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トークセッション「撮影所の流儀・日活篇」【4】

   

斉藤: 澤田さんは監督昇進を断ったって話がありますが。

澤田: 断ってないよ。断ったのは会社が持ってきた企画があるんだよ。バスガイドの生態内幕物だった。那波さんに「これは撮れません」と言ったんだよ。それはどうしてかというと、俺は渡(哲也)さんで撮りたいモノがあったんだよ。当時のアウトローものは組長、大幹部が主流になってて、俺はもっと若い組員、鉄砲玉をやりたかった。

ある日、新聞の記事に、 鉄砲玉が標的にしている縄張に行ってハネルんだよ。あげくの果て殺される。それをきっかけに、殺された縄張に行って盛大な葬式をして威嚇し乗っ取っていくという記事があった。そのプロットを渡したら、しばらくして那波さんが脚本にしていいって言ってくれて。これまた破格なんだけど、助監督は選べって言ってくれたので、蔵原(惟二)、伊地智(啓)、岡田(裕)と選んだんだよ。その後、三人ともみんな社長になって、俺は、見る目があったんだよ(笑)。


斉藤: 当時の若手俳優で歯ごたえのあるアウトロー映画を撮られてた澤田さんや長谷部さんたちを「日活ニューアクション」、東映ヤクザでは深作欣二さん中島貞夫さんなんかが「企業内抵抗監督」と称せられていたんですが、言われてたご本人たちはどれくらい意識してたんですか?


長谷部: それ知らない。企業内抵抗ってどういう意味? 企画のこと?

金子: 会社のお仕着せ映画の中に自分の抵抗した跡を残すみたいな感じです。平たく言えば、深作さんだと、ヤクザの抗争物なのに最後に国会議事堂を写すとか、そういう感じです。

澤田: 自分たちの中に「日活ニューアクション」という意識はなかったけど、ただね、俳優が使えなくなったんだよ。渡さんでさえもう使えなかったから。ニューフェースも採ってこなかったしね。スターがいなくなってた。それで二本目の時なんか誰かいないかって、俳優座に原田(芳雄)さんに会いに行ったんだよ。

長谷部: あの頃ともかく言われたのは、東映を見習えだったでしょ。

澤田: そうそう。

長谷部: 要するに東映調でやれって会社側の考えがあったわけですね。なにしろあちらは当たりに当ってるわけだから。だけど、考えてみるとこちらには鶴田浩二はいないわけだよ。高倉健はいない、藤純子はいない。誰もいないわけだよ。だから、梶芽衣子とか藤竜也にならざるをえない。それでなにが出来るかというと、ああいう形にならざるを得なかったんじゃないかな。

澤田: それと他がやってなかったから、青春映画とはいわないけど、撮りたかったよね、若い奴の映画を。

斉藤: 長谷部さんの『縄張はもらった』は、向かいのステージにキャメラを構えて望遠で毎日撮ってたって、結構無茶やってますよね。本番になると本館前の通りを通行禁止にしたりして。

長谷部: これも怒られましたよ。

NK_a_8.jpg澤田: でもやらしてくれたんだよね。やっちゃったのか?

長谷部: そう言う意味では、あんまり製作体制がしっかりしてなかったんだろうね。ルーズというか、向こうにスキがあったんじゃないかな。

澤田: ということは、製作が許したんじゃない、製作体制が変わったりして。変わるとさ、自分なりに新しい物に挑戦させてもいいやってあったじゃないスか。

斉藤: 僕が入った時は、撮影所も売却してそれでポルノで開き直ったら調子いいぞってこともあったから、やたら自由な感じは日活にはありましたよね。

すずき: 普通の会社じゃとても考えられないんだけど、入ったばかりでわけ分かんないから製作部長の椅子じゃなくて机の方に腰掛けて打ち合わせをやっていたら製作部長が来て、「悪いな、すずき、仕事するから、そこちょっと空けてくれ」って。普通そんなこと言わないですよね。そういうことやること自体が非常識なんですけどね。それに、そんな非常識な奴を入れてくれるし、割とリベラルというかね。

武田: 松竹とか大映とかは大監督がいたけど、日活は青春の会社っていうかね、秋山(みよ)さんが来るまでは(斎藤)武市さんが持ち込んた松竹スタイルで助監督が記録のシートをとってたんだもん。日活の演出は、松竹流を若さで磨いていったというかさ。

長谷部: 松竹に行けば小津さんの部屋があったわけでしょ。聞けば、囲炉裏があってお茶たててたって言うじゃない。日活の監督室なんて窓から出入りしてたくらいだからね。食堂の前の芝生に座って打ち合わせをしてたりさ。そういう意味での伝統というのはなかったよね。それで大スターも片岡知恵蔵、市川歌右衛門っていう人がいないわけだからさ、それこそ大スターは裕次郎だからね、よう裕ちゃんってもんだからね。

