
細野辰興 「表現の自由」
否、念の為にもう一度ヨーク思い出してみよう。「・・・」。矢張り、ない。「表現の自由」と云うからには、何の障害もなく100%自分の思うように表現できると云うことなのだから、一度もない。残念ながら断言できてしまう。
何故、ある映像表現を考え出したのにも拘らずその通り描写出来ないのだろう? 何が障害となって「表現の自由」がないと感じてしまってきたのだろう? 対映倫? 対クライアント? 対予算? 対スケジュール? 対人権? どれも当たっているようでどれも的を射ていないように思える。勿論、上記の要因によって表現を規制されたり訂正したりしたことは一度や二度ではない。しかし、それ故に「表現の自由」がないと感じた訳ではないような気がする。何故なら、その都度、Aの表現でなければB、BでなければC、と云うように違う表現方法によって描写、表現出来たからだ。総合芸術と云われる映画の場合、表現方法に選択肢がある限り「表現の自由」が規制されたことになるとは思えない。(憲法によってこの国の総ての人に保障されていることになっている「表現の自由」のことではなく、あくまでも映画監督としての「表現の自由」のことです。念の為。)
では何に因って映画監督として「表現の自由」があると感じて来れなかったのか? 私の場合、障害となった一番の要因は、実は、「自主規制」ではないかと思っている。「自主規制」。誰も何も云わないのに自分自身の判断で先回りして表現を規制してしまうアレだ。自分自身で気づかないうちに判断し規制してしまう場合もあるので「妥協」ではない。意識的にしろ、無意識的にしろかなり厄介な代物だ。企画から始まって脚本、キャスティング、撮影、仕上げに至るまでの総てのプロセスにおいて魑魅魍魎のように出現する「自主規制」。余人ではない自分自身の不文律の規範、譬えて云えば公序良俗ならぬ私序良俗による「自主規制」。しかも、自分自身の規範であるにも拘らず、何故、自分がその様な規範を持っているのかさえ判っていないのだから厄介以外の何物でもない。勿論、この文章だって「自主規制」されているに違いないのだ。
私の場合、「表現の自由」と云うのは、己の規範による「自主規制」との闘いに勝たなければ獲得出来ないもののような気がする。その闘いに比べれば対映倫などの障害要因は問題ではないと思う。
しかし、そのように手強い「自主規制」に対して果たして勝ち目はあるのだろうか? 勿論、勝ち目がなくても闘わざるを得ないし、闘い続けるのだが、何時になったら己の規範、私序良俗から解き放たれて真の「表現の自由」を獲得できるのだろうかと途方に暮れないこともない。
皆様の場合は如何でしょうか?
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細野辰興(ほその たつおき)
52・5・13生 神奈川県
79横浜放送映画専門学院卒、今村プロ。81今村プロを離れ、主に長谷川和彦、相米慎二、根岸吉太郎監督に師事。91「激走トラッカー伝説」で監督。(映)94「しのいだれ」95「犯人(ホシ)に願いを」96「シャブ極道」97「売春暴力団」02「竜二Forever」03「著作者人格権」他。(賞)日本プロフェッショナル大賞等。
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