というか。

平山 だからそのことも含め映画作りだろうっていう育ち方をしてきてるんですよね。24P(ハイビジョン)撮影で仕上げもAvidなんかでやるとね、ほんと初号【注/映画の完成プリントの最初の一本のこと】まで全く仕上げにタッチできないっていう照明部の助手さんとかいたりするじゃないですか。でもフィルムでラッシュやると、見に来るんです。こいつまた来てる、暇だなとかってね、色々思ったりするよね。こんなところに来るより新しい仕事しろよって思うぐらいだけども、それも含めてだよね。作るってことのシステムってのは。映画の中身とは関係ないかも知れないけど。

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瀧本
 やっぱラッシュ見ると、1本の作品のプロセスの中で、反省したり色々思うことがあって、それを翌日の撮影からどうにかしようとみんな思うと思うんですよね。僕なんかも一番最初のカチンコの時に、ほとんど打率一割にも満たないくらい入ってないっていうことをまざまざとラッシュで思い知らされるわけです。

井坂 手作り感というか、やっぱ一体感がね、ほんとラッシュに象徴されると思うんだけれど、生まれるんですよね。で、今みたいにほんとにAvid編集になっちゃって、それをプロジェクターで上映したって、画質はもうめちゃくちゃになるわけだし。そうするともう、撮影部も照明部も端から見に来ない。

瀧本 来ないですよね。

井坂 逆に見たくないってことだよね。それに、現場にモニターがあって、何となくそこでみんな一度見ちゃってる画だから、ラッシュを見るドキドキ感というか新鮮味っていうのも無くなっちゃって。みんなで集中して、あそこがここがとかっていう、そういう会話がね、できる場が段々無くなっちゃって。

冨樫 (地方ロケだと)ビデオで送ってくる時あるじゃないですか。

平山 あれこそただ写ってるだけという感じ。

冨樫 あれをもうみんなで見るんですよ、あれを。もう、やめて!って思う。

平山 映画作りって、こういうことまた言うと怒られるんですけど、無駄の固まりじゃないですか。例えば、撮ったやつの7割は捨てるわけですよね。監督の家にコンピュータがあってそれで編集できる時代だから、それでやってしまうという、一番最短距離、金銭的にも、時間的にも、という部分の方法だと思うんです。いわゆるみんなで集まって、ああだこうだっていうのりしろみたいな部分が今もう、映画作りそのものに許されなくなってる、例えばその象徴としての24Pっていうのはあるんだろうっていう気はしますよね。だからといってその、無駄な部分を楽しむって言うつもりはないんだけども。

冨樫 監督が決めてよ、って言われるんですよ。えっ、俺決めなくていいじゃん、って思うんですよ。みんなで、みんなでって仲良しクラブじゃないけど、まずは編集なんだから編集部で良いようにやってもらって、その後みんなで意見言って。何か面白いこと言った奴の意見でいいじゃん、と思うんですよね。それがすぐ、監督が判断して下さいよ、って。どうしましょって。それは何か、すごく嫌なんですよね。

井坂 Avidの良さっていうのは、ひとつあると思うのは、1回繋いだものを瞬時に戻したり繋ぎ直したりできるところですよね。でも本来は、試行錯誤を繰り返す為にAvidっていうものを効率良く使えばいいんだけど、ただ早いっていうことだけでやっちゃうもんだから、もうほんとに醸成される時間っていうのはないですよね。

冨樫 想像しなくなったっていうことでしょうね。合成するとどうなるか、エフェクト【注/オーバーラップやフェイドイン、アウトなどの特殊処理】かけたらどうなるみたいなことは、フィルムの場合は想像してタイミングや尺を決めるじゃないですか。それがAvidだと、1回やってみようってすぐやっちゃって。時間が短縮されるだけで想像力がどんどん使われなくなってくる。

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山本
 逆に、ビデオでやると何が一番得なんでしょうかね。

