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特集

日本映画監督協会 会員名鑑

特集

ドキュメンタリー映画の演出

2008年10月27日

  「ドキュメンタリー映画の演出」




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~まえがき~         渋谷昶子

私は、ドキュメンタリーの仕事をしながら、かねがね、ドキュメンタリー映画に演出論があるのかという
疑問を持ちつづけていた。シナリオには懇切丁寧な著述が多数あり、又、劇映画の演出論も諸先輩に
よって多岐に亘り展開されている。ポール・ローサーによる「ドキュメンタリー映画」はあまりに有名
だが、演出論の詳細にはふれていない。今回ドキュメンタリー映画界の論客、原一男、飯塚俊男両監督
を迎え、演出論を語っていただいた。
創作活動を通しての演出論は、示唆に富んだ興味深いものとなったことは、提案者として、嬉しい限り
である。

時:2008年8月27日
於:渋谷昶子宅

ゲスト:原 一男
    飯塚俊男
司会:渋谷昶子
収録:井坂 聡
編集:三浦淳子
書き起こし協力:山本起也

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プロフィール

原一男   1945年6月8日生   山口県出身
69年東京綜合写真専門学校中退。72年小林佐智子と共に疾走プロダクション設立。
「さようならCP」を監督。 74年「極私的エロス・恋歌1974」(トノン・レバン
国際独立映画祭グランプリ)。87年「ゆきゆきて、神軍」(日本映画監督協会新
人賞、ベルリン映画祭カリガリ賞etc.)。94年「全身小説家」(キネマ旬報ベス
トワン、同監督賞etc.)。

飯塚俊男  1947年9月19日生  群馬県出身
71年東北大学法学部卒、在学中から小川プロダクション制作部に所属。78年小川
紳介監督の助監督となる。89年第一回山形国際ドキュメンタリー映画祭の公式記
録映画で監督。 92年「小さな羽音-チョウセンアカシジミ蝶の舞う里」95年「木
と土の王国-青森三内丸山遺跡94」他。 (賞)文化庁優秀映画作品賞、キネ旬
文化映画第1位、等。

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<時代とドキュメンタリー>

渋谷 かねがね自分で仕事をしながら、ドキュメンタリーに演出論というのがあるのかしらって、思うのです。
 劇映画以外で映像を撮るっていうのが始まったのが、ニュース映画、教育映画、科学映画、産業映画、スポンサード映画、PR映画、広告映画、宣伝映画、ルポルタージュ映画、それから紀行映画とか観光映画、探検映画、だからそれらを括ってドキュメントと言う事がなかなか難しくて。
 それでドキュメンタリー映画ということがあまり市民権を持たなかったというような気がするんですけども、1960年ぐらいから、土本典昭さんの水俣が始まり、小川紳介さんの三里塚が始まって、その辺からドキュメンタリー映画と言えるようなものが形として現れてきたように思うのですけども、その辺の所からまず、原さんに、そういうふうに考えられるかどうか。
 それから、演出論―ドキュメンタリーの演出とは何か、ということをお話しいただきたいのです。



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 今、大阪芸術大学という所で、ドキュメンタリーの授業を受け持っているものですからね、まあドキュメンタリーに関して論じるということが割とあるんです。で、今おっしゃったような問題意識は当然、これだというようなドキュメンタリー論というのは、作り手が十人いれば、十個あるという気がするんですね。演出とはいかにあるべきか、演出とはどういうものかという問題も絶えず気にはかかっていることなんですね。それは追々話をそっちの方へ持っていくとして、最近私がしみじみ思うのは、ドキュメンタリーとはこういうものであるというその考え方が、すごく時代の影響を受けているという面がありますよね。60年代、今、土本さんと小川さんの名前が出ましたけども、同世代の大島さんも、今村さんも劇映画の監督でありながら、ドキュメンタリーをたくさん撮っていらっしゃる。それで、大島さん、今村さん、小川さん、土本さん、この四人のビッグネームに共通していることはね、やっぱり国家とか権力とか民衆とかっていうイメージが共通しているように思えるんですよね、作品を見ていて。今村さんの「からゆきさん」ていう作品があって、「権力」というキーワードをぽんっと言ったりするでしょ。つまり、非常に強大な国家権力があって、その国家権力に虐げられる弱い民衆という、非常にわかりやすい図式があって、この図式が、今言った四人の監督におそらく基本的には共通してるだろうと思えるんですよね。それは、四人の監督の資質というよりも、そういう捉え方をせざるを得ない時代ということもあったんだろうという気がするんです。

私はそのひとつ下の世代なものですから、上の世代の監督達に対して、自分はじゃあどういう意識から作品を作っていこうかと考えた時に、70年代、全共闘運動っていうのもあって、集団、個というキーワードが、時代の中から強く押し出されてきた時代ですよね。それで、ドキュメンタリーを作っていく時に、個というものにこだわって作っていく、つまり、弱い民衆が運動を展開して・・・水俣の運動も、三里塚の運動も、そういう運動でもって権力と対峙していくという大きなエネルギーの渦みたいなイメージがあったと思うのです。

