第5回 『映画青年/少女』
梶間 俊一
それは、「純白な映画少年」内藤誠がくっきりと浮かび上がってくる好エッセイだった。
僕も六年前、栃木県那須地方を舞台に、昭和二十九年当時の少年たちの物語、「オサムの朝(あした)」を撮った。内藤さんの顰みにならって、昭和の映画少年「オサムの物語」の一端を語ろうと思う。しかし、映画「オサムの朝(あした)」には森詠さんの原作があり、実際に僕が少年時代を過ごした所は栃木県の隣、茨城県北部の山間の村だった。したがって、言葉の厳密な意味において、「オサム少年」は、僕ではない。
昭和十九年生まれのオサム少年は、当時十歳、小学校五年生だった。映画少年である前に、野山を駆け巡り、川で魚を手づかみで掴まえるのを得意とする少年だった。中でも、トリモチを使った"メジロ捕り"は、名人級だった。
冬の早朝、囮のメジロの入った鳥籠を手に、山中の谷合のメジロのやって来そうな傾斜地に行く。手頃な松の木に鳥籠を掛け、籠の上には熟した柿を輪切りにして乗せる。次に、栗の木の小枝を折り、先端の葉を二、三枚残して、他の葉はしごいて取り落とし、トリモチを口の中でガムのように噛んで柔らかくして、栗の小枝に包帯を巻くように、丁寧に巻き付けていく。それを、メジロがとまり易いように鳥籠から突き出して差し、薮に隠れてメジロが来るのを待つのである。その間オサムは、囮のメジロに"チイュー""チイュー"と口笛で鳴き声をまねて呼びかける。すると、囮のメジロが、それに応える
暫くすると、オサムと囮のメジロの"鳴き合わせ"に、谷津の方から野生のメジロが、鳴き声を合わせて来るのである。そこで、オサムは"鳴き合わせ"を止める、すると谷津から来たメジロは、メジロ同士の掛け合いをしながら、トリモチのある籠の方に近付いてくる。そして、野生のメジロがトリモチの付いた小枝に止まり、くるっと一回転して地上に落下したところを捕まえるのである。
この時の、胸の張り裂けるようなドキドキする快感を、オサムは今でも忘れることが出来ない。それは、フナやナマズを手づかみで掴まえた時のピリピリと来る興奮にも似ていた。もちろん、オサムは、今でもメジロの鳴き声をちゃんと真似ることが出来る。
オサムの映画体験は、殆ど小学校の校庭や地区の公民館前の広場で上映される野外映画会であった。「笛吹童子」「紅孔雀」「旗本退屈男」等、村の自転車屋の戸袋にはり出されたポスターの前に、オサム少年は何時間立っていただろうか。時々、学校の教室で上映されたナトコ映画の方は、何故か今あまり思い出すことが出来ないが、そのカラーの一枚のポスターは、確かにオサムを"メジロ捕りや魚の手づかみ"と同じ"快感と興奮"に誘った。
地区の青年団の主催する公民館前の上映会は、常に満員だった。広場が狭いので、その前の道路を越えて、向こう側の路肩にスクリーンが設置されることもしばしばだった。
それは、題名は覚えてないが、鶴田浩二と力道山が主役のギャング映画で、鶴田浩二は拳銃で、力道山は空手チョップでワルを倒し、最後に大きな櫻の木の下で二人が強く抱き合い、絆を確かめ合うというような映画だった。銃撃戦と空手チョップが、交互に映し出されて、場内は興奮の坩堝だった。
その時、二台のトラックがスクリーンの前を横切った。しかし、観客は、警備係の青年団員を除いて、誰もそれに気付かなかった。オサムは、一緒に行った母親から後で知らされた。
その頃、力道山は"日本人の英雄(ヒーロー)"であり、映画は"娯楽の王様"だった。村の映画会は、子供から大人まで全ての人々を魅了する一大イベントだったのである。

梶間俊一(かじま しゅんいち)
44・1・2生茨城県
67早稲田大学卒。出版社勤務を経て、70東映東京撮影所入所、助監督として伊藤俊也、深作欣二、佐藤純弥に就く。83「悪女かまきり」で監督デビュー。87「ちょうちん」でヨコハマ映画祭、監督賞受賞。98「オサムの朝(あした)」は"戦後の原風景"を描いて高い評価を得た。その他、(映)88「疵」、89「螢」、91「略奪愛」、94「集団左遷」 (V)95「螢II」、97「疵・血の黙示録」、02「安藤組外伝・餓狼の掟」 (ド)96「生き様を演じるーマルセ太郎の芸人魂-」(T)02「子連れ狼」、03「おかしな刑事」、等。