このページの先頭です

特集

日本映画監督協会 会員名鑑

特集

2003年度新人賞

2004年06月20日

第44回2003年度日本映画監督協会新人賞対談

佐々部  清vs.金  守珍

(構成:篠藤 ゆり、DV取材:天野 裕充、工藤 雅典)



<『チルソクの夏』で今年の日本映画監督協会新人賞を受賞した佐々部 清監督と昨年度『夜を賭けて』で、同じく新人賞を受賞した金 守珍監督。次回作にも期待の高まる、二人の監督の対談が新作準備の忙しい合間をぬって実現。両監督の映画への真摯な思いを感じさせる、白熱した対談となった。>

03sin01.jpg佐々部 清ささべ・きよし/1958年、山口県出身。明治大学文学部演劇科を経て、1984年より映画及び、TVドラマの助監督となる。主に崔 洋一、和泉 聖治、杉田 成道、降旗 康男などの監督に師事。初監督作品は、2002年に公開された「陽はまた昇る」。2003年「半落ち」。2003年「チルソクの夏」で第44回日本映画監督協会新人賞を受賞。




03sin02.jpg金 守珍きむ・すじん/1954年、東京都出身。東海大学電子工学部卒業。蜷川スタジオを経て、唐十郎主宰「状況劇場」で役者として活躍。蜷川と唐という「アングラ・小劇場」の代表とも言うべき演出家から直接に指導を受けた。1987年、新宿梁山泊を創立。2000年は6月に「愛の乞食」「アリババ」のアトリエ公演を行った。演出以外にも広く演劇活動を行い、外部公演への出演、「家族シネマ」(98年)等の映画、NHK大河ドラマ、CM出演等、役者としても広く活躍している。2002年「夜を賭けて」で第43回日本映画監督協会新人賞受賞。


03sin03.jpg  2004年5月31日 監督協会にて 、左 金 守珍監督、右 佐々部 清監督



 このたびは日本映画監督協会・新人賞受賞、おめでとうございます。新人賞ということですが、佐々部監督は映画界の大ベテランですよね。

佐々部 チーフ助監督を10年やっていました。実はチーフになりたての頃、「撮らないか」という話が何本かあったんですけど、それをデビュー作に、という自分の中でのモーチベーションが高まらなかったんです。35㎜であれⅤシネマであれ、与えられる脚本を好きなように改訂させてもらえるのならやろうと思ったのですが、劇画が原作のものは原作者の力が強いのでダメだと言われてしまう。「だったら僕ではなくて、もっとスムーズに撮れる監督さんでやったほうがいいと思います」と、ずっと断り続けてきたんです。それぐらいだったら、たとえデビュー作が60歳になっても、「これが自分のデビュー作」だと腹を括れる作品がいいな、と思っていましたから。

 デビュー作品は『陽はまた昇る』で、2本目の公開作品が『半落ち』ですね。

佐々部 えぇ。でも撮ったのは、『半落ち』より『チルソクの夏』のほうが先でした。実は『チルソクの夏』の脚本は、12年前にすでに書いていたんです。それでいろいろな製作会社に行くたびに、プロデューサーに読んでもらって「これを撮らせてもらえないか」という話をしてきたんですが、「いい話だけど地味だ」「毒がない」と言われてしまう。一度テレビで、日本のアイドル女優と韓国のスターが出演するんだったらいいよ、と言われたこともありましたが、それでは自分が撮りたい世界観とまるっきり違ってしまいますから。無名でもいいから、走れて、跳べて、投げられる、ちゃんと陸上ができる様を撮りたかったものですから、お断りしました。

 あの4人の女子高校生たち、みんな、様になっていますよね。

佐々部 オーディションは芝居ではなくて、短パンとランニングで日本女子体育大学のグランドに集合させて、走る、跳ぶ、投げる能力で選んだんです。

 一人一人の動きや、ストップモーションになったときの映像を見て、本当に陸上ができる子たちなんだなと思いました。そういうベーシックな部分にリアリズムがあるから、あの青春ドラマが成立しているんだろうし。

佐々部 あの部分を嘘でやってしまうと、映画の世界観全部が嘘っぽくなる気がしましてね。ただただ、あの4人が走る様が、何かを伝える。そういう風に撮りたかったんです。

 僕はあの映画を観て、素直に感動しました。今の時代、こういう純情な映画というのは、なかなか撮れないですよね。

佐々部 ちょっと恥ずかしいんですけどね(笑)。

 あの映画を観て、3回、ウルウルきてしまって。というのも、僕自身、同じような経験がありますから。それに時代も、僕の若い頃と重なっている。だから、自分の青春ドラマを観ているような感じがあった。僕らが子供の頃には、まだ貧しさがあったと思うんです。あの映画では、ヒロインのお父さんが流しの歌手をやっていて、一家は長屋で暮らしている。隣近所、助け合いがあって。

佐々部 あの長屋で、僕、生まれたんですよ。

 えっ、そうなんですか?