それに対して、僕らが映画を作ろうとした時には、個をとにかく追求すると。で、個の立つ位置とか思いの中に克服すべき問題をえぐり出して、それと戦っていく。つまり個人の内面の中に国家と言われるものの写し絵がある。だから外に国家があるんじゃなくて、内に国家があるという捉え方を、全共闘運動から問題提起を受けて、作り手である自分もそのように捉えていたんですね。私がそういうドキュメンタリーの考え方を採用したというのは、やっぱり時代の影響だと思うんです。それで、三十年近くドキュメンタリーをやってきて、ある時ふっと気がつくと、個人だ、個が強くなるべきだというふうにこだわってきた自分のドキュメンタリーが、何か行き詰まり感を自分で覚えた訳です。一体それは何だろうと思った時に、私がいう個人は、強い国家権力に対して喧嘩を売っていくエネルギーをどう自分の中に醸し出していくか、育てて、表に噴出させるかというイメージで捉えていた。けれども、国家の方が少しずつ、その実態を変えてしまっている、70年代あるいは60年代のように、牙をむくというような国家像ではどうも無くなってきたんじゃないかという思いがあってね。つまり私がいうところの個人というのは、国家みたいなものが強大なエネルギーを持っている時には、成立するんだろうけれども、国家の方が何か'ヌエ'みたいな存在に変質していった時に、個人がエネルギーをぶつけていくような、そういう対象としては機能しなくなってしまったという思いが非常に強いんです。

映画学校で授業をやっていて大きな問題になっているのは、セルフドキュメンタリーでね、それで、私は70年以降、80年、90年と、こだわってきたキーワードは依然として、個なんですけど、キーワードは同じでも、内実がまるっきりひっくり返ってしまったという思いも同時にあるんですよね。何が一番大きな差かといいますと、僕らの場合は個といいながら、その個が、時代の中で、どう生きていくかっていった時にですね、カメラを持ってドキュメンタリーという形で、その意味を考え始めていったのですが、そのセルフドキュメンタリーを担っている今の若い子達っていうのは、いかに生きるべきかっていうふうな思考では全く無くてですね、自分が今そこに、この世に生きている、そのことが確信を持てないでいるといいますか、生まれてきて良かったのかどうかっていう根源的な不安を持っている。だから、ルーツ探しから、つまり自分探しから始めてしまわざるを得ないという必然性があって。だから、土本さん小川さんの時代から言うと、ホップステッップジャンプというふうに変化してきたんだろうなと思っているんですね。

で、私はホップステップつまり、強い個というようなキーワードで作品を作ってきたけれども、時代は今や、強い個に鍛えられるっていう状況が無くなってしまったというか、それをやろうとすればするほど、空回りするような時代になってしまったというような実感があってね。そういう21世紀になった今、もう私もずいぶん上の世代になるもんですから、何をどう作っていけばいいのかということを、自分の中でも探っているという、実感がとても強いんです。だいたい見取り図はそんな感じなんだけれども。

渋谷 小川紳介さんの話が出たんですけど、飯塚さんは、小川紳介さんとの濃密な関係から、説明していただけますか。



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飯塚 僕は、原さんの後から監督になって出てきた人間なんですけれども、原さんより前の小川紳介さんの集団の中にいましたんでね、土本さんとか小川さんのドキュメンタリーの方法に、どっぷり浸っていました。だから、原さんの前の世代でもあるし、後の世代でもあるというふうな、入り組んだ所に自分はいるんですね。私と小川さんのつき合いは20年になりますが、最初は制作でお金集めと上映運動を十年ぐらいやってですね、その後十年ぐらいは小川さんの助監督、それも「ニッポン国 古屋敷村」と「1000年刻みの日時計」っていう、山形を舞台にして撮った二本だった。これがまた長大な映画で、五年間かけて作って、一年から二年かけて上映する、この二本の助監督をやったもんですからね、十数年間はずっともう小川さんの助手だった訳ですよ、それで気がついた時にはもう40歳すぎてましてね、43、4歳かな、それで始めて、小川さんにもう終わりにしてくださいって言って、いいだろうっていう。それから、フリーになって独立して、監督としてやるということに。

渋谷 学生時代から入られたんでしょ。

飯塚 そうそう、学生の頃からやっていましたよね。まあ、小川さんに惚れ込んで。つまり小川さんの面白さはなんだったかっていうと、映画のプロを求めるというよりは、生き方を問うっていうところが良かったんですよ。お前はどう生きるんだっていうね、まずそれがあるんですよね。それで、その頃の全共闘もどう生きるのかっていうことがもう、すごい大きなテーマだったから。で、小川さんは、映画は生きた結果なんだって言うからね、ああそれなら俺もやれるかなって思ったんですよ。僕は映画青年でもないし、映画で生きようなんて考えたこともなかったんですね。

飯塚 小川さんは、生きることがドキュメントで、生きた結果がドキュメンタリー、つまり映画になると言って、映画は生きた結果だから、人間のうんこみたいなものだ、という突き放した言い方をした。だから、映画至上主義じゃないんですよね。それがすごく納得がいって、ああ、この人とはやれるなって思って、でまあ三里塚シリーズはその感じはあったんですけど、75年に山形に移ってから、小川さんは豹変、まあ小川さんが豹変するっていうのもおかしいけども、小川さんが先祖帰りしたのかも知れないけど、小川さんっていうのは国学院大学の映研出身なので、映画大好き人間です。で、学生時代は映画の理論部だったから、土本典昭さんも、小川さんと理論的にやり取りしたら負けるっていうぐらい、小川さんはものすごく映画が好きだった。そのセンスがもう完全に戻りましたね、山形行ってから。山形で初めて助監督になったんですが、その撮影の初日に、どう生きるかは問題じゃなくて、映画屋になることだよと、言われた。ええっ!俺、映画屋になるために小川プロに入ったんじゃないのにって思ったけれども、遅いんですよ。もう10年もやってくると、逃れようがないんですよ、義理も出てきてるしね。これはもうしょうがないなって思って、結局、映画から離れられなくなったっていう・・・

