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特集

日本映画監督協会 会員名鑑

エッセー

第7回 『私のデビュー作 パート2』

森崎 東  私のデビュ―した頃「人間万事ニワトリはハダシ」   

森崎東.jpg 私が監督になった1969年は、いわゆる反体制勢力退潮の兆しの見え始めた70年安保を翌年にひかえた「東大時計台陥落」の年であり、
映画界でも数年前から層をなして台頭していたいわゆる「ヌーベル・バーグ」が前途多難な逆風を予想される時代だった。

その時代を遡ること9年、わたしはヌーベル・バーグの旗手・大島渚監督の親友・森川英太朗の監督デビュー作品「武士道無残」にチーフ助監督でつき、企画から封切りまでのドラマチックな局面を体験した。森川自身のオリジナル・シナリオによって「松竹時代劇ヌーベルバーグ第一弾」として企画された「武士道無残」は、武士道の美名のもと、主君への殉死を命じられた若者に、生きることを望む兄嫁が、自ら肌をゆるして「反逆の性」を突出させるという時代劇のタブーに真っ向から挑んだ戦闘的作品だった。

今にして思えば問題はこの戦闘的松竹ヌーベルバーグ売り出しに会社が突然2の足を踏み始めたことにある。森川も私も信頼していた敏腕のプロデューサーが突然脚本の直しを主張しはじめ、当然の事として原作者・森川と真っ向から対立した。製作進行はすべてストップした。脚本直しに同意して監督の製作意図が大幅に変わらない限り、クランクインは限りなく遠ざかると言う絶望的状況となった。その打開の為、脚本直しの名人と称されていたプロデューサーは自身で筆をとって本直しを始めた。それは製作中止を避けるための善意の、そして実効ある最後の手段だった。

直しのため缶詰めになった二人きりの宿の一室で、森川が私にいった。

「直しの意図は判る。だが直し通りに俺は撮れない。撮ればそれは俺の作品ではない」

「その通りをプロデューサーに言おう」と言う私の意見を森川は実行した。

今にして思えば、その時すでに森川は松竹退社を心中覚悟していたように見えた。だが、覚悟を決めていた製作中止命令は何故か遂に出ず、オリジナル脚本のままで「武士道無残」はクランクインした。

脚本大直しの余裕は当時の封切事情では物理的になかったか、若しくは担当プロデューサーの進言によるものか、ワンマン社長の鶴の一声か? 今となってはチーフ助監督の私の製作した予告編から「突出する時代の新しき波!」等々のヌーベルバーグ礼賛の字幕が完膚なきまでにカットされた一事を、憾みと共に報告する以外にない。

その後、森川は一本も映画を撮ることなく、松竹を退社、創造社、電通を退いたあと母校慶応大学で講義していたが、先年病をえて世を辞した。生前、私は元気な彼の電話を受けた。「森崎、悦んでくれ、『武士道無残』が松竹百年史百本に選ばれた!」

私はこの時の森川の声を死ぬまで忘れないだろう。

森川英太朗は価値ある一作を世に残し、私は細々と撮り続けて、この十一月に二十四作目を公開する。題名は森川と共に京都撮影所時代、何かといえば自己激励の警句として多用した「ニワトリはハダシだ!」である。(2004・9・10)



森崎 東(もりさき あずま)


1927年、長崎県生まれ。

54年に京都大学法学部を卒業後、56年に松竹京都撮影所に入社。演出部を経て、脚本家に転身。野村芳太郎監督などの脚本に参加、のちに山田洋次監督と多くの脚本を共作し、1969年、『喜劇 女は度胸』で監督デビュー。1975年以降はフリーとなり更なる活躍の場を広げ、『黒木太郎の愛と冒険』(77)や当時タブーとされていた原発問題をあつかった『生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』(85)など、数多くの名問題作を世に送り出す。世の中の不条理に対して立ち向かう庶民のたくましさを生き生きと描いた本作品は、監督6年ぶりの待望の新作である。