佐々部 あそこで生まれて、7歳くらいまで育ったので、どうしてもあそこで撮りたかったんですよ。

 舞台となっている下関という街の特殊性も、あの映画の成立に大きくかかわっていますよね。あれだけ韓国に近くて、匂いを共有しあっているのに、庶民の間ではまだ抑圧が残っている。

佐々部 子供の頃、そのあたりの感覚が、不思議でしょうがなかったんです。キャッチボールする仲間にも野球する仲間にも、在日のヤツラがいっぱいいるのに、でも普通に会話して遊ぶことを、親の世代からは止められる。「遊んじゃいけない」とか言われて。まるで代々からの教えのように、そういうことが脈々と言われ続けていている。どうしても納得がいかなくて、それで高校時代、親父と取っ組み合いの喧嘩をしたことがあります。その親父が死んでしまって、お葬式を出しに下関に帰省したときに、映画にも登場する路地を歩いているうちに、この作品の企画をふっと思いついたんです。

 僕は東京生まれ東京育ちですが、意外と東京は差別がないんです。九州や山口というのは、なぜあれだけ差別感が強いのか。近親憎悪みたいなものもあるのかもしれませんが。松田 優作さんも在日のようですが、彼も下関出身ですね。

佐々部 僕が生まれた長屋から400メートルくらい離れたところが、松田 優作さんの実家です。

 僕が一番質問したかったのは、山本 譲二さん演じる流し、ヒロインのお父さんですね。彼が、娘が好きになった相手のことを、韓国人なのに最後まで「朝鮮人」と言い続ける。「韓国」には差別意識がなくても、「朝鮮人」という言葉には捻じ曲げられた歴史の産物が残っている。特にああいう頑固な下町みたいなところに一回根を下ろすと、解けない何かがあるのかなぁ、と。

佐々部 あれも子供の時の記憶ですが、「韓国人」とは言わないんですよね。やっぱり大人は、差別用語としての「朝鮮人」という言葉を使っていた。だから映画の中でも意識して、若い世代にはちゃんと「韓国」と言わせよう。山本譲二さんが演じる世代は、「韓国」と言われても、「チョウセン」と返す。小さなことかもしれませんが、僕が感じていたことは正直にやりたいな、と。

 ほんと、近い国なのに、男女間の恋愛も含めてなぜこんなに遠いのか。逆にそこから、ドラマが生まれるのかもしれない。

佐々部 友達にも、同級生にも、悲恋になってしまった人がいますし。親の反対にあったりとか。

 これは深読みなんですが、山本譲二さんが演じる父親は、隠れ在日ではないかなぁ、と。松田 優作さんもそれですごく苦しんだそうですが、大勢いるじゃないですか、下関には。在日と言ってもハーフで、お母さんが日本人で、親父がえぇ加減に来てえぇ加減に孕ませて行ってしまった、とか。近いから、余計、娘の恋愛に過剰反応してしまうんじゃないか、と。

佐々部 作り手としては、そこまで考えていなかったんですけどね。

 そういうことは、よくあるんですよ。自分に血が入っているから、逆に「絶対に朝鮮人はダメだ」と言うケースが。マルセ太郎さんという芸人は、済州島出身で日本に帰化して、ずっと朝鮮人から逃げていた。ところが晩年に、小栗康平監督の『泥の川』を見て目覚めて、「スクリーンのない映画館」という演目を始める。そこから自分のことを「チョソンサラム」と固有語で言うようになる。彼は1948年に起きた済州島での虐殺、いわゆる4・3事件から逃れて大阪に来たんです。だから過去を消したかったんですね。それで、ことさら「朝鮮人は嫌いだ」と言ってきたにもかかわらず、最後にはルーツに戻っていった。でも実際には、出自を明かせないまま、あるいは実の父に会えないまま、命を終えた人はいくらもいた。玄界灘を渦巻くそういう糸が、この映画にまで続いている気がします。ですから純愛を描いているんですけど、よくぞ今の時代にこの映画を撮っていただいたと監督に敬意を表したいし、在日を代表してとても嬉しいですね。

 

03sin04.jpg

 