金子: 日活は専属だから、担当のマネージャなんていないですよね。俳優さんとかも現場には一人で来られたんですか。

長谷部: 好きなヤツがお付きでついていたけどな、お付きといっても取り巻きだよ。

澤田: 裕次郎派と旭派があったんだよね、技闘部が。

武田: それも最初の頃はまったくそんなのなかったからね。だんだん1年2年と経つうちにそういう形が出来てったんだよ。でも、年も同じぐらいだから、わだかまりというのはなかったね。どちらかというと仲間って感じだった。時代劇も撮っていたから、大映とかから年取った俳優さんが来ると偉そうなこと言うけども、日活は若いからそういう人たちも自然と溶けこんでたよ。いつのまにか若返っちゃんだよ。俳優もやりよかったんじゃないかな。

中田: 他の撮影所だと、知恵蔵さんとか歌右衛門さんとか撮る時に、特に紹介カットとかアップ頂きますっていう、そういうスターを持ちあげるというのはなかったんですか。

長谷部: よくカット数あわせるとか尺あわせるとか、そういう話聞いたことあったけど、そういう感じは全然なかったですよね。

澤田: でも、大事には扱ってたよね。

金子: 女優さんの派閥はなかったんですか、ルリ子派とか小百合派とか。

武田: 大部屋の俳優さんは自然とそうなってたよね。

澤田: 小百合さんは当時の俳優さんたちが「百合の会」を作って定期的に懇談会を開いている。浅丘さんはないでしょ。

斉藤: 浅丘さんもあるみたいですよ、芦川いづみさんとか笹森礼子さんとか、舞台をやるとみなさん必ず集まられてるとか聞いています。

長谷部: でも、助監督室だって、主流派と傍流派があったんだからさ(笑)。

斉藤: 同じ釜のメシを食えば、そりゃ集まっちゃいますよね(笑)。

澤田: 二幸で仕入れたおいしい手作りの飯だからね、俺たちのは(笑)。


NK_b_8.jpg映画監督は騎馬民族の将である。

斉藤: 撮影所にいくつかの名言がありますよね。例えば清順さんだと、「メインポジションには戻るな」とか「2行面白いセリフがあれば撮る」とか。澤田さんも中央評論の特集『映画・映像と私』の中で、「映画監督は騎馬民族の将である」という蔵原惟繕監督の言葉を引用されてますよね。実にいい台詞なんですが、あの言葉はいつ聞かれたんですか。


澤田: 蔵原さんが亡くなって、「故蔵原惟繕監督を送る会」で追悼ビデオを作ってそれを会場で流そうということになった。それを俺と蔵原が作ることになって、蔵さんがいろんな材料を持ってきてくれた。その内のテレビ・インタビューの中で「映画監督は騎馬民族の将である」という一言があって、これだって抜き出したんだ。

斉藤: それは『南極物語』とかの時のインタビューなんですか。

澤田: 某カメラマンとの対談です。──それにしても「騎馬民族の将である」っていい言葉だよね。孤独感とさ胆力というの、知力、体力、決断力、監督のすべてがつまっている感じがする。

中田: 何かグッと感じさせるものがありますね。

すずき: 僕は澤田さんの監督している時に言った言葉でよく覚えてるのがあるんですよ。「プロの監督というのは、与えられたものの中でそれをちゃんとこなしてやっていくのがプロだ」って言われたのを覚えてますよ。

澤田: そんなこと言った?

すずき: つまり、例えば曽根中生さんっていうのは当時ロマンポルノが13日14日の撮影なのに17日になる18日になるってのを平気でやってた。プロの職人というのは、そういうのじゃいけないんだという意味だと俺は思ったんですよね。

斉藤: 日数を守るのは撮影所の基本中の基本だよね。という俺も、結構守ってなかったんだけどね。でも、基本だよね。

澤田: 人間関係の約束を守る、当時の那波さんだとか、監督にしてみれば大事な人がいるからね、守るべきは守るんだよね。でも、俺も結構破ってるけどね。破れちゃうんだよね、一生懸命やると。考え方は正しいんだけどね。(一同、爆笑)

斉藤: 長谷部さんは意外と破らないですよね。

長谷部: 僕は破ったことはあんまりない。最初の1本目はね、予算オーバーだとかいろいろ言われたけどね、そんなでもないんだよ、実は。要するに残業料がついたのはあのシャシンからなんだよ。それまで助監督というのは手当だったんだよね。専属契約だったんだ。それがみんな社員になって、残業料になったんだよ。斉藤光正がチーフについて、僕のギャラが監督になりたてってことで20万だったかな、だけど撮影は12月と1月だったんだけどその二ヶ月の残業料あわせると、光正の方は30万か40万になっちゃうんだよ。だから、そういう狭間だったんだよね。

斉藤: 今の長谷部さんの話を聞いてて、この間根岸がぼやいているのを思い出しましたよ。映画化に2年とか3年とかかかってたらチーフ助監督のギャラの方が監督よりはるかに高くなる、イヤになるって。──それで日活に話を戻すと、俺たちの時は給料がいつ出るかも分からない遅配の時代で、初任給をいくら貰ったかも覚えてないです。金子さんの時もそうだよね。中田さんは違う?