映画は当時、16ミリで作ってましたから、集団で作るしか無い訳ですよね、フィルムの場合は。ひとりでは回せないですよ。セルフドキュメンタリーって先程言われたのは、ひとつは90年代にDVカメラが出てきて、ひとりで撮るということが非常に簡単にできるようになったことで始まった。まあ質のいい映像が撮れちゃいますからね、DV使えばね。だけど当時は、80年代までは、フィルムが中心でしたよね。ところが、原さんの面白いのは、それをセルフドキュメンタリーみたいな方法でやったんですよね、フィルムであるにも関わらず。

 16ミリカメラでやったんだからね。

飯塚 16ミリでバンバン撮って、まあ自分でフィルム詰めてやってた訳じゃないでしょうけれど、助手はひとりくらいつけてたんでしょうけど。でも監督であり、カメラマンでありね、あと録音はまあ誰かにやってもらわないと、録音はできないですね、それに今のDVカメラのように一緒に(画と音が)入る訳じゃないからね、でも方法として言えば、あの70年前後に、セルフドキュメンタリーの走りというか、あの先駆的なやり方をしてるんだけれども、ただ、やっぱり原さんの映画を観てると、その個人というのは、ものすごく社会的な存在としての個人だからね。今、セルフドキュメンタリーで描くのは社会的存在が希薄なんだよね。私はどこに帰属してるのみたいな、今言われたような、自分がなかなか見つからないから社会が見えない。ところが、原さんの映画ははっきり見えたんですよ。自分がこうなって、こうなってる原因は全部社会との関係の中にあるんだっていうことを、彼は言ってたんですよね。

渋谷 その代表作が「ゆきゆきて、神軍」ですよね。

飯塚 その前の「極私的エロス」が凄まじいんですよ。

<ぶつかり合う状況をつくる演出>

 いや、私こう見えてもほんとに子供の頃からですね、娯楽映画が好きだったんですよ。ほんとに物心ついた時、私のおふくろさんが映画が好きで、私を背負って映画館に入り浸った方なんですよ。で気がついたら、もうほんとに映画好きのガキとしてですね、色々観てたんですよ、それもアート系じゃないんですよね。ハリウッドとか日本の東映のチャンバラ、日活のアクションものとか、そういう映画を観て育ったんですよね。それでもちろん、自分が映画を作る、ドキュメンタリーを作るようになってからですね、ドキュメンタリーとはなにかということも、もちろん考えるんですが、つまり、ハリウッドの映画に負けないくらいの面白さを自分の映画に込めないと誰も観てくれないんじゃないかっていうふうに一生懸命考えていましたからね。だから「極私的エロス・恋歌1974」をやる時も、こんな個人的な男女の三角関係なんて映画、誰が観てくれるんだろうという不安がありまして、でもそれを打ち消すために、とにかくワンシーン、ワンシーン、どうすれば人が観て、おっ、すげえって言われるような映像になるんだろうということだけは考えていたんですよ。

やっぱりドキュメンタリーで面白いのは、撮る側と撮られる側がとにかく必死にこうぶつかり合うっていうシチュエーションが映像に力が込められる訳ですから、そういうシチュエーションを作るにはどうしたらいいか、その連続で考えていましたもんね。だから「極私的エロス」の場合は、ラストシーンは、武田美由紀は自力出産をしたいんだと、しかし自力出産をするまでの過程をいかに映画的に、スリリングに、面白くするにはどういうシーンを作ればいいか、で僕らの場合はハリウッドの映画と違って、ものとか仕掛けの面白さを見せる訳にはいかないので、ひたすら人間関係のあるぶつかり合いっていう状況をどう作っていくのかっていうことを考えながら、ひとつずつやってましたね。やっぱり"映画"を作るっていうふうに思ってやっていました。

渋谷 飯塚さんは、最初の作品が大成功で、いろいろな賞もいただいて、「小さな羽音 チョウセンアカシジミ蝶の舞う里」(92年)の時は何をまず考えたんですか。

<共同生活をしながら撮る>

飯塚 「小さな羽音」の時には、とにかく、蝶々の実態をよくわかるためには、蝶々の生きてる様を、そのまま一緒に体験しながら撮るしかないと。最初っからものがわかってて、シナリオを作って、こうこうこうこうここがポイントだというように、器用にまとめあげる力が無かったものですから、とにかくびしっとつき合おうと。だから、三月に卵からかえって、そして幼虫時代を過ごして、七月に羽化して、また卵を産んでっていう、このプロセスを、その蝶が生きている村に入って、共同生活しながら追いかけた。そしたらスタッフから、飯塚は全く小川プロと同じやり方してるねって。あんなに批判して小川プロ辞めて出てきたのにね。まあ唯一違うのはギャラを払われることだって。ギャラは払ったんですよね。まあこれは電通が絡みましたからね。ギャラはきちんと払えたんだけど。まあせいぜいギャラを払うことが小川さんとの違いでね、現場の作り方とか、スタッフワークとか、もう小川さんそっくりですわ。そこから始まりました。共同生活をしながら撮った訳ですけどもね、そして現場の動きに応じて映像を見つけ出し、そして構成をし、作っていくと。最終的なところでは、渋谷さんに編集で入っていただきましたけどね。だから、自分は、良きにつけ悪しきにつけ、小川さんとやっていた集団性みたいなものから離れられない。それもフィルムで始まったんで、そのことが必要だったんですよ。蝶の生きている環境をみせるには、もう35ミリ使ってでも、広い世界を捉える視点が必要だと。それから卵は、0.5ミリから1ミリないくらいですから、顕微鏡撮影が必要だと。カメラはたくさん使って、非常にこう科学的な部分から人間の話まで、全部捉えるような設定をした訳ですよね。

 だから、科学映画っていう言葉もあるし、ジャンルもありましたよね。今、科学映画っていうジャンルがちょっと力を失ってるような感じがあるけど。70年代80年代、まだ科学映画というジャンルがしっかり作られていて、だから僕らは、あの小川プロの映画、特にあの稲の実験をやるじゃない、模型を作って、霧を流して。あのタイトルは?

