第15回 『映画監督の発想についての考察』
風間志織 「貧困なる精神から来る発想の現れ」
私はどちらかというと愚直で、売られたケンカは買ってしまうし、酒を飲めばゲロを吐く。つまり、発想は貧困な方である。
そういうにんげんに"発想"について尋ねられても、答えは簡単で、ただひたすら考えること。それだけだ。
とにかく考える、いや"思う"でもいい。考えて考えて思い思い思う。
そうすると、一旦は窮屈になるけれど、そのうち考えていることが日常になり、表層の意識では"そのこと"を考えていなくても、実は心の奥ではずっと思い続けていたりする。
そのような時は、身体は半分どこか別の場所にあるようで、しかし脳の奥の方が妙に覚醒していたりするような、そんな感覚がある。傍から見ると、ただ眠そうにしているようにしか見えないらしいが。
その結果、なんの巡り合わせか、モノゴトの色々な面や事柄・運動がソノコトと連鎖反応を起こすようになり、発想ってやつに繋がってゆくのではないかと。
それが、具体的にはどういう風に起こるのかと言われると、よくわからない。とにかく気配はあるのだ。頭の中で、ソレらが繋がってゆく気配。それを逃したらいけない。などと、書きながら、自分自身はそれを逃してばかりいるわけなのだが...。
それでも時々、ユメノオツゲのような、ラッキーなこともある。
ある作品を編集中のこと。
撮影が上手くいかなかったシーンの数ヶ所がどうしてもうまく繋がらない。そんなある夜、眠っている夢の中に、もう一人の私が出てきて、ここをこうカットしてこう繋げばいいのだよ、と教えてくれた。はっと目を覚まして起き上がり、その夢を反芻し検証する。うん、確かに。これで行ける!
それを考えると、良き睡眠(生物学的な良き睡眠とは違うかもしれない)が、発想を助けてくれるのかもしれない。
ここまで書いて、はっと気が付いた。
なんだ、発想なんて偉そうなことを言ったって、大したことはない。たかが自分自身の中をぐるぐる回ってるだけではないか。
その通り、だから私は貧困なのだ。
しかし世の中には、貧困ではない発想を確実に掴むことが出来る人もいるに違いない。まぁどちらにせよ、自分自身を深く深く掘り下げていくことでしか、発想は得られないのではないかと思う。他からの触発であっても、それに気付く為には自分を知っていないと、上っ面を嘗めるだけでどこぞの弁護士知事のようにただ口が上手いだけの中味の無い状況に陥ることになるだろう。
そして一番重要なことは、こころをなるべく柔軟に保つことだ。
では心を柔軟にするとはどういうことかと問われれば、そんなことは知ったこっちゃない。そう言ってるわたくし自身が、どれ程柔軟なこころを持っているかについては、甚だ疑問である。
以上、だらだらと抽象的ななんだかよくわからないことを述べてきたが、何故このような固い書き方をしているかというと、"発想についての考察"という今回のエッセイのお題が非常にムズカシかったからで、ちょっとばかしシカツメぶって偉そうな書き方をすれば誤魔化せるのではないかという浅はかな考えに基づいている。
つまりは、自信の無さの表れである。

風間 志織(かざましおり)
1966年埼玉県生まれ。
高校生の時に8ミリフィルムで映画(?)を撮り始め、何の因果か未だに映画を撮り続けようとしている。
しかし、今後も撮り続けられるかどうかは、誰にもわからない。誰か仕事くらさい。
最近の作品は、2001年『火星のカノン』、2004年『せかいのおわり』