中田: 僕が入った時は不動産事業とかが稼いでいたいわゆるバブル期なのでちゃんとしてました。それで倒産寸前にゴタゴタがあったらしいんですけど、その時は文化庁の留学制度で僕は外国に行ってたんで、直接分からないです。自分の時は給料がどうしたってのはなかった気がします。

斉藤: ある年、所長から監督からそれこそトンカチ持った大道具さんまで、全社員の年俸が公表されたの、覚えてない? ──それは組合がやったことなんだけど、もちろん一番撮っていた(西村)昭五郎さんがトップになってて、監督のギャラを抑えようって狙いもあったと思うけど、あんなに撮っている監督や偉い所長でもこれだけ安いんだから貧乏に耐えろって。

金子: まさに共産主義ですね。不公平をなくそうって。(一同、大爆笑)

すずき: 僕らの前じゃないですか。僕らの時は給料は一律で何もつかない、基本は残業はしない時代です。びっくりしましたよ、撮影所に入ったのに、9時に始まってどんなことがあっても5時でぴったりと終わりましたから。普通のサラリーマンよりよっぽど楽ちんだし、仕事をしてないヤツでも給料日に給料を貰いに来てへんてこなところで平等だし、まさに組合の会社でしたね。

斉藤: 残業をやっちゃいけない時期は、スケジュールをやっているチーフが大変だったんだよね。ワンカット残しなんて最悪じゃないですか。それで、なんとか終わらせようとスタッフ集めてなんとか撮り切ろうと口説くんだけど、誰かが一言ダメだというと何があっても切るしかなくって。ロケの出発時間も、スタッフに相談して決めないといけなかった時期ですね。

澤田: ロマンポルノの時にそれあった?

斉藤: 澤田さんも長谷部さんも'75年は撮ってないから、経験してないかも知れないですね。割と早くそれはなくなったんです。いくらライティングをまんまにしてても俳優もスタッフも気持ちの方がすぐには前日のところまで上がっていかないんで、定時に切ると効率が悪いと分かってすぐにやめたんですよ。

金子: 『高校大パニック』の時は撮りまくってましたよ、澤田さん。残業やりまくってました。

すずき: でも、武田さんは僕が9時5時でやっている時についてますから、やってるはずです。

斉藤: 武田さん、絶対に「何で終わるんだ」って言ってるはずだよ。「どうしてこんなところで切るんだ」って製作部で顔真っ赤にして絶対怒鳴ってますよ(笑)。

 

NK_a_9.jpg: 9時開始だと9時にセットインする日活の習慣というのは前からだったんですか。 小原宏裕監督なんかは9時の放送が流れるまで食堂でお茶を飲んでるんですけど、東宝なんかに行くと9時開始って言ったら9時にヨーイスタートなんです。9時にスタッフが入るって日活で育ってきたから、今でもスケジュールで明日の予定が9時開始だと言われると、助監督にどういう積もりだって聞くんです。そうすると、9時にテスト開始だと答えが返ってくるんですけど、わりとそれが常識らしいんですよ。

長谷部: 日活はこれも特殊でね、組の部屋がないんだよ。組の部屋があるとみんなそこに戻るでしょ。日活はそれがないから助監督は助監督室に帰る、照明部は照明部に帰る、ぱっと散るんだよ。他所ではマキノ組とか小津組とか組の部屋があるよね、だから、朝、照明部が動きだすと他のパートもスタッフルームでごろごろしてられない。放送、いらないんだよ。

金子: 若いスタッフに笑い話として、日活では9時になると助監督がマイクでセットを開始しますと放送したんだと言うと、え~そんなことがあったんですかとウケルんですよ。

中田: 僕も確かに東映で那須組とか澤井組とかやった時に、初めて9時開始だけど助監督は確実に7時半には来てろよと言われてちょっとショックを覚えたのを覚えがあるから、9時にぴしっとヨーイスタートがかかる体制じゃなかったですね。

