第2回 『セルフプロデュース』
原 一男 "セルフ・プロデュース派"的人生
口を大にして言いたいが(マそれほどいきがることもないが)、これまでの四作品は、作品を上映したあがりで、何とか借金を返してきたのである。それってスゴイことだよ、原さん、と友人の堀越謙三(「ユーロスペース」のオーナー)が言う。我が"自主製作・自主上映"の世界では、借金して映画を作ったはいいが資金が回収できず映画人生から隠退したという悲劇は数多くあるからだ。
お金の話になるとドーシテモ暗くなる。イケナイ。話題を変えよう。
我が四作品は、いずれも"自主製作・自主上映"だからこそ成し得た主題であり、素材だと思うのだ。
一作目の『さようならCP』は、主人公の脳性マヒ者が車椅子を拒否して膝で都市を這いずり回る、といった内容。
二作目『極私的エロス・恋歌1974』の主人公は、黒人との混血児を自力出産するのだが、そのヒロインはかつての私の妻なのである。そして二番目の妻になる女が録音担当、そして彼女までもが出産するシーンが展開するといった、アブナイ内容だ。
三作目は、ご存じ、神軍平等兵・奥崎謙三が主人公の『ゆきゆきて、神軍』。昭和天皇にパチンコ玉を発射した男なのだ、彼は。
四作目『全身小説家』は、主人公・井上光晴が生涯かけて作り上げた"虚構の年譜"を暴いていくといった内容。
いずれもが、事前にどこかの誰かに製作資金を出してもらおうと企画書を書いて、頭を下げたって、おそらく誰からも無視されたであろう。
別に、それでかまわない、と思っていた。お金を出すかわりに口を出されても、私としても困ったであろうから。必要なのは、やりたいことを、そのまま、やれるという自由だけだった。イキがっていたわけでもなく、ごく自然に、そうなっただけのことである。
カメラがあったからこそ今日まで、何とか、生きてこれたと心底思っている。過剰なほどのコンプレックスに悩み、臆病で、貧しく、無名だった私には、まさにカメラこそが頼れる武器だった(今も、同じだが)。素手だったら闘えなかっただろう。
そして今、職業は映画監督と名乗りはするが、どうも居心地が悪い。だって、職業として映画を撮ってきたわけではない。生きるために、そうするしかなかったから、そうしたまでのこと。これからも、多分、事情は同じだろうなあ。

原一男(はら かずお)
45・6・8生 山口県 69東京綜合写真専門学校中退。72小林佐智子と共に疾走プロダクション設立。72「さようならCP」で監督デビュー。74「極私的エロス・恋歌1974」(トノン・レバン国際独立映画祭グランプリ)。87「ゆきゆきて、神軍」(日本映画監督協会新人賞、ベルリン映画祭カリガリ賞etc.)。94「全身小説家」(キネマ旬報ベストワン、同監督賞etc.)。