佐々部 エキストラでも、下関の民団(在日韓国居留民団)の人たちにはすごくご協力いただきましたが、はたして映画を観てもらった時どんな印象を受けるのか、ちょっと心配だったりもしたんです。でも、観てくださった方が、いっぱい応援してくださって。僕は、どちらがどうという目線では撮らないようにと思っていたんです。ある種の平等感を大事にしたいというか、こっちがいたたまれなくなるとか、こっちが優位になるとか、そういう描き方だけはしないよう心がけていたつもりです。

 またあの4人の友情が見事に描かれていますよね。ティーンエージャーの女の子たちの立場に、監督が入っている(笑)。

佐々部 「今日からよろしくお願いします」といきなり撮影に入る自信がなかったし、町の空気を吸わせたかったので、クランクインする前に2週間、合宿しました。寝食を共にして、朝、一緒にウォーキングして、一緒に陸上の練習をして、午後は一緒に芝居作りというか、ピンクレディーの振りをやったりしているうちに、4人の間に一体感が生まれていった。インする頃には、2年間共に陸上部で過ごした顔になったな、と。

 女どうしの友情って、どこか嘘っぽい気がしていたんですよ。女って、結婚したり、環境が変わると、新しく出発してしまうじゃないですか。男はセンチメンタルに過去をずっと引きずっているけど。でもあの4人の友情は、観ていて最後まで信じられる。在日の問題も含めて、ちょっとずれてしまうと嘘っぽくなりかねないことを、かろうじてスレスレでやられている。そのあたり、そうとう計算されたんだろうなと思います。

佐々部 殺人や大きな事件が起きたり、という話ではないので、どうやって感動をつなげるかなと考えた時、自分が観る側になる場合はリアリティのあるものというか本物を観せられると感動を抱けるので、極力嘘っぽいものを排除しようと。そうしたら、ああいう映画になったんです。

 照れちゃうようなことも、思い切ってやっていますよね。バルコニーで、ロミオとジュリエットなんだぞって見せられちゃうと、この後、どこに行くのかなと思ったりもしましたけど(笑)。

佐々部 ハハハハ。自分の中でもかなり勇気が必要だったし、あのバルコニーのシーンは、助監督やプロデューサーからも「マジでこのシーン撮るの?」と言われました。でも、照れずにやってみよう。うまくいかなかったら、何か考えるから、腹括ってみよう、と。

 ファーストキスのシーンも、なかなかしない、じりじりするような感じがいい。それもブチューッっとやるんじゃなくて、羽で触ったような淡いキスだから感動がある。最近は、映画の作り手が、どんどん過激に、過激にという方向になっていることに対して、戒めもある感じがしました。素直に受け取って、素直に感動する。それでいいじゃないか、と。

佐々部 僕は逆に『夜を賭けて』を見させていただいて......10何年前に金 守珍さんが役者として映画に出られた時、僕は助監督として衣装合わせに立ち会ったことがあって、その時とても穏やかな方だという印象を持っていたんですよ。

 アハハハハ。

佐々部 それなのに、あの映画はいつもみんなが怒りや憤りを抱いていて、ものすごいテンションとエネルギーで2時間見せてくれる。「えっ? あの時の金 守珍さんとは違う人なのかな」と思ったりしたんです。力強い映画で、どんどん迫ってくるものがあって。

 昨年の新人賞の選考過程でも賛否両論で、ずいぶん怒られもしました。「もっと抑えなくちゃ」って。でもあの映画は、第2部を撮って完結するんです。第1部は群集劇で、第2部は義夫と初子の純愛、やはりロミオとジュリエットなんですよ。そういう意味では、すごく参考になりました(笑)。陰と陽で、第1部は派手に陽をやったけど、第2部はセンチメンタルな部分を大事にしたい。

佐々部 でもきっと抑えた中にも、パッションやエネルギーが感じられる作品になるんでしょうね。

原風景からの出発

 日本と朝鮮半島は、古代には仲がよかったのに、歴史の中で引き裂かれていったわけです。でも個人個人、人間一人ひとりが、再び両地域をつなぎ始めた。そのなかで監督はこういう映画を撮りながら、日韓の未来をどう考えているのか、伺いたいのですが。