瀧本 ひとつは、僕も前回の映画をやった時に、現場はフィルムなんですけど、編集もフィルムでやらしてくれって結構対抗したんですけど、そこだけは絶対プロデューサーからだめだって言われた。何でですか、お金ですかって言ったら、いや、お金じゃないんだと。要するに、製作委員会システムじゃないですか。そうすると、主だった出資者にやっぱりデイリー【注/1日の撮影分の音と画像を合わせたワークプリント】も送んなきゃいけないということなんです。このシーンはこういうふうに組んでますみたいな感じでデイリーを送んなきゃいけないと。あと、編集ラッシュをまあ4回か5回やるんですけど、みんなが揃うのって、せいぜいセミオールかオールで、全部のラッシュにはその出資プロデューサーが来れないと。そういう人たちには毎回ラッシュを送るわけですよ。DVDで。編集をビデオでやってほしい理由はそこなんだっていうふうに言われました。

山本 既に現場のモニターどころの話ではなくて、各出資者の家のテレビモニターにまで現場が繋がっているということですよね。

井坂 恐いのが、それで色がどうだの画がポヤポヤだとか言われる。そりゃビデオだからポヤポヤに決まってるんですよ。

平山 俺らだって、某テレビの何何さんがこういうふうなこと言ってるとかさ。聞こえてくるじゃないですか。冗談じゃねえよ! ってあるよね。同じだよね。

瀧本 そうなんですよ。だからそういうふうに言われても、聞いちゃいないんだよ。こっちは。でも、結局そういうときに限って意見を言われてね。ここはもうちょっと一押しすれば泣けるんじゃないのかなぁとか言われたから、あぁじゃあリテイクしますか? 他に画ないんで、みたいな気分ですよ。言うこと聞きやしないんだから、どっちにしたって。

平山 あとやっぱり、モニターでラッシュ見て、必ずでてくるのが、画が暗いってことですね。それと、アップが遠いっていうこと。必ず言うんです。プロデューサーも言うもんね。
冨樫 あんまり、そっち推進派の人がいないんですね。フィルム礼賛してどうすんだっていう感じなんですけどね。出資者のチェックをしやすくするために、フィルムによる仕上げが敬遠されているという瀧本さんの指摘に、映画作りの現状が集約されているように感じる。要は、誰の(どちらの)方向を向いて映画の現場が映画を作っているのかということだ。ラッシュ試写の変容とともに、映画作りにおける人の流れも変わった。今のシステムでは、クランクアップした瞬間それを支えたスタッフから映画は切り離されるのである。(山本)

3.フィルムであることの制約と、それゆえの良さ

井坂 光と影っていう言われ方があるじゃないですか。あれはやっぱり24Pでは言わないよね。フィルムだからこそ、光と影っていう言われ方があるような気がするよね。それが精神論か美学かはよくわからないんだけど、なんかそのことを大事にするにはやっぱり、ビデオじゃなくてフィルムじゃないかというのはあるかも知れないね。

冨樫 僕、やっぱ精神論ですね。気合いで撮りたいんですよ。いっぱい回せちゃわない方がなんかいいなというのがあって。

平山 そりゃ、貧乏性とも言うんだよ。

冨樫 いっぱいある分だけ、俺は弱いから、慢心が起こる気がして。1テイクするごとにどんどん何万円も飛んでいく方が気合いが入るっていう感じかな。【注/ビデオにおけるテープ費と、フィルムにおけるフィルム費、現像ラッシュ費を比べてみる。例えばHDCAMテープは楽天市場で見ると64分で6120円。フィルムはコダックの35ミリフィルムが1000フィート(約11分6秒)で85470円。それに現像ラッシュ費がフィルム代以上にかかるわけで、この部分だけを比較してみた場合金額的には桁単位の違いがある】

山本 その気持ちは、画面に出るんじゃないかなと思うんですけどね。

井坂 やっぱりみんなの目がモニターとかじゃなくて、そこにいる役者さんを全員が見てると、その役者の気合いとかも全然変わってきますよ。みんながこっち見てるっていう。
平山 よく、よーいスタートをかけるタイミングって何ですかって言われるんだけど、単に俳優さんだけの問題じゃないと思うんだよ。スタッフの問題とか、色んな小道具さんとかあって、それで現場のテンションが一番ピークの時がやっぱり。それは出ると思う、画にね。まあ取り敢えず撮っとけっていうのはね。よくハリウッドなんかテスト回しとか言うじゃん。あれはわからないよね、俺は。もう素材を撮ってるだけかなっていう気がしたな。

