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特集

日本映画監督協会 会員名鑑

エッセー

第4回 『役者』

松尾昭典 

松尾昭典.jpg 昭和三十五年製作の日活作品「打倒(ノックダウン)」の拳斗シーンの撮影が後楽園ジムで行われた時のこと――
学生ボクサーの赤木圭一郎君がプロの新人戦で最後のチャンピオンと斗うのですが、こちらが素人の選手でありますから相手のチャンピオンはプロのボクサーに演(や)って貰わないと斗いに迫力が出ないとあって拳斗指導の方に頼んで赤木君とほぼ同ウエイトの大城某さんというプロのボクサーが出演してくれることになりました。

 大城さんにはよくよくお願いして呉々も本気になってパンチを出さないようにソフトなアクションをお願いして撮影を始めました。赤木君もはじめの内は得意のフットワークで無難にカットをこなしていたのですが、夜ともなって疲れが出たせいか、打ち合わせ通りのタイミングがずれて、大城さんの軽く出したジャブの前に赤木君の顔がヒョイと出て、チョンとその鼻柱に当ったかと思ったら、スローモーションでも見るかのようにフワリとマットに沈んでいったのです。

 みんな大騒ぎでマットに駈け上がったのですが、眼をつむっていた赤木君が顔を動かしたら眼を開き「大丈夫です。見事にカウンターを喰らいましたね――」付き添いの医師も脈拍や下瞼を反復させて血圧など診ながら「軽い脳震盪でしょう」赤木君はその時すでにマットの上に立ち上がっていました。レフェリーと医師が赤木君と二、三の言葉をかわして頷き合い、私の処へ来て「大丈夫ですが、あと何カット位ありますか」の質問に「三十カットかな」と答えて「先生、ワンカットずつ彼を診てやって下さい。その結果で私の方も考えますから.........」

 そして再戦―-乱打戦で赤木君の左右のフックが大城さんの顎を打っていた直後、それを防ぐべく出した大城さんのグローブが赤木君のコメカミにカウンターとなって炸裂――ヨロヨロとロープに凭れたかと思ったら、ズルズルと尻餅をつくように二度目の脳震盪。

 夜食を食べ乍ら善後策を考えている時、ガウンを羽織った赤木君が入って来て「大丈夫ですから、やらせて下さい。」

 あと十数カットあったのですが、殆どが赤木君のラストのラッシュ場面で力のいるカットです。その訳を話して別の日の撮影を伝えたのですが「出来ればこのよれよれで斗わして貰ったほうがいいと思いますので(と赤木君)」

 医師も断を下して、撮影続行。――ふらつく足を踏みしめ踏みしめ、最後まで弱音をはかず、鼻血を出し乍ら歯を喰いしばって斗ってくれました。その役者魂に私は頭がさがりました。涙が出る程の感動を覚えました。―――そして―――

 1961年2月14日――運命の日。自ら乗ったゴーカートを倉庫の鉄扉に激突させて頭部強打。一週間意識不明の侭、彼は此の世を去ってしまいました。

「役者に年齢はない」と昔から云われて来ましたが、ちがう意味で余りにも短い生涯を閉じたものです。私の脳裡には顔中血だらけとなって尚、斗い抜く若き不動明王となって何時までも息づいていることでしょう。

 そして又、今、命永らえておれば、津川雅彦(63)夏八木 勲(64)加藤 剛(65)北大路欣也(64)橋爪 功(62)中尾 彬(61)原田芳雄(63)【以上敬称略】の諸兄らと伍して日本映画の核となって活躍していることでしょう。「赤木君。大きな口を開けて呵々大笑いする君の笑顔、絶対忘れることないでしょう」



赤木圭一郎(愛称:トニー)

1939年5月8日東京麻布生まれ、本名・赤塚親弘 同58年成城大学に入学した夏に日活第4期ニューフェイスに応募して日活に入社、芸名、赤木圭一郎へ。名付け親は井上梅次監督、59年4月『狂った脱獄』でデビュ-。同年9月の『素っ裸の年令』で初主演した。すぐさま裕次郎、旭に次ぐ゛日活第3の男゛と言われるほどの人気を獲得する。61年2月、撮影所内でゴーカートの操作を誤って事故死。



04-701.jpg松尾昭典(まつお あきのり)


1928年生。京都大学卒業後、松竹京都撮影所に助監督として入社。55年日活撮影所に移籍。59「未練の波止場」で監督。71フリー。

(映画)60「ゆがんだ月」61「打倒」「やくざ先生」63「人間狩り」「65「嵐と樹と空と」66「二人の世界」など多数。

2002年「手紙」を監督。