飯塚 あれは、「ニッポン国 古屋敷村」ね。

 ね。もろ科学映画のやり方だなあっていうふうに俺たちは観てたよね。あなたはそれを受け継いでるっていう感じで俺達には映るわね。

それでね、前から訊きたかったんだけど。今、とても気になることがあってね。つまり、ドキュメンタリーの理論というか、ドキュメンタリーをめぐる状況、まあ時代が変わっちゃったからドキュメンタリーの作り方も変わったっていう話なんだけれども、ずーっと変わってないものもあるよなっていう感じがあってね。それは何かって言ったら、人間の持ってる負の部分というの、つまり我々が、日本の社会が持ってるどうしようも無さっていうか、嫌な所っていうの、何か人の足を引っ張り合いしたりさ、やっぱり負の部分、なんとかしたいじゃんって思う部分がね、60年代70年代からずっと続いて、21世紀になった今でも、その部分は、ちっとも変わっとらんのじゃなかろうかっていう思いが実は自分の中にある訳よ。でその話をもう一回、60年代の小川プロの仕事、土本さんの仕事っていうふうに、その観点から見ていった時にね、俺はちょっと気になってることがずっとあって、それはどういうことかっていうと、まあ小川さん、三里塚に入って、山形に行って、つまり農民の人達、つまり農という社会に暮らしている人達と、そうとう深い付き合い方をしたはずだ。そうすると農という、農社会が持っている人間の嫌な面もたくさん恐らく見て、知ってるし、くぐり抜けてきたはずだ。で、俺が70年代の時に個と言いながら、何を一番、自分が取り組むべき課題として考えたかというと、その負の部分にこそ、向き合うべき課題があるに違いないんだと思ってた訳よ。で、小川プロの作品を観た時にね、小川さんはその農民達、農社会が持っている矛盾とか、負の部分とか、マイナスの部分を小川プロの作品は扱ってないんだよね。で、それは選択したんだと思うのね、負の部分を見るんじゃなくて、もっと別の部分を探してきたっていうか、小川さんは歴史的に縄文の、古くからの時代にまで一気に、想像力を飛躍させて映画を作ってきたと。

それはそれですごく面白いし、わくわくするんだけれども、選択して選ばなかった部分が、一体どういうことなんだろうって。
今、まさに俺が、個というものが力を失ってしまったというその思いと、その次に何と取り組まないといけないのかっていうことを考えてきた時に、その問題がもろ出てきちゃってる訳よね。

つまり、ひょんなところから三年前に水俣と関わり始めちゃったのよね。で俺は、その水俣は土本さんがやってた所なので、縄張り意識ってあるじゃん。だからこれは絶対、アンタッチャブルだと思ってたんだけども、どうもそういうふうにも言えなくなったんで、いつかあの土本さんの所へ仁義をきりに行かなくちゃと思いながら、とうとうきりそびれて、土本さん亡くなっちゃったんで、僕はそれがすごく今ちょっとひっかかってんだけど、まあそれは置いといてね。

それで、水俣へ三年間ずっと通っていて感じるところは、土本さんの日本のドキュメンタリー史に残る傑作としての水俣シリーズという映画は残った。で、水俣の公式確認五十年という、五十年周年記念事業が二年前にあった。しかしその中の実態っていうのは何にも変わってないっていうことを水俣へ行くと、あらゆる人が言うし、現実に、水俣はもっと深刻な事態が起こりつつあるのよね。

で、そういう問題が、日本の社会の何が変わったかというと、変わってないじゃんって、水俣も変わってないし、三里塚の農社会も変わってないっていう、一体これはどう考えればいいんだっていう問題意識が私にはあるんです。で、あなたは小川プロの申し子みたいなところで演出してた訳だから、何とか答えて欲しい。いや、責める訳じゃないんだけど。



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飯塚 三里塚で、小川さんが一番入れ込んだ村っていうのは、辺田部落。で「三里塚 辺田部落」っていう映画もできたしね。辺田部落に入って、ほんとに微に入り、細に入り、村の成り立ち、人間関係を調べ上げ、商売の仕入れが得意な人もいれば、人徳はあるけどそういうことには疎いとか、まあいろいろなタイプの人がいる所に、小川プロは深く入っていった。村の総会の場面が映画の中に出てくるんだけども、あれは恐らくね、今日は何語られるか、事前に全部わかってて、撮ってるんですよ。だからカメラはしゃべってない人にずーっとパンしていって、止まるとしゃべり出すとかね、そういう絶妙な瞬間が捉えられてるのはもう全て事前にわかってる、わかってるというのは仕掛けてるんですよね。そのくらい共同体に対して濃密なつき合い方をしている。その辺は、当時助監督だった福田克彦が中心となって、村と接触していった。後に福田が言っていたのは、映画「辺田部落」が共同体としての辺田部落の輝きが捉えられた最後で、あの後はどんどん共同体は崩壊して成立しなくなった。

 なってきたよね、うん。

飯塚 崩壊していったんだって彼は言う訳ですね。で、そこから彼の場合は共同体を撮るんじゃなくて、ひとりのおばあさんの、「草とり草紙」っていう、これもセルフドキュメンタリーっぽい・・