冨樫 でも素材として撮る監督もいらっしゃいますよね。

平山 だったら50分回せる? ただ50分回したってそれ見る根気が無いからね。
山本 ドラマの場合はまだね、よーいスタート、カット(OK/NG)の連続で現場が進んでいきますから、フィルムであろうが24Pであろうが、大きな違いは無いのかも知れないですけど、ドキュメンタリーの世界はそれに比べるとものすごく、ビデオが出てきて変わったなって思うんですね。

井坂 以前この特集で、渋谷昶子さんと原一男さんと飯塚俊男さんと、ドキュメンタリスト3人が対談をして。フィルムからビデオになって撮り方が甘くなってきていると。フィルムの時は、覚悟を決めてここで回すっていう緊張感を持って回してたけど、ビデオだと取り敢えず撮っとけ、という傾向が出てくると。

平山 素材集めってことですね。

井坂 ええ。ドキュメンタリーだとね、監督とカメラマンがいちいち現場で相談している場合じゃないから、ここだっていう時にふぁっと回すその集中力とか、阿吽の呼吸とか、瞬発力っていうのが、ビデオになって薄らいできてるんじゃないかなっていうような話でしたね。それは確かに印象的で。僕なんかは逆にドキュメンタリーなんかほとんどやらないから、単純に言えば、いっぱい回せるのがいいじゃんって思ってる。実際、自分で昔やった時にそれで大失敗したことがあったんですけども。撮りすぎちゃって、何使っていいかわかんなくなって。

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平山
 よく音楽ものなんかで、ライブだとカメラ7台ぐらい持っていくじゃないですか。俺もある歌手のをやった時にさ、退屈だもんね、ラッシュ見て。頼むよって言うくらいさ、延々6時間も見てさ。何とかならんかって思うんだけども。

山本 素材撮りという言葉が出ましたけれど、ドキュメンタリーの場合はまさに「取材」になってきてるんだと思うんですね。渋谷さんの若い頃の作品なんかを見ると、ドキュメンタリーなのに例えばあるカットはレールを敷いて、ここからカメラがこう動くから、それに合わせてこう動いてくれって生身の人たちに演出してますね。そういう一個一個、カットの狙いっていうのがやっぱりすごく明確で、行き当たりばったりみたいなカットがほとんど無いんですね。

井坂 それはね、小川紳介さんの話になった時にも、あたかもね、PANするとそこで出演者が台詞しゃべってるみたいなね。でもそれは撮影するまでに、ものすごく濃密な関係性を作っといて、そういう話になるぞっていう瞬間にガーッと回したそうです。

平山 だからドキュメントの方に主張があるっていう言われ方は前からしてるんですよ。逆に言えばフィクションの方がええ加減というか。やっぱりドキュメントでも、造りだと思うんですよね。明確に対象と向き合うということからスタートして。でも、何となく今のドキュメンタリーは、撮影でいうと「写っちゃう」っていう感じ。小川さんとか、土本さんの時代から、あの辺りはドキュメントでも造りという意味でものすごく主義主張がはっきりしていて、評価は高かったですね。

山本 千何百円払って映画館に行くっていうことを考えるんですけれど、映画っていうのはドキュメンタリーも含めて全部、そういう造りというか、表現、フィクション性みたいなものの鮮やかさに千何百円払うんだと思うんです。

平山 だから偶然の産物じゃないっていうね。フィクション、ノンフィクションに関わらずね。明らかに明確な意志みたいなものがあるわけじゃないですか。

山本 その意志というものを外から強制される一番のものがフィルムではないかなって思うんです。その扱いにくさであったり、高価さであったり、そういうものが自分自身の甘さ、弱さみたいなものを外から制約してくれるといいますか、それは映画というものをつくる上ですごく大事な力なんじゃないかなっていう感じがするんです。

