第2回 『セルフプロデュース』
新藤兼人 「撮影所は何処へ行った」
昭和二十八年にテレビが出た。まだ悲劇ははじまらない。昭和三十三年映画人口は十一億を誇っていたが、突如下降し、十五年後に二億を割った。映画会社は狼狽し、必死に対策を練ったが及ばず、撮影所を閉鎖する映画会社が出た。
これは日本映画にとってはおどろくべき現実であった。作れば損をするから作らなくなったのだ。もともと映画は儲るから作ってきたのだ。才能のある監督にカネをかければ儲る品物が出来る。そしてスターが誕生する。かんたんな方式だ。お店(たな)式だ。大番頭、小番頭、丁稚がいればよかった。
凋落に独立プロも無縁ではない。根本のところで大衆に見てもらうために作っているのである。挫折と試行錯誤を重ねたが、自滅しそうな寸前「裸の島」で過去の映画製作の亡霊から離脱することが出来た。それを詳しくいう紙数はない。
撮影所が消えることによって、シナリオライター、助監督という知能集団も離散した。代って映画研究所が出てきた。撮影所という狭い門からではなく、広い野から映画青年は出ることになって、理想的な展望がひらけたように見えるのだが、かんたんによろこぶわけにもいかない。
溝口健二監督の作品、小津安二郎監督の作品、伊藤大輔、山中貞雄、成瀬巳喜男、黒澤明、木下恵介、内田吐夢、今井正、吉村公三郎、市川崑、その他数えきれないほどの優れた監督の作品は、即ち撮影所がカネを出して、儲けたいと思って作った作品なのである。そして監督たちも儲けたいと思う人がいるから才能を伸してきたのだ。
興行者たちは、芸術を作りたいという意欲はもたないが、芸術的な作品が出来れば商品に転化できると思っている。
わたしに日本映画の未来を論じる力はないが、撮影所で成長してきた日本映画が、撮影所が消えてしまうとどうなるか、とてもむつかしい問題が残っている。
わたしたちは、一本作っては喰い、つぎへとつないできた。
喰える作品をどうしたら作れるか、それしか考えてない。

新藤兼人(しんどう かねと)
12・4・22生 広島県
34新興キネマ美術部に入り溝口健二に師事。50松竹退社、近代映画協会設立。51「愛妻物語」で監督。脚本家としても活躍。60「裸の島」64「鬼婆」75「ある映画監督の生涯」93「墨東綺譚」95「午後の遺言状」00「三文役者」(賞)61モスクワ国際映画祭グランプリ63毎日芸術賞96日本映画アカデミー賞97文化功労者顕彰00モントリオール国際映画祭特別大賞02文化勲章