 っぽくね。どこかでは微妙に影響を受けていくから、よくわかるんだ、うん。

飯塚 やり方で彼はやる訳ですよね。だから、福田は小川プロの集団性と、小川プロの共同体賛美を、乗り越えようとしたと評価されました。小川さんが「辺田部落」を作った時に、これは片思いのラブレターだと言っていたけど、共同体が崩壊する予感っていうのはいっぱいあったはずなの。で、もうひとつの要素として言えば、条件派っていうのがいたの。辺田部落のようにひとつの村がこぞって反対するのではなく、条件さえ良ければ、土地を売っても良いという村があった。条件派は開拓部落に多く、戦後苦労を重ねた人たちだ。その条件派の人達の問題も掘り下げなきゃいけないねっていうことはよく言ってたけど、結局やり切れないままに、共同体が機能しているとこだけ撮った訳ですよ。共同体が崩壊していく部分っていうのは、撮ってはいたんだけど、まとめ切れない、まとまってこなかったのね。

 あのね、すごく微妙なんだけどね、撮ってはいたけど、やっぱり撮れたっていう実感が持てるようなのは、撮れていないんじゃなかろうか。

飯塚 あ、そうだろうね。小川さんが亡くなる直前に、福田さんがお見舞いに来て、福田さんが声かけたら、今度は、条件派を一緒にやろうなって言ったという。つまり、三里塚でやり残したことは、わかっていた訳ですよ。で、小川プロは三里塚から山形に映画の現場を移しました。山形はそういう意味じゃ、政治的な問題はあまり起こっていない場所で、だから、純粋に農の在り方とかに入っていけたんで、それで、現実の村の問題というよりは、その歴史性とか、農村の成り立ちとか、生命としての稲の輝きとか、そういうのにどんどんどんどん入ってって。映画としてのなんと言うか、美学的なものを満足させるようになっていく訳ですよ。だから、あれだけ三里塚で現実の、国家と農村がぶつかり合ってた問題にアプローチしてたのが、農村は自分の映画を作るための舞台であるというふうに、切り替えてきますね。でも、農村には負の部分が山積しています。

 そうだよね。うん、そう思う。

飯塚 最近、限界集落みたいな言葉がよく出てくるじゃないですか、官製用語でね。山村に行けば年寄りばっかりで、しかも戸数も少なくなってきて、ここはいつ無くなってしまうのかっていうところが、無数にあるしね。だから、そういう農村、農業が抱えている問題っていうのはいっぱいあるんだけれども、そういうところに対してのアプローチっていうのは、山形に移った段階でパッと辞めてしまっているんだよ。で今からどうなんだっていうと、僕はやっぱり農村、農業にはもう一回関わりながら映画作りをしていきたいって思ってるんです。なかなか、今、そういう機会無いけどもね。一方で、最近わかってきたのは、小川さんが映画屋になれって言った、あの言葉の意味がね。山形国際ドキュメンタリー映画祭に関わったりすると、世界中にドキュメンタリー作ってる若い人達が出てきてるじゃないですか。そういう人達との交流を見ていくと、DVが普及したことによって、中国やアジアの監督達もどんどん作り始めてるし、そういう人達と接触していくと、日本の現実を、伝える方法としての、ドキュメンタリーというのを、もういっぺん、やらないとね、中国からぼんぼん出てくる訳ですよ。長江のダムの問題も出てくる、長江だけじゃない、いろいろな問題が無数にあってね、ドーンという勢いで出てくる。で、中国でセルフドキュメンタリーなんて言ってる奴はあまりいないんだよ。

 いないんだよね、そう、うんうん。

飯塚 まあいないことは無いんだろうけど、都会にはいるんだろうけど、もう自分のことを問うよりも、社会問題が次々とドラスティックに動いていくから、どの現場に入るかが重要で、俺はここに行く、いや俺はこっち行くみたいに、活発に、やってるじゃないですか。で、そういうのがワーッと出てくると、力はあるし、問題点の深まりがすごい。山形でも、ここのところ、中国がずーっとひとつの大きな潮流を作ってますけどね。それに対しての、我々の日本のドキュメンタリーっていうのは、どうだろう。だけど日本はそんな良い社会になってない訳だから。よく、昔は良くて、今は非常にひどい世の中だっていうような言い方する人がいるけど、俺、全然そんなことない。昔、ものすごいひどかったからね。権力は強かったし、ひどかったよ。そりゃあ、今だって変わんないし、日本が良い社会になったことは一回もない、と言えると思うんですよね。だからそこの実態みたいなものを、もっと掘り下げていくってことはほんと、やらなくちゃいけないんだけど、まだまだ。

<三里塚から山形へ>

 掘り下げなくちゃいけないんだけどって思うよね。で、小川プロが山形行った時に、社会問題としての農村問題という方向を選ばなかったんだよね。

飯塚 山形行った時ね、うん。

 その選ばなかったという、つまり、今、飯塚さんの話をね、言葉を引用して言うと、より映画的にって、小川さんがそっちの方に行っちゃったんだよっていう話があるよね。でも、選ばなかったその、社会問題としての農村問題をだね、小川さんの口から、聞いたこと、当時、あったのかしら。それとも、スタッフの中からそっちの方向の、問題意識を深める必要はないんじゃないでしょうかっていう内部の意見があったのか無かったのかっていうことだけ、ちょっと訊いておきたい感じがあるんだけどさ。