平山 フィルムの機能自体には限界があるとは思うんだけども、作り手の機能っていうのは限界無いと思うんですよ。もはや限界に来てるのかも知れないけど。あるいは何かの調子で底無しになったりするわけじゃないですか、個人個人が。そのことはきっとフィルムと連動する気はしますよね。ドキュメンタリーの領域では、デジタルビデオカメラの登場は大きな転換だったと言える。操作が簡単で、テープ代も安いデジタルカメラを手にした瞬間、ドキュメンタリーの作り手は、あれもこれもひたすらカメラを回して記録したい衝動にかられるのではないか。ビデオ登場前のドキュメンタリー映画と、登場後のそれとを比べてみると、ハードの進化が作品の内容にも無意識のうちに大きな影響を与えているということが見てとれる。(山本)

4.どう写るかということの経験値

平山
 これもすごく誤解を呼びかねないんだけど、今24Pにしても、カメラとか良いじゃないですか。だから写っちゃうんですよね。変な言い方だけど、パパッとやれば。何かフィルムの方が作ってるって感じがするかな。ライティングの時間とか、そういう感じがちょっとするんですね。
井坂 なまじっか写っちゃうっていうのがあるから。やっぱりフィルムのカメラマンとかフィルムの照明技師で作ると結局、当て込んでってどれだけ絞っていくかっていうやり方になるからね。だからライティングの仕方がまず違う。当てて絞るっていう発想でやってかないと奥行きも出てこないし。

平山 写るってことの、恐さなんだよね。

瀧本 あと、この間ぶちキレたのが、メイキングの人がちょこっと写ってたんですよ、フレームに。で、プロデューサーが、「すみません、あの写ってたみたいなんですけど、CGで消してもらえるんで。」って。

平山 消すっていう発想がねえ。

瀧本 そういう緊張感の欠如というか。

平山 マイクが出てくるのって恥ですからね。影が映るとかね。今は消せるからいいんじゃないのっていうふうになっちゃってるけどね。

瀧本 だからね、ハードが緩くなると、ほんとに作り手の心も緩くなっていくっていうのはあるかもしれないですね。

平山 今度のやつもね、ものすごいワンカットで長回ししたのね。最後主人公が後ろ姿でずっと歩いていくの。なんかもうえらいカット撮って、一番最後に全然気付かなかったけど、ちらっと見物人が顔出してるのよ。これは消さないかんと。カットがものすごく長いんで、ものすごく金がかかるってね。よりによって何でっていう時に出てくるね、ああいうの。

瀧本 見物人か。泣きますね。

平山 俺は泣かない。プロデューサーは泣くでしょうけど。

一同 (笑い)

平山 だからやはり、育ちだと思うんですよ。パソコンで色々消せるかも知れないけども、写っちゃいけないものは細紐で木の枝を引っぱったりしたじゃないですか。色々なことを工夫したり学んできてるから、この出てる木をね、後からばあっと消しちゃえ、っていうふうな発想にならないですよ。

井坂 合成の炎と、本当の火を使ったのと全然違うってことを知ってるから。

平山 あと血のりが違うでしょ。

井坂 知ってるからやっぱり何か違和感を感じる。その違和感を伝えていくってすごく大事なこと。簡単にできるから後でやりましょう、じゃなくて、やっぱそこで手間ひまかけたものは必ず写ってくるっていう。そこを手間ひまかけさせてくれない。

冨樫 未だにそんなこと言ってるんですか、って言われそうですよね。

瀧本 撮影の木村大作さんにもしょっちゅう言われるんですけど、雨だの火だの雪だのってやる時に、火事のシーンの煙とかもうすごいことやってんですよ。もうこんだけやってんのに、まだぁ、まだぁとか言われて。古タイヤをぼこぼこ燃やして、もうみんな喘息で死ぬんじゃないかっていうくらいの状態で黒い煙やって、白い煙は白い煙でやって、とにかく自分の見た目は真っ黒で、役者見えねえんじゃねえかぐらいまでやって。でもそこまでやって初めてラッシュを見たら、なんか緊張感のある火事だなぁとか。

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井坂
 僕の大作さんの思い出は、助監督の時なんだけど、雨でたて引きでさ。夜間で車が向こうから来るっていう。場所は清水港。港って下に水が入っててね、それをばんばん吸い上げて、最後ヘドロが出てきたもん、そこまで降らして。これだぁ!と。