佐々部 僕が子供の頃、若い頃に比べると、はるかに溝は浅くなっていると思います。でも、おそらく僕が生きている間には、まったく平らにはなりえないでしょうね。ああいう映画を作ることで、少しでも溝を浅くすることができればいいなとは思いますが、あの映画を撮る時に、日韓のことをもっとみんな考えようよとか、手をつなごうよとか、そういう映画を撮るつもりはありませんでした。たまたま下関という舞台を選び、韓国の男の子と日本の女の子の物語を描く時、きれいごとでやってしまうと、僕の原点に辿りつけない。つまり映画が嘘っぽくなってしまう。自分が18歳まであの町で育って、いろいろ感じていたことを、正直に照れずに全部抽出して映画にしてみよう。そこで叩かれようが、褒められようが、それは全部自分が受け止めればいい。ただ、それだけだったんです。

 下関という土地が、監督の出発点だったし、映像表現の上でも温めてきたんですね。

佐々部 大ッ嫌いな町で、早く東京に出ていきたかった。

 ハハハハ。

佐々部 ATGの映画は観られないし、福岡まで行ったらやっと新しいロードショーが観られるぐらいで。とにかく早く東京に行きたかったから、東京の大学しか受けなかったし、助監督になっても滅多に帰省しなかった。ところがチーフ助監督になって、ロケ場所を探す段になると、故郷に似た長屋の路地とか階段とか、ついそういうところを探してしまう。それで親父の葬式のとき、30年たっても風景が変わっていなかったので、「俺が撮りたいのは本当はこれかな」と思って。大嫌いだった町を、なんでデビュー作に選んだのか、よく分からないんですが、それがきっと僕の原風景なのかなと思います。それを撮らないと、次に行けそうもない気がしたので、早く『チルソクの夏』を撮りたかった。

 自分のことを言わせていただくと、『夜を賭けて』も、まったく同じようなことなんです。僕のまわりは色濃くああいう大人たちがいて、元気で、汗ばんでいて、年がら年中喧嘩ばかりしている。そのエネルギーは何なのか。また、日本から見果てぬ故国・北朝鮮に向かった人が、9万3千人もいる。僕のまわりでも、友人が1人抜け、2人抜け、朝鮮高校時代の級友は半分ぐらいいなくなった。帰国したクラスメイトの半分は、向こうで消息不明です。そういうことも含めて、『夜を賭けて』は、第2部で大村収容所を描かないと完結しない。そういう「こだわり」というのは、必要ですよね。

佐々部 そうですね。それを、恥ずかしいからといって全部隠しだすと――映画というのはしょせん作り物ではあるけれど、その嘘事を見せて人の気持ちを動かすには、ぎりぎりのところで自分をさらけださないと、なかなか人の気持ちは掴めないのではないかと、ずっと思ってきたんです。

 

03sin05.jpg 下関から抜け出したくて、でも戻ってきたらやっぱり故郷を描きたくて、作品を生み出すことで心の垣根のようなものを乗り越えた。撮り終えて、そのすがすがしさはあるんでしょうか。

佐々部 あの映画を撮ったことで、次は自分が入り込めさえすれば、どんな作品でも撮りたいなと思っていたんです。ところが不思議なことに、この7月にクランクインする次の『カーテンコール』という映画も、下関が舞台になってしまいました。それで終わりにしたいな、とは思っているんですか。『チルソクの夏』は、お金を下関から出させるのはイヤだったので全額東京で作りましたが、エキストラがトータルで2300人くらい出ている。25万都市で2300人ですから、約100人に1人の市民があの映画に参加してくれて、全部手弁当でノーギャラです。それなのに、今の下関を撮っていない。それでもあれだけ一生懸命やってくれて、今度の七夕の日にも、「チルソクの夏応援団」という人たちが一番大きなホールを押さえて、上映会をやろうと言ってくださった。だったら、今の下関の様をちゃんと撮った映画を創らないと、なんか心が落ち着かない気がして。それで、『カーテンコール』は古い小さな映画館の話で、もともとは大阪が舞台だったんですけど、下関に変えたんです。『チルソクの夏』でもらった恩に対して、僕なりのけじめをつけたいなと思って。

