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特集

日本映画監督協会 会員名鑑

エッセー

第8回 『インターナショナル』

安藤紘平 「ぼくと海外への旅」

安藤紘平.jpg ぼくが初めて海外を旅したのは、大学2年生の時のフランスへの交換留学でした。電子工学専攻のぼくが、何故、フランスなのか・・・。
パリでは、芝居ばかりを見ていました。

 帰国したぼくは、ひょんなことで、旗揚げしたばかりの寺山修司の"演劇実験室 天井桟敷"に入団しました。仕事は、演出と制作。

 早速、海外公演の話が舞い込んできました。寺山さんは、周り中が家出少年少女の集まりのなかで、当時はめずらしい海外経験者でありネクタイを締めても様になるぼくを伴って、パンアメリカン航空に出向きました。勿論、タイアップです。ドイツからお金は出るのですが、宇野亜喜良さんの美術や、コシノジュンコさんの衣装を運ぶ運賃が足りません。寺山さんとぼくは、企画しました。パンナムの飛行バックを肩に掛けたぼくたちが、パリのシャンゼリゼ通りのパンナムオフィスの前で、解散したばかりのグループ・サウンズ、タイガースのメンバーだった加橋かつみと、当時、ニューヨーク、ロンドンと話題をさらっているロックミュージカル"ヘアー"について語り合って、それを撮影してテレビに流そうというものです。

 作戦はまんまと成功したかに見えました。ところが、バーターチケットで無事公演をすませ、いよいよパリで約束の撮影をしようとして、思わぬ障害にぶつかったのです。勿論、当時はフィルムの時代ですが、その映画カメラマンの値段が、物凄く高いのです。ギルド制で最低賃金が決まっていました。ぼくたちは困り果てました。

  その時です。寺山さんは、ぼくに悪魔のように囁きました。

「安藤、これからは映画の時代だ。二人でカメラを買おう。それで、日本で一緒に映画を撮ろう」。パリには、本当に安いムービーカメラが売っていました。中古のボレックスを買って、それを使ってぼくが回すはめになり、その場をしのぎました。

 日本に帰って、その映像は無事テレビにも放映されたのですが、その後、寺山さんはいっこうに「一緒に映画を撮ろう」とは言い出しません。騙されたのです。ぼくは、やむなく、そのカメラを使って"オー・マイ・マザー"という作品を撮りました。それが、たまたま国際映画祭で受賞して、この世界に入りました。寺山さんに嵌められたのが良かったのか、悪かったのか・・・。

  いずれにしても、それが、ぼくの一生を決めた事件でした。



安藤紘平


1944年 東京都生
パリ留学後、寺山修司の天井桟敷に在籍。TBSを経て、現在、早大教授。
69「オーマイマザー」(オーバーハウゼン国際映画祭入賞)、71「息子達」(トノンレバン国際映画祭グランプリ)、94「アインシュタインは黄昏の向こうからやってくる」(HD。ハワイ国際映画祭銀賞)、98「フェルメールの囁き」(HD。モントルー国際映像祭グランプリ)などの作品がある。