瀧本  土砂降りの雨って設定だと、役者が傘さしてるのに、5秒もたったらもう、あまりに降らしてるもんだから、全身びしょぬれみたいな感じになって。でもそうやって初めて、土砂降りに見えるんだっていう。いつも、自分の肉眼の3分の1とか、5分の1しかフィルムには写んないんだぞっていうのをずっと言われてて。

山本 フィルムの場合、どう写るかの計算がひとつの技術ですよね。

瀧本 それはどこか芝居に対しても思うことがあって。カメラがぐぅっといくところなんか俳優さんも芝居してる気になってるし、こっちもなんかね、ぐぅっと来てるような気がするんだけど、フィルムの上がりと、いま目の前にあるものと、ちょっと冷静に考えてみるという。俳優さんが気分が入っちゃうとどうしても、こっちもぐっと乗っちゃうんだけど、そこで組み上がった時にはどう写ってるんだろうっていうことを一回、冷静に考えてから芝居を見るようになったんですよね。助監督時代、お前の目に見えてるものが全てじゃないんだぞって、ずっと大作さんに言われたことを、時々監督になってもふっと思い出して。モニターだったらもう、これが全てなのかなっていうことになっちゃうところを、ちょっと引くというか。それもフィルムだからなのかなって思います。

井坂 でも逆に、モニターがあって唯一良いところって、非常に冷たい目線で芝居を見れるんですね。引いた目で一回、自分のやってることを見ることができる魅力っていうのはあると思います。
冨樫 逆に恐いことでもあると思いますけどね。

井坂 でも、基本的には自分が肉眼で見てるものがやっぱり全てだと。その時見てた感覚と、ラッシュで上がってきた時の感覚がどれだけずれてるんだろうっていうのは、これはもう経験値で。

瀧本 そうですよね。だからその経験値こそが、人を育てるということのような気がしてならなくて。自分も、監督として現場で芝居を見て、フィルムラッシュで上がったものを見て、そのギャップは当然ありますよね、常に。それが次に自分に跳ね返ってくるというか、そのギャップをどうしたらいいのかっていうことを考えるということが、なんか次に繋がるような気がして。それはすごくそう思ってたんですよね。

井坂 助手さんが育たないっていうのはまさにそこだよね。撮影部の場合、自分がメーター切って、これでどういうふうに写ってるか、写ったものとの差っていうので経験を積んで行くんですね。
同じものをビデオとフィルムとで撮影した場合、画から受ける印象は異なる。『水戸黄門』がフィルム撮りからビデオ撮りに変わった時、一般視聴者から「いつもと違い変な感じだ」という電話が局にたくさんかかって来た、という話を聞いたことがある。実際の人間の見た目に一枚「別世界」というフィルターがかかるのがフィルムだとすれば、先週まで水戸黄門様であったのが、突然かつらを被り衣裳を着たベテラン俳優にしか見えなくなってしまったという衝撃であろう。現像する時それがどのように写るかを知る、ということが、フィルムに携わる人間の技術だったのだ。(山本

 

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5.映画の作り方に対する考えの変化

平山 映画監督って、自分の作ったものがずっと永遠に残るって良いですねってよく言われるじゃない。でも、悪いものも残るんだからね。作っていくことがみんな良い方向で残るって思ったら、大間違いだしね。

冨樫 残して欲しくないものありますか。

平山 いや、全体像じゃなくて、あそこなぁ・・・みたいなことを、女々しく思ったりするんですよ、俺は。

冨樫 しますね。

平山 だから、フィルムだと、なかなか見えにくいものが最後急に見えてくる。デジタルは、はなから嫌なものは嫌。欲しいものだけ残すみたいなことがあって、何となく楽そうな感じがするのね。デジタルって、そこがつき合えないっていうかなぁ。嫌なものでも、背負っていかなあかんよっていうところがやっぱりあるんだよね。