飯塚 ひとつはね、山形へ移った時に、戦いの現場から離れたねということで、小川プロも小川さんも、そこで俳句でもやるのかなって批判されたことがあるんですよね。三里塚シリーズを作ってる間の小川さんの考え方というのは、ドキュメンタリーは現場で決まる、どの現場に入るかが重要だ。だから三里塚という空港建設に反対している農民の世界に入っていくのか、水俣の患者さん達の世界に入っていくのか、あるいは学生運動であったらば、東大に入っていくのか、日大に入っていくのか、早稲田に入っていくのか、それとも高崎経済大学か。でまあ小川さんの目のつけ方は全然誰も、全国の人がほとんど知らない高崎経済大学に入る訳ですよ。そこはものすごい孤立してるから、いうことで入っていく訳ですね。だからなんていうのかな、そういう現場の選び方で、ドキュメンタリーの善し悪しっていうのは70パーセント決まるって、よく言ってたの。つまり社会的な問題の矛盾の一番露出している所を、そういう所を選べばウワーッと吹き出すのは当たり前だから、そういう所に入るということは重要だと。ところが山形に移ってから変わったんですよ。変わったっていうのはね、カメラが入った所が現場なんだと。つまり、どういう現場に入るかじゃなくて、どこでも良いんだと、日本中どこでも良いんだと、カメラが入った所が映画の現場になる、という考え方でしたね。そこから映画は作れるんだというふうに言われて。僕なんかは違和感はあったけれども、ああそういうものかなあと、これがプロかなあとか思いつつ、ついて行った訳ですよね。まあ三里塚でなかなかできなかった、農の在り方みたいなことを勉強するやり方でね、ずーっと、それを撮りながら、また自分達で実際に稲を育てながらやっていく。だから科学映画みたいな手法もどんどん取り込みながらやっていく訳ですけどもね。で、その時に、社会問題っていうことを、スタッフの中で言い出した奴はいなかったね。で、特に「1000年刻みの日時計」になった時に、あれはお祭り映画になりましたよね。映画の祭なんだよ、あれは小川さんの映画祭やってんだなあって、そんな感じの映画になってる訳ですよ。「1000年刻みの日時計」ができた時に、かつて三里塚の映画を上映してくれた岩手だとか、秋田とか、元青年団の人たちをまわった。僕は学生の頃からよく岩手、秋田に行って、上映運動をやってたんですよ。で、若い二十代の青年と三里塚の映画を上映しながら、終わると一杯飲みながらワーッと話する。そうすると生き方論になる。俺達はこの村でどう生きて行ったらいいんだろう、三里塚のみんなはどうなんだ、で、こっちは聞きかじりの言葉だけど、三里塚ではこんなふうにしてるけど、どうなんでしょうかとかって、農民の生き方、学生の生き方を論じ合った人がいる訳ですよ、それがですね、「1000年刻み」をもっていったら、彼らは40代になって、今やもう村の中心ですわ。そして農協の幹部ですよね、そうすると、あんた方の映画観たけどね、どうして小川プロがこういう映画作ったか、つまり、村の歴史だとか、とうとうと千年刻みで流れてる時間とか、そういうものをどうして小川プロが描くに至ったか、自分はわかると。だけど俺の村が抱えている問題には何ひとつ響かないよって。どういう事を抱えてるのって言ったら、倒産だって。農民の倒産だって。それはどういうことかって言うと、農民も豊かになるために投資をして、それで新しい農業をやらなきゃだめだっていうふうに言って、それを指導していくのが農協なの。それでその幹部達は保障を出してみんなに金借りさせた訳よね、農協から一千万、二千万っていう。ここはトマトでやれとか、ここはきゅうりでやれとか、貸し出して。ところがうまくいかなくなったら、農協は農民を追い込む側に廻ってしまう。そうすると、三里塚の映画を上映していた頃、権力に対抗しながら自分達はどういう農村を作るのかみたいなことを考えてた奴が、農民を切り捨てる側に回ってる訳よね。つまり首を切らなきゃいけない。金を返せなければ農業を辞めろと、土地渡せと。農協としてはそういうふうに整理しなきゃならない。それを俺がやらなきゃならないところに来てるんだよ、と言う訳よね。この問題と、この映画と、こんなに離れていると言われた時、もう愕然としたね。愕然としたけれども、じゃあその問題に入っていくかといっても、すぐには入っていけなくて。

<水俣の現在>

 それはしかし、入っていこうとしても、映画になりにくいよね。じゃあそういう話をしてくれるかっていうと相手は取材拒否よね、強引に回したとしても、そういう作品を上映して欲しくない、上映拒否という憂き目に必ず遭うしね。で、実は水俣も似たような状況があってね、土本さんは水俣シリーズを正式に十何本撮っている。それで公式確認五十周年っていうのを二年前に終わった今、水俣に行くよね。そうすると、かつてあれだけ華やかに闘争した人達、条件派、一任派とかいうような人に、ちょっと話を訊き込んでいくと、陰口が飛び交うよね。あの中でも語り部っていう人が何人かいて、実はあの人の話はね、なんか自分の体験じゃなくて他人の話をいかにも自分のことのように話をしてる。だから、あの語り部の中身は問題があるとか。それから、三里塚もそうなんだろうけど、水俣も支援の人達が70年代から入り込んで、その人達が、もちろん闘争に幻滅して去った人もたくさんいる、だけど未だに根付いて、頑張っている人も何人かいる、その支援をする人達と患者さんとの間の信頼関係がある部分もあるけれども、どこか溝のある部分もあることはあると。それで総体として言うと、ぐじゃぐじゃしてるものは、70年代から依然として何も変わらずに残り続けている。70年代と違うのは、70年代の頃は、少なくともチッソという目に見える強大な敵があったから、一致団結という環境が作りやすかったけど、今それが無いから、足の引っ張り合いという嫌なその負の部分だけがね、こう水俣の底流に澱んでるっていう感じがしてならない訳ですよ。でそういうところ、カメラ持って、さあ何を撮りましょうってそういう部分に向けようにも、誰も口をつぐんで語らないし、突っ込もうとするともうポーンとはじき出されるし。

