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特集

日本映画監督協会 会員名鑑

エッセー

第10回 『10年』

山際永三 「この10年」   

山際.jpg非常にポピュラーなアール・ヌーボーの画家アルフォンス・ミュシャは、パリやアメリカで大成功をおさめたあと、故国チェコ・スロバキアに帰って大歴史画に取り組んだのだが、不評に終わったという。
その歴史画は、チェコ民族の古代から伝わる多くのエピソードを、市民ホールの壁や天井に描くもので、その取材だけでも大変だったらしい。

私は、実を言うと、この5月15日のNHK「新日曜美術館」を見ていて、そのことを知った。番組のなかでは、すでに独立を達成した(1918年第1共和国)後のチェコの人々にとって、ミュシャの民族主義はアナクロニズムにみえたと説明されていた。しかし私たちは、その後のチェコの、独立とはほど遠い苦難の歴史を知っている。第2次世界大戦が終わったあとでさえ、チェコは戦車に蹂躙されている。ミュシャ晩年のチェコ独立が、あだ花でしかなかったことは確実だ。 10年ひと昔というが、歴史の意外な展開と、それに拮抗する作家・知識人の運命というものは、技術・方法論の成否をふくめて複雑極まる。容易なことではない。

この10年、日本は世界でもあまり例のない独特な閉塞感を増幅させた。ナチスのように黒シャツ青年団の1群が街を闊歩してユダヤ人狩りをするというようなところまでは、まだいっていないものの、タバコ・空き缶ポイ捨て禁止の条例化とか、防犯カメラ(Nシステム)の多用とか、日の丸・君が代強制とか、青少年健全育成法案とか、いよいよややこしくなっている。こういう傾向になる契機は、1995年のオウム事件にあると言う論者が多いし、確かに、その後のアメリカ同時テロ事件、中東における戦争とともに、日本社会に対して深い影響を与えたことは事実だ。

しかし私は、その95年のさらに前の10年に着目すべきだと考えている。80年代前半に、マスメディアの系列化完成、新聞に対するテレビの優位によって、日本国民を対象にした、いわばマインドコントロール状況とも言うべきものが現出し、80年代後半からは、警察レベルで保安部が生活安全部に衣替えし警備・公安本位からのシフト変更がなされた。官僚の世界ではバブル崩壊に備え様々な分野で、いわゆる中坊公平体制とも言うべき、いかにも世のため人のためを装う方針が貫徹されていった。それらを総合すると、今日の閉塞状況、柔らかなファッシズムは、20年前から仕組まれていたとみるべきなのだ。

協同組合日本映画監督協会70周年記念事業実行委員の1人である、伊藤俊也監督が、かつて理事会の席で、「映画監督という職業は、殆ど気違い沙汰だ」というようなことを言って皆を笑わせたことがある。アルフォンス・ミュシャの生涯を考えているときに、ふとこの伊藤さんの言葉を思い出した。ものすごくまともな幻想世界にのめり込んだミュシャ晩年の孤独、それに耐えて彼はその後の20年を見通していたのではあるまいか。

映画は、なおのこと時代の産物である。監督は、孤独のなかで、映画監督の著作権確立を求めて、彼方の連帯を模索する。

山際 永三 (やまぎわ えいぞう)
32・7・22生 福島県
55慶応義塾大学文学部卒。新東宝入社、内田吐夢・石井輝男に師事。61新東宝は国際放映となり、69以降フリー

(非常にポピュラーなアール・ヌーボーの画家アルフォンス・ミュシャは、パリやアメリカで大成功をおさめたあと、故国チェコ・スロバキアに帰って大歴史画に取り組んだのだが、不評に終わったという。映)61「狂熱の果て」(T)66「泣いてたまるか」67「コメットさん」69「恐怖劇場・仮面の墓場」70「ジキルとハイド」74「ウルトラマンタロウ」「日本沈没」79「俺はあばれはっちゃく」等。