冨樫 そうですね。こんなんできちゃいましたっていうのが映画って感じがするんですよね。

平山 監督っていうポジションは一体なんだろうっていう時に、何かね、やっぱこう、悪いことも全部引き受けないといけないと思うんですよ。

井坂 ほんとにその、モニターとかAvidでみんなが批評家になってる時っていうのは冷めるんですよね。

平山 スタッフは作り手側にいてほしいよね。

瀧本 現場で、「写ってないよ」ってあるじゃないですか、そこ写ってないよっていうところを一生懸命作業している奴。別に写ってなくてもいいじゃんって思うんだよね。何か助監督の子がなんか一生懸命色んなことやってて、そしたらモニター見てる奴が、「そこ写ってないよ」とか言って。俺なんかもう「黙っとけよ」とかって言うんですけれど。写ってなくてもいいじゃんよ、やってんだから。

平山 引きの画で、モブシーンやる時に、今はモニターがあるからフレームはこうだよってわかるけど、昔はすいませんってカメラマンに恐る恐る訊いてみたいなことがあったじゃない。もう今無いもんね。

瀧本 写ってないよ、っていうのがまさに典型的だと思うんだけど、何か自分が関与して良くしたいとみんな思ってんですよね、スタッフひとりひとりが。で、それが結果的にラッシュ見て、ああ写ってなかったなって思ったりもするんだけど、でもそれをフレームってことだけに限定しちゃうと、色んなことがこぼれ落ちていくような気がするんですよね。やっぱり映画を良くしたい、面白くしたい、より良い画にしたいってみんなが思うってことが、もちろんそれはフレームに準じるんだけど、写ってるか写ってないかわからないけどもこうしたいとかって思う、その思うことが大事な感じがして。フレームが一番になっちゃうと、王様になっちゃうと、何かそれだけじゃないよね、映画って、ていう感じですね。

平山 空気を作るもんだという気がするしね。だからといってね、写ってない重箱の裏を塗るとかってまたちょっと違う気がするけど。

瀧本 そこのぎりぎりのところで、あまりにとんちんかんなことをまたやる奴もいて、そういう奴はタコとか言うことになっちゃうんだけど。

山本 確かに映画って、フレームというものの中に何が写ってるか、写ってないか、だけでしかないと思うんですけど。そういう意味では別に現場にモニターがあって、そこに写ってるものが全てだって言われればそれまでなのかも知れないですけど、そのカットをそこで撮るというところまでの色んな、映画を作っていく道のりとか、そこに辿り着くまでの日々の撮影のスタッフの気持ちだとか、そういうものも含めて映画だと思うんですね。現場にモニターがあって、このカットが良いとか悪いとか、画が広いとか狭いとか何だって、どうとでも言いたいことを言えるものなんですけど、そこに来るまでの色んな道のりも含めて考えて行かないと。

冨樫 ええ、あの、良いものが撮れればそれでいいわけじゃないんですよね。良い画が撮れればいいわけじゃなくって、俺は芝居を見てるから、画はカメラマンが決めてよ、照明はきれいに当ててよ、美術はいいセット作るから、みたいなこととか、これ全部、信頼関係だと思うんですよね。それをいちいち監督が全部指示して決めていかなきゃならないことじゃない筈じゃないですか。なんかそこの信頼関係が損なわれていくのがすごく嫌なんですよね。どっかで俺はやっぱり任せたいし、一番良い仕事をしてもらうには、任せてしまうことだと思うんです。監督がチェックして指示して、良いものが上がれば何でもいい、ってわけじゃないんですよね。やっぱもうちょい、集団でやってることの豊かさみたいなことを一緒にやれるから映画やってんだよなっていうのがあります。

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平山
 恐らくその現場でモニターに映る画とか、出資者や局の人のご自宅に行くDVDっていうのは、情報だと思うんだよね。例えばこのシーンにはどんな俳優が出て、どんな台詞をしゃべって、場所はどこでっていうふうなフレームの中の情報だと思うんですよ。でも、きっと映画って情報だけじゃ持たないと思う。技術のこととか、何か思いのこととか、言葉に出して言いにくいことがきっと映画だと思うんだよね。だからそういう意味でいうと、今情報がものすごく多い時代じゃないですか、映画だけに限らずね。そのことと、24Pであるとか、Avidであるっていうことは、そんなに離れてない気がしますね。

井坂 フィルムは現像するまでわからないっていう恐さに対して、逆に現場で作り込んでいく面白さっていうのが24Pだったらもしかしたらあるのかも知れないですね。それは、どういう映画を作りたいのかっていうことに密接に関わってくると思う。

