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特集

日本映画監督協会 会員名鑑

エッセー

第11回 『ドキュメンタリー』

足立正生 「映画は、一繋がりの近代史の記録」

足立正生.jpg思うに、ドキュメンタリーの記録映像は極めてお喋りで、撮る側の想像力が弱ければ、意図したテーマや方法から暴走し、他の異世界を語り始める。
それはそれで、ドキュメンタリーが唯一やれる逸脱の方法で大好きだ。だから普通、ドキュメンタリストは、自分の選んだテーマと意図に沿って、記録映像と音声が溢れさせる多弁さを出来るだけ剥ぎ落とし、自分の言葉と方法を見つける苦行に直面させられてしまうようだ。

それに比べれば、フィクションは、TV番組の"やらせ"と同じで、テーマと意図に沿った場面設定と人物を揃えてカメラのフレームで切り取り、劇映画と呼んだりする。それは、撮る側の想像力世界のリアリテイを焙り出して、観る側の想像力に「どうだ、これがリアリテイ世界だ!」と訴えるわけで、そこには、ドキュメンタリーと逆に、痩せ細った擬似世界のセットで"やらせ"のリアリテイを持たせる為に、ありとあらゆるものを持ち込もうとする。

従って、撮る側にとっては、何をどう焙り出すのか、何を見せるかというコンテンツと方法上の多少の違いに留意して、ドキュメンタリーでやるかフィクションかを選ぶことになる。

ドキュメンタリーの手法は、撮る者がカメラの視線そのものになってしまうもので、下手をすると覗き屋でしかない。しかし、いたずらに撮る者の主観を盛り込めば、それは"やらせ"止まりに堕し、擬似現実というフィクションとなる。ドキュメンタリーの演出家が最も悩ましいのは、映画というヴァーチャル世界を現実世界の尻尾へ何処まで繋ぎ止め遂せるか、という点だろう。

普通の劇映画などのフィクションで物語ろうとする者は、"やらせ"を当然の方法として、 映画というヴァーチャルのリアリテイと観る側の想像力とがどこまで緊張した交信可能になるか、その点を賭けることになる。

いずれにしても、やっていることは同じものだ。 私自身は、自分の映画を時代の記録として考えているし、映画史の中の全ての映画作品を、それぞれ独立したものでありながら、近代史を語り続ける一繋がりになったヴァーチャルの記録ファイルだと考えている。



足立 正生(あだち まさお)


一九三九年福岡県に生まれ。学生映画、実験映画の運動的な展開の後、若松プロに合流してピンク映画の脚本・監督し、大島渚作品にも俳優や脚本を共同する。
一九七一年、カンヌ映画祭の帰路のパレスチナへ旅し、越境のニュースフィルム『赤軍-PFLP・世界戦争宣言』を撮影製作上映運動を行い、七四年、パレスチナ革命に身を投じたが、一九九七年にレバノンで逮捕拘留され三年の禁固刑ののち強制送還される。現在、自由の身で、新たな映画作りを目指している。
著書に『映画への戦略』(晶文社)、『映画/革命』(河出書房新社)、など。