飯塚 そうだよね。

 ね、いろいろな団体が、いろいろな団体ごとのイデオロギーに沿って、裁判が今三つか四つか、行われてはいるよ。でもそれとても、土本さんがカメラを回した頃の勢いがあるようには思えない訳だよ。だけども何か、しかしやっぱりここでカメラを回すべきであるという、責任感と義務感だけはある訳よね。なんとかしなくちゃいけないっていう焦りはあっても、どうすればいいんだよ、これは。どうにかしてぶっ壊してやりたいんだけど、そう簡単に壊れるもんでもないから、撮り続けている訳だけどね。

<集団のエネルギーに力を貸す>

渋谷 そうすると、状況を作るってことが一種の演出とも言えるんですかね。

 えっーと、状況を作るという言葉でかなり近いと思うんですけど、もう少し別の言い方をするとね、エネルギーのある方向性。エネルギーがどっちかに必ず向いてるもんですから、ただそのエネルギーが、集団の場合、どっちに向いていいかわからない時もありますわね。そういう時にまあ映画監督が関わっていくと、この運動はやっぱりこっちの方向へ向くべきであるという、やっぱり映画監督としての直感と、それはその人の知的レベルに応じて、どこかでやっぱり見抜くんだと思うんですよ。で、そっちの方向にエネルギーを向くように、ひとりひとり、働きかけていくもんですよね。で、あの土本さんの水俣シリーズの中で初期の傑作と言われてるのが「患者さんとその世界」ですよね。この話は、実は土本さんが水俣へ入って、カメラを回し始めたまだ初期の頃ですね、まだあのチッソに対して患者さんが自分達の怒りを、ぶつけるというようなエネルギーがまだひとつ、方向としてまとまる前の頃ですよ。その頃にね、土本さんが一口株主運動をすでにやっていたある人を水俣に連れていったんだそうですよ。つまり、その人を患者さんと引き合わすことで、患者さんの中にチッソに対する自分達のエネルギーを向ける方法のヒントを教えられた訳ですよね。で、患者さん達の運動のエネルギーが収斂させられていくんですよね。そういうふうに仕掛けたのが土本さんっていう言い方は、できると思うんですよね。だから、ドキュメンタリーの演出論っていうのは、つまり個人なり、集団なりの、その方向性を、ある程度映画の作り手が、働きかけながら、ある方向へ力を貸していくのが、ドキュメンタリーの演出という作業の一番の要だろうっていう気がするんですよね。

小川プロだって、俺達のイメージからするとさ、特に三里塚なんか、小川さんを兄貴分のように、あるいは親父のように慕った非常に才能のある頭の良い学生の連中が集まって、小川さんを長にして、小川組みたいなね。そこで村の歴史とか、権力の分析とか理論的なことを、毎晩、戦わせる。そして、三里塚の青年達と酒酌み交わしながらひとつアジったんだと思うんですよね。アジるっていうのは僕は、決して悪いことだとは思ってないんですよ。つまりそういうふうに映画のスタッフの方が先行した理論的な、位置づけとか分析というようなことを、若い青年達に伝授していく。その結果として、三里塚農民、農村青年行動隊の連中が政治的に先鋭化していくってことが成立したんだと思うんですよね。だからむしろ、映画の作り手の方が、実際の運動になっている人よりも、理論的にはよく見えてるっていうことが非常によくあるんだろうなって気がするんですよね。

<ドキュメンタリーの限界>

 だから、ゴール地点が割と描きやすいと映画はできるけど、スタートの地点で、矛盾をかき分けかき分けえぐっていっても、人の心の弱さとか醜さっていう方向へ向いていくふうに、作り手も、撮られる側も意識しだすとね、もうやっぱりカメラは、回らないですよね。それはもうどうしようもなく、ドキュメンタリーの限界って気がしますね。だから昔、土本さんが暴力とセックスと、あともうひとつ、人が死ぬところは撮れないっている、三つ言ってたんだ、名言というか。で、私はその言葉に対してはどこかで反発して・・・反発ってそんな強いものじゃないですよ。セックスっていうけど、「極私的エロス」でセックスのシーンは撮ったしなあ、暴力シーンは、奥崎さんが暴力振るうし、あれも暴力のシーンだろうしと思いながらね。だけど撮れないものがあるとすれば、今私が言った人間の負の部分、がこう剥き出しになる部分は撮れないだろうから、それで土本さんのおっしゃったことは、だから劇映画の役割があるんだっていう、そっちの方が実は大切なんですけどね。ドキュメンタリーが撮れない部分はドラマの領域としてね、だからドラマがあるんだよと言われたその言葉が今でもはっきり覚えてるんですけど。だから負の部分なんていうのはやっぱりドキュメンタリーではなかなかね、無い訳じゃないんでしょうけど。とにかく一般的には非常に難しいですよね。それはもう劇映画の領域でやるしかないかなあっていう感じが私の中にはありますけどね。



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<セルフドキュメンタリー>

渋谷 セルフドキュメントっていうのについて、私はいささか疑問に思ってるところがあるんですけど。カメラが進化して、アマチュアの人が回してるのと、プロのドキュメンタリーの違いについて、どんなふうにお考えですか。