山本 その現場で作り込むっていうことが、本当に作るっていうことなのかというふうに思うんです。もちろん現場でギリギリまで頭で考えて、こうかああかってやるんですけど、最後、それを放り投げるというか、それがたぶん冨樫さんのおっしゃる任せるということだと思うんです。だからフィルムの場合、そこまではもう徹底的に現場でこうかああかってやるにしても、最後は現像ってものに任せて、みんなで放り投げて、ふぁっと上がってきたラッシュを見るという。それこそが、作るっていうことだと思うんです。それを全部モニターの中でああでこうでって、現場で100パーセント自分の思ったようなものを作り上げられるというふうに思い込んでしまう錯覚がビデオなんではないかと。預けるというか、ここまで考えたんだからこっから先は、まあ言ってみれば焼き物がどんな色で上がってくるかみたいな感じが、映画を作る物作りの感覚にすごく大事なんじゃないかなっていうふうに思うんですよね。

冨樫 焼き物ってすごく良い例えですね。

平山 でもそういうふうに言うけども、じゃあ自分で書いて、自分で撮って、自分で歌って、自分で編集してっていう人もいるわけじゃない。それは、いや、個人的に言えば何が面白いんだろうなって思うのよ、単純に言えばね。いや、作品が面白いとかっていうことじゃなくて、そういう作業が何が楽しいんだろうって思うのよね。

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冨樫 ひとりで全部こだわってやりたい人はビデオで撮るだろうし。

平山 そう、そういう人もいると思うな。放り投げたくない人もいると思う。

井坂 だって今現実にフィルムで撮ってたって、ビジコンから吐き出した画をパソコンに取り込んで、昼飯の時に見て、下手すりゃ編集しちゃう人もいる。

山本 そういう流派の方が増えるだろうなというか、そういう感じはしますね。

冨樫 この座談会、我々みたいな前世紀の遺物ばっかり呼んでどうするんですかっていう感じだよね。上がりだけを見て物を言うのはたやすい。その過程を共有できるからこその集団制作であり、その運命を共有できるのがフィルム感覚だ、と言ったら言い過ぎであろうか。今回の座談で、ごりごりのフィルム擁護派は私だけで、他の皆さんはむしろビデオの利点を生かした映画作りがあるのならむしろそれをやってみたい、という柔軟さも持ち合わせていた。この座談記事の中に「フィルムの方に流れを引っ張ってやろう」というような恣意を感じたとしたらそれは私のまとめ方のせいである。そしてついに、ビデオにだっていいところがあるじゃないか、という反論が始まった。(山本)

6.ビデオの利点/作り手にとってのチャンスが広がった

井坂
 最近テレビドラマなんかを見てても、同じようなカッティングで、同じようなサイズでっていうのが何となく多く感じるんです。意志を持ってカットを撮ってるって感じがしない。取り敢えず撮っとこうっていう。

冨樫 でもそういう人たちがほとんどになって、映画自体変わるのかな。

平山 何かこう、早いよね。例えばそのスピードが。色んなハードのスピードが、俺なんかが思う以上にものすごく早いよね。

山本 ある時代までの映画って文句無しに力があったと思うんです。じゃあ、どうしてあれだけ力のある映画を作れたのかということを考えると、もちろんそれは映画の置かれた社会的な立場もあれば、その時代の社会そのもののエネルギーの強さもあれば、色んなことがあると思うんですけれども、ひとつにはやっぱり、映画を作る現場のエネルギーが絶対的に強かったと思うんです。それが段々、映画っていうものが作られる形態っていうものが変わってきて、色んなものがどんどん不便な方から便利な方へ向かって、カメラも軽くなったり、ライトも明るくなったり、フィルムもどんどん光が足りなくても写るようになったりっていうことと、映画の持つ力強さみたいなものっていうのは、どこかですごく関係してるんじゃないかなって思うんです。もっともっと色んなことが便利になって、もっと誰でも簡単に撮れるようになって。そうすると映画の中身も変わっていくんでしょうね。