 今、韓国映画も元気があるじゃないですか。ドラマまで日本に進出している。『冬のソナタ』とか(笑)。あれって僕らが昔見ていたメロドラマですよね。

佐々部 「赤いシリーズ」ですよね、百恵ちゃんの。

 なんで日本人が、あそこまで恋焦がれるのか。日本と朝鮮半島は、離れても戻ってくる。そういう関係が、千年を超える時間の中で続いているんですね。悪いことも戻ってくるし、いいことも戻ってくる。そういうなかで、確実に未来に向かって進んでいるなというのが、この映画を通して感じたことだし、やっぱり時代が変わったんだなと思います。でも、まだ本名を使えないで生きている在日が大勢います。『夜を賭けて』の時、4800人オーディションしましたが、オーディションで本名宣言する人が大勢いた。4800のうち700人くらいが在日でしたが、本名を使っているのはほんの1割で、あとはみんな通名ですから。その事実に、愕然としました。さきほど監督が、まったく平らにはならないとおっしゃいましたが、まさにその通りです。芸能人も、韓国から来た人は韓国名を使っていいけど、在日は出自を隠す。僕みたいに本名でやっていると、反日感情を持っているじゃないかという誤解がついてまわる。まだまだ、そういう状況です。この映画は、まったく政治的ではなく、一人の人間どうしとしてお互いに認められるという、いわばレッテル剥がしですよね。これからは佐々部さんには、韓国映画界でも活躍してほしいな、という気がします。

佐々部 とりあえず『チルソクの夏』を韓国で公開したいと思います。釜山映画祭で上映した時も、感触はよかったですし。

 これからは日本と韓国で一緒に映画を作っていったほうが、アジアのエネルギーが醸し出されると思うんですよ。

佐々部 『カーテンコール』も、最初は日本だけの話だったんですが、せっかく作るのならグローバルにしたいなと思って、シチュエーションを在日の親子に変えて、済州島ロケに行くことになりました。それも下関という土壌には、合わなくもないし、もう1回ちゃんとそういうことを描きたい。本名に誇りを持とう、という話も登場します。日本映画の古い作品と、その親子をうまくリンクさせたいな、と思っています。

 また、涙があふれる映画になりそうだ(笑)。在日として本当に、「感謝する」という言葉しかない。監督との出会いも、『チルソクの夏』という映画も。今日は生意気にもこんな場に出てきましたが、僕の場合、畑違いだからできたこともあるかもしれないけれど、これからもし映画を撮り続けるのなら、映像表現の文体をもっと勉強しなくてはいけない。監督からもいろいろご指導いただきたいので、よろしくお願いたいします。

<対談を終えて――金 守珍>
あんな純情で爽やかな青春映画を撮る監督なのだから、きっと線の細い優男が登場するものと思っていたら、髪が短くていかつい体つきの武闘派風の方が現れたので、少々びっくりした。聞けば映画の世界で、長いこと荒波をくぐりぬけた方だという。そうか、現場の修羅をさんざん踏んで、あの穏やかさと優しさにたどりついたのかと、腑に落ちる気がした。本人も対談の中で、「監督になってから丸くなったと言われるんですよ」とおっしゃっていたが......。同時に、この年齢までみずみずしさを失わずにこられたことに、正直、敬意を表したいとも思った。

「チルソクの夏」を観て、純情な青春群像を素直に受け入れて、素直に感動している自分がいる。この作品は、殺伐とした現代社会の中で、基本的かつ根本的な心のあり方みたいなもの――そういう言い方は気恥ずかしいのだが――を感じさせてくれる映画だ。人間というのは、20年、30年、あるいは100年経っても、男女の機微や民族の問題も含めて変わらないものがあるし、それでいて一人ひとりの人間どうしのつながりはいつも新鮮だと思う。この映画を観て、改めてそのことを実感させられたし、映画というもののすばらしさを素直に感じることができた。

離れたいけれど、離れられない。回遊魚のごとく、戻ってしまう。監督の話を伺って、そんな故郷があるということを、僕は羨ましく思った。在日2世の僕は、ふるさとがない根無し草だ。自分が生まれたこの国を、どうふるさとにするのか。その葛藤とあがきが、芝居に向かっていく原動力となったし、1世たちを描いた梁石日さんの小説「夜を賭けて」を映画化したいという思いへもつながっていった。  人はなぜ、ふるさとを捨てるのか。新しく出会うためなのか。しかし、離れてもいつかそこに戻っていくことに、安心感があるはずだ。親に対しても、若い頃は反発しても、親が年をとれば感謝の気持ちが生まれてくる。佐々部監督は若い頃、一日も早く故郷を出たかったと言うが、否定というのは一種の愛情過多なのだと思う。否定すべきふるさとがあることが、そして作品を作ることでそれを乗り越え、次のところに行ける監督が羨ましい。

日本と韓国も、わだかまりやお互いに否定があるけれど、いずれ戻るだろうという希望を僕は持っている。この映画も、そのことを予感させてくれる作品だった。
対談を終えて、僕は『チルソクの夏』を観た後と同じようなすがすがしさを感じた。この出会いを、これからも大事にしていきたいと思う。

 取材協力:クルージン 秋元 けい子