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特集

日本映画監督協会 会員名鑑

エッセー

第5回 『映画青年/少女』

高嶺 剛

高嶺剛.jpg 私がはじめて映画をみたのは、小学校に入る前に沖縄の南の島から那覇に移り住んでからである。小学校の校庭の移動上映会で、沖縄の素潜り漁師のドキュメンタリーだったと思う。
弟子の少年たちが、海で親方にさんざんしごかれたあと、ランプの明かりで笑いながら飯を食っていた。実際には私の身近にいたはずの少年たちのそのような様子が、なぜか遠いところの特殊な出来事のように思えた。映画にでているということ自体が偉く思え、羨ましかったのだろう。

 小学5,6から中学にかけて、日活や東映を見た。米軍統治下にあった沖縄に、どのような事情で入って来たのか分からなかったが、日本映画や洋画は普通に見ることができた。赤木圭一郎、石原裕次郎、小林旭の日活アクションはほとんど見たはずだ。片岡千恵蔵のドスの効いたしゃべり口調も忘れられない。

 (いまでもその気はあるが)少年の頃、映画の現実感に圧倒されるタイプだった。たしか「少年探偵団」だったと思うが、少年たちが水攻めにあって、溺れそうになった画面は恐くて正視できなかった。一緒にいた妹の目まで私の手で被った。水攻めの恐怖は一週間くらい続いた。

 それでも映画館にはせっせと通い続けた。いまにして思えば、当時は沖縄語禁止、標準語励行の世相で、日本映画は学校からも歓迎されていたのだろう。映画を見る少年は不良ではなかったのだ。さすがに赤木圭一郎はそうではなかったが、「路傍の石」などは学校から映画館まで行列行進しての映画見学であった。ちなみに、その映画の主人公の少年は、20年後に私が通った小学校の近くに持ち帰り専用の寿司チェーン店を出したが、いまはもうない。

 高校生のとき、友人と3人で映画館の夜警のアルバイトをやったことがある。沖縄で一番大きな映画館で1500名のキャパを誇っていた。2階はアベックシートで真ん中の肘掛は取り外され、もっぱら、米兵と沖縄人ハーニー専用であった。私たちはその様子を覗き見することはなかった。数年単位で行なわれる沖縄の最高権力者・高等弁務官の離任式もこの映画館で行なわれた。式の時、高等弁務官は自分の大きな肖像画を好んだ。画家の芸術的なそれではなく、映画館専属の看板職人にハリウッドのスターのように描かせたのである。ゴダールの「女と男のいる舗道」は、特権的にそのアベックシートで独り見たが、よく分からなかった。そのときは自分がつくる側になろうとは思ってもみなかったが、いま映画を作ったり、映画のことを考えたりしていると、「うーむ、このアイディアは、もしかして、あの時のあれかな・・・」などど思い当たる節がある。


高嶺 剛(たかみね ごう)


48・11・12生沖縄県

69京都教育大学特修美術科に国費留学生として入学。80大阪写真専門学校講師。

(ド)75「オキナワン・ドリーム・ショー」78「オキナワン・チルダイ」(映)85「パラダイス・ビュー」89「ウンタマギルー」(M)94「嘉手苅林昌・唄と語り」「夢幻琉球・つるヘンリー」


(賞)89日本映画監督協会新人賞、90ベルリン映画祭カリガリ賞。