澤田: 俺たちの時は、9時開始だから9時に入るってことはなかったね。照明部は早くにメインのスイッチ入れててね。でも、監督車(注18)は9時めがけて入って来ていたから、9時テスト開始じゃなかったのかな...。

(注18:当時は、監督の自宅まで撮影所からお迎えの車が出ていた。)

中田: それと、先程の長谷部さんがおっしゃった部屋の話でいいなって思ったのは、僕らの時は今の本館の向かいにプレハブの助監督室がありまして、狭い部屋だったんですけど複数の組が一緒にやってることがあって、こちらは黒澤直輔組で準備してて同時に池田敏春組が撮影してて、たいてい併映作なんで、色の付いた雨を降らせるみたいなちょっと似たようなシーンがあると、向こうがこういう雨を降らせるならこっちはこうしてみようなんていい意味でライバル心が剥き出しになって、偵察に行ってこいとか、そういうのが懐かしいっていうだけじゃなくて、切磋琢磨という意味でいいなと思ってました。確かに東映に行くと完全に組ごとに別れてますから、そういうものがないですね。

 

金子: ロマンポルノはセットも共有してましたね。

長谷部: 同じステージの中で向こうもヨーイハイ、こっちもヨーイハイ。あれはびっくりしたな。

澤田: あっちから先に「本番」なんて声がかかって、テストをやめて黙って聞いると変な気持ちになって、ヨシこっちも頑張ろうぜ、みたいになるのな。

金子: 助監督の時はあれが普通だと思ってました、同じセットに違う組が入るのが。

長谷部: セットは基本的にシンクロだったからね、普通はないよ。

澤田: いや、アフレコだったよ、あの時も。アフレコだよな。

斉藤: どの時代の話をしてるんですか。長谷部さんと違う時代の話になってますよ(笑)。

長谷部: ロマンポルノになったからアフレコになったんでしょ。アフレコになったから同じステージで出来るわけだよ。それを言ってるんだよ。

澤田: そうそう。その前はシンクロだったんだよ。でもね、俺は2本目の『反逆のメロディー』からアフレコやっちゃったんだよ。(山崎)善弘さんが手持ちだったから。ミッチェルだと動けないでしょ。だからカメラをカメフレックスにしちゃったんだよ。

長谷部: それは特殊なんだよ。

澤田: そうか、俺が特殊だったのか(笑)。


中田: 小沼さん世代はなかなか監督になれなくて、ロマンポルノになって「やった、撮れる」ってことでかなり初期から監督されてるんですが、以前から撮っていた上の人たちはロマンポルノやる、やらないで大きく二手に別れたんですか。


澤田: (日活を)辞める、辞めないか、それだけ。

中田: それは裸を撮りたくないってことですか。

武田: そうだよ、裸なんかやらないって奴と俺はやるよって奴と、昭五郎なんてその最先端を切ってやってたわけだ。俺なんか出来れば撮りたくないやと思ってて一番遅れた。でも、俺は児童映画なんかも撮らせて貰ってロマンポルノと両方やれたから、少し気持ちは楽だったよ。

澤田: 俺は伊地智にまず呼ばれてさ、「やろうよ」と言われて「いいよ」って答えたんだよ。俺はテレビをやってたけど、日活が好きだったし、黒澤さん那波さんがいたじゃない、人間の絆って大事だと思う。ロマンポルノを撮ることで、その先に拡がるって希望持ってたから。それでゴジで『濡れた荒野を走れ』の脚本を作ったら、労働組合(共産党系)に反対されて延々と塩漬けになっちゃったんだ。その間に大和屋(竺)でやったけど、俺はかなり遅れたね。

長谷部: 僕はやめるなんてことは全然考えてもいなかったけど、それこそやるよじゃなくって「やりたい、やらせてくれ」って言ったけど、向こうが相手にしてくれなかった、ホントにやれるのって(笑)。

中田: 当時の大学闘争での盛りあがりと、ロマンポルノがそれと近い形で、社会にもの申すみたいな雰囲気もあったんですか。

澤田: 世代によって違うと思うけど、俺自身はロマンポルノが摘発された直後だったし、警官の不祥事も重なってたから、悪徳警官ものやろうかってさ。やっちゃえやっちゃえって結構騎馬民族になってたかな(笑)。

斉藤: ロマンポルノはみんな過激なことやってましたよ、もろ騎馬民族。なにしろ今までは描かなかったとこやるんですから、キャラクターもシチュエーションも危険な香り満杯で、「なんでこんなところでこんなこと!」ばっかりで(笑)。──話題があっちこっちに散りだしたんで、もう一度若手にボールを投げるんだけど、この間すずきさんと飲んだ時に、「俺もおかしかったけど金子もおかしかったね」って話になったよね。そこを話してみようか。