 時々冗談でですね、一家に一台ビデオカメラじゃなくて、一家にひとり映画監督がいる時代ですから、だからもうプロとしてって言い方があまり力を持ちませんよね。現に私も世間からは映画監督って言われてますが、今まで作ってきた大半は全部自主製作なんですよね。だから、時々自分で俺、プロかいなっていうふうに思ってしまいますもんね。プロっていうのは、他人様から金をもらって、つまり製作費とギャラをもらってやるのがプロの仕事だっていうイメージがあるもんですから。そういう言い方すれば、製作費は自分で借金背負って、ギャラも自分達の作品にギャラは無い訳ですから、俺プロじゃないじゃんって感じがあって。でもだからまあ、言ってみりゃあそんなことはどうでもいいと、作りたいものを作りゃあそれでいいんじゃないのっていうところですわね、はい。日本映画学校で、ドキュメンタリーのクラスの担任やってて、問題はね、自分の家に兄貴が引きこもってたり、自分自身が親から捨てられて親にこう復讐していくってことで、家族に喧嘩を売っていくという過程をカメラを廻して作品を作った学生がいると、まあ微妙にセルフといってもその状況によって作品のトーンっていうのは少しずつ変わるんですけども。その連中がね、それで作品ができて、ある一定程度評価される。この作品が持っている意味はねっていうことで評論家の人も、好意的なコメントをよこしてくれる。その彼が、卒業して、じゃあプロになっていくかといったら、残念ながら、これが弱いんですね。お前次どうするんだよ、いやあって、こんな感じですもんね。そのジレンマはありますけどね。

<ドキュメンタリー映画と生きる>

渋谷 では、最後のまとめで。自分がドキュメンタリーの監督っていうこと、自分に対して、どうお考えですか。

 やっぱり私は70年代の全共闘運動ということと、あの時代にほんとタイミングよく、同時代的に出会って、本当に良かったと思ってるんですよね。あの時にいかに生きるかということをですね。田舎から二十歳の時に東京に出てきて彼らの運動と出会って、とっても刺激を受けて、そのノリで一気に三十年も四十年も生きてきたという感じがあるんです。それでそのノリの中で素手では戦えないからカメラを、なんというかな、映画が好きで、途中ちょっと色んな人との出会いがあってドキュメンタリーのカメラを自分が持つようになって。これもほんとに良かったなと思って。だから基本はカメラを持つことでいかに生きて行くのかなっていうことをですね、これまでもやってきたんだし、死ぬまでたぶんそういうことをやって、生きて行くんだろうなという感じがあるんですね。素手だったらこうはいかなかったろうなという感じがしますね。それとまぁ、カメラがあったからなんとか正常に近いところで生きて来れた訳で、もし持ってなかったら、どこかで狂ってるのと違うやろうかという感じもあるんです。だからそういう最後まで、おそらく息引き取るところまでは同じようなノリで生きて行くのかなという感じがありますね。

渋谷 素晴らしいわね。飯塚さんはどうですか?

飯塚 僕の場合、学生時代から小川紳介さんと出会って二十年余りやってきて、その流れで映画監督になりましたんでね。とても強く小川さんへの反発があって、俺の人生違うのかなとか色々思ってたけど、なんかここまできてね、自分はやっぱりドキュメンタリーやっててよかったなと、で、今、原さんも言われたようなドキュメンタリーという方法で自分の生き方を、維持していきたいといところがある。それから僕なんかどちらかというと、ジャーナリスティックな視点がある方なんだけど、ドキュメンタリーとジャーナリズムの違いに気づかされたことがあった。縄文の映画を撮った時にね、ありとあらゆるマスコミが三内丸山遺跡にワッと集まってきた。僕らフィルムで撮ってた訳ですよね。その時に僕らが撮ってるのと同じような情報は全部、テレビで事前にバンバン流された訳ですよ。その上でフィルムで後から公開する自分は何を描けばいいんだってなった時、映画のドキュメンタリーとテレビは違うんだっていうことを確認した思いがあるんですよ。テレビはやっぱり情報処理なんですね。どこまでいっても情報処理なんですね。それに対して映画には世界があると、ここには、発掘の現場というひとつの世界があるんだっていうことを、まあテレビだってやれるはずなんだけど、だけどやっぱり映画のドキュメンタリーっていうのはそれをずーっとやってきた歴史であったということかな。だから、ドキュメンタリーの方法ってのはね、非常に豊かなものがあるし、面白いなあと。小川さんとの出会いによって、自分にプレゼントしてくれたんだなあって、今は思えるようになった。

渋谷 私は、大変抽象的なことで言わせていただきますけど、自分の作るドキュメントを観て、自分の見えない自分、自分の心臓の音と血液の流れとかいうのを自分の作ったものから見えてくるようなところがあります。76歳になりましたけど、生涯現役で、みなさんに助けてもらってやっていきたいと思っています。本日はどうもありがとうございました。

 

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    あとがき 諸般の事情があったとしても、かくも更新日の遅延したことをお詫びする。当初、ドキュメンタリーの創り手として、生まれも、育ちも、作品も違う、原、飯塚の両監督と私との鼎談を企画したが、同世代の二人の監督の対決にきりかえ、私は司会に徹した。三度の校正を通して、私とは異質な体質を痛感した。十人十色、違うのは当然のことながら、この仕事を通して、“私のドキュメンタリー映画について”の執筆の発表衝動が生れた。非常に刺戟的な仕事であった。                                渋谷昶子