冨樫 そうですね。それで本当にフィルムが無くなろうとする時に、質も変わって、中身も変わろうとする時に、まあ変わってしまっているんだろうけど、その変化の行き着く所が「良くない」となった時に、もう一度フィルムの、フィルムのような撮り方の良さみたいなことに着眼してやりだす人が出てくるんだと思うんですね。デジカメがあるのに、フィルムの、おもちゃのカメラみたいなのでわざわざ撮る人がいるのと同じように、何かほんとに質が変わっちゃったっていうことが嫌だとなったら、フィルムの持っていた撮り方のところに戻っていくような気がしますね。そこまでいかないうちはなんか進んでいくでしょうね、このままね。街の景観がここまでだめだとなって、初めて、じゃあ元に戻そうっていうのと同じようなことが起こるような気がしますね。
(ここで、記録用のカメラを回していた小林聖太郎さんに「デジタル派」からの意見も、との声が)

小林 じゃあ敢えて、デジタルの擁護派の意見を。やっぱり、予算をすごく抑えることができるっていうのはあると思うんですよね。普通に考えれば商業ラインに乗らなさそうだとかいろいろな条件がある中で、これはでもどうしても作りたいんだっていうものを作ることができるというところに、僕は希望がちょっと持てると思うんです。1千万しかないのにフィルムでできるかって、そんなの誰も乗らないですよ。けれども内容は面白そうだっていう場合、デジタルなら作れるぞっていうのはちょっとこれ、良いとこなんじゃないかなっていう気がするんですよね。

090519_11.jpgのサムネール画像

瀧本
 そういうのに向いた作品は絶対あるよね。

井坂 金も無いし、時間も無いし、でも作りたいって言った時に、なんとかこれ一個あれば取り敢えず自分の映像表現できるとなれば。作ろうってハードルは低くなってるよね。今までだったらあきらめてた人が、あっ、俺でもできるんだっていう。それは大きいよね。

山本 今日は声はかけなかったんですけど、林海象さんが一頃言ってたのは、やっぱりビデオっていうものが出てきたことによって、フィルムの持ってるある種の特権意識みたいなものが壊れて、映画を撮るってことが民主的になったということですね。誰でも撮れるということはこれ、良いことじゃないかと。

平山 それ映画だけのことじゃないでしょ。本は本屋だけのものじゃないしね、みたいなことがあるじゃないですか。だからその、これはどこかで作られてるとか、これはどっかでしか売られてないっていう時代じゃあもうなくなってるよね。

瀧本 でも、埋もれて出にくかった才能が出やすくなったっていうのは確かだと思うんですよ。

冨樫 今の話聞いてて、助監督から監督になっていくみたいな人がもうなくなるんですね。ビデオが普及するのと同じことなんですね。

平山 だからといって、じゃあ助監督から苦節何年してっていう映画作りが正しかったのかという。昔はそれしか道が無かったんであって。なんかとんでもないわっとした才能が出てくるかも知んないし、わからない、それはね。

瀧本 天才ってほんとに数えるしかいないでしょ。でもやっぱ僕ら、映画作って飯食っていかないといけないわけで。

平山 3本、4本とどうやって作るかみたいなことじゃないですか、僕たちのやろうとしてることは。

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瀧本
 そうやってずっと映画監督として飯を食っていく為っていうのは、やっぱり個々の煌めきというか、そういう才能だけじゃないような気がするんですよね。もっと色んなことをわかっていったり、見えたりしていかないと、続けてはいけない商売、なかなか続かない商売だと思うんで。

山本 映画監督っていうものは、要は実際どんな技術なのかということですね。

平山 それは難しいよな。それ語り出すと一晩くらいかかっちゃう。一晩でも語り切れないよね。
フィルムで映画を作る事に対し、監督たちがここまであけすけに話をした、という座談は珍しいと思う。できれば近い日、さらにあけすけに、後半出かかった「デジタル派からのビデオ推進論」を展開し特集していただければと思う。両方の論が出そろえば、2009年というフィルムでの映画撮影が50%を切った時代に、映画監督たちが、技術の進化ならびに映画作りの変容に対しどのように考えていたかという、後世に向けての貴重な証言にもなりうるのではないか、そう思っている。(山本

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