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特集

日本映画監督協会 会員名鑑

エッセー

第2回 『セルフプロデュース』

福島拓哉 「セルフプロデュースについて」  

02-7_edited.jpg 皆さんこんにちは。金髪色白小男の福島です。

今回「セルフプロデュースについて何か書け」と玉命を賜ったので、僕なりの解釈でちょいとウンチクかましてみます。でも間違ってるかも。そしたら許してください。
若造の戯言ってことで。

さて、映画におけるセルフプロデュースとは大抵が自主映画に関することですが、この言葉には実は3つの意味があります。

て言うのは、そもそも映画という産業を考える際、それは大別して3種類の業態に分かれるからです。
それは即ち「企画制作」「配給宣伝」「上映」であり、それぞれやることが全然違うわけです。つまりセルフプロデュースとは「自主制作」「自主配給」「自主上映」の3種類存在するということです。
で、よく言われる自主映画ってのは自主制作映画であり、監督が資金調達して作って大抵がまともな配給宣伝をすっ飛ばして上映会なんか開いたりします。学生の文化祭とかのパターンですね。この上映会自体は自主上映というやつで、自主制作することとはまた違った動きです。
よって上の3つのプロセスを全部、つまり自主的に映画を作って宣伝して見せてしまうまでを本当のセルフプロデュースと呼ぶわけですが、じゃあ自主制作映画ってなんだ?という疑問も沸きます。
実はこのあたりがすごく曖昧で、制作会社が制作を請け負えば商業映画で、そうじゃないと自主制作映画、とも一概には言えません。よって自主制作映画かどうかは置いとくことにして、セルフプロデュースを考える場合、自主配給・自主上映かどうかが重要な気がします。
自主配給とは通常配給会社がこなす業務を自分でやるわけで、これはかなり大変です。新たに宣伝費を捻出しなければならないし、映画を作るのとはまったく違う労力が必要となります。
そして自主上映の場合映画館で扱ってくれないし大抵配給・宣伝がおろそかになります。ていうか雑誌など媒体が取り上げてくれないので仕方なかったりもします。


ここで考えるべきなのは、「なんでそんな面倒くせーセルフプロデュースとかやるