
降旗康男 第一回作品『非行少女ヨーコ』
作品についていない時の自由出勤も取消され、午前と午後にタイムカードを押さなければ欠勤扱いの嫌がらせ。助監督室には四、五の将棋盤、碁盤が並び取囲む人息とタバコの煙でむせ返る。私は劇用車を持出してオープンセットで運転を試み始めたが、看板やら鉢植を摺るばかり。送迎つきのホンダ運転教習所に通うことにした。そんな訳で、プロデューサーからこのホンで監督にならないかと話を貰ったのは教習所の待合室のソファでのことだった。先輩監督が準備したもので、会社の企画をやらなければいけなくなってのことながら、実話からとった今日の若者を肯定的に描いた話だから良いんじゃないかと。部室に戻って仲間に相談すると、なんであろうとそろそろ監督になってくれなきゃ下の方が詰まってしまうよという意見が大勢。一応入社順でトコロテン式に監督に昇進して行くといった時代だった。そして私が試みていた企画は当時一年に十本以上出演していた高倉健さんを主役に当てていて、いつお鉢が回ってくるか見当のつかないもの。やらしてくださいと答えたが、その途端第一組合を辞めなければ監督昇進は認められないという話が持ち上がる。すでに何ヶ月か前にテレビ映画で起こったことながらしつっこさにあきれ、巡り回ってきた企画の気安さもあって、そんなら監督なんかしませんよと嘯く。ところが撮影所長が、まあ待てよと言う。社長に挨拶に行かねばならないが、君はただ笑ってだけいなさい、後は僕に任せなさいと言う。その日開口一番社長は、君イもう第一組合は抜けただろうね、あんなものはけしからん。いや!と声が出そうになるのをぬるいコーヒーで抑えて、ああ、あれは、あははと笑う。後は所長がまくし立てて話題をそらす繰り返し。長い三十分を耐えて、芸術はいらないよ、娯楽だよ娯楽!という社長の言葉を背に社長室を後にした。しかし娯楽にせよ芸術にせよ先立つものは金で予算がはまらない。カメラの仲澤半次郎さんがカラーをモノクロにすりゃ収まるだろうという提案。新宿の夜景が多かったので、シネスコでなくスタンダードのモノクロで撮って、その美しさをシネスコの世の中に再認識さしてやろうと意見一致。予算もはまってクランク・イン。ところが一日何回も添え物作品のために上映機のレンズを取替えちゃいられないよとの興行部からのクレーム。何のことはない美しさとは縁のないシネスコ・モノクロとなって出鼻をくじかれた。夜景は殆ど夜明けに変えた。ラリパッパの若者男女が立直り憧れのサントロペへ旅立つという話だったが、撮っていくうちどうして行かなきゃいけないのか疑問が沸きあがり、行くのはやめましょうと言い出したところ、温厚で鳴る企画本部長が、そんなことしたらオクラですよ、家族に送り出されてサントロペへ行くからウチで取上げたんじゃないですか、それがなかったらオクラです、といつもに似合わぬ恫喝に近い口調。オクラで結構と思ったものの、もろもろ思えば、映画の中味の責任は一人監督にあるのだが、映画は一人のものではないことをひしひしと感じるばかり。皮肉にも、旅立ちの撮影でそこだけに出演した大坂志郎さんに、良いホンで監督になって良かったですね、と励まされ、実は慰められ、映画監督の何たるかを知る一歩を踏み出さして貰った。タイトルバックは作曲の八木さんが招いた渡辺貞夫、日野晧正、ベース・原田政長、ドラム・冨樫雅彦、ピアノ・八木正生の演奏するシルエットで作った。今となってはシルエットだけじゃなければ、なぞと思うも、しょむない話。しょむない、しょむないばかりが押し寄せてくる一時代前の第![]()
降旗康男(ふるはた やすお)
57年、東京大学文学部フランス文学科卒。東映東京撮影所に入り助監督に。66年、「非行少女ヨーコ」で初監督。74年からフリー。99年の「鉄道員」(ぽっぽや)では、第二十三回日本アカデミー賞監督賞ならびに脚本賞を受賞。
主要な作品に、78年「冬の華」、81年「駅 Station」、89年「あ・うん」、95年「藏」、99年「鉄道員」、01年「ホタル」、04年「赤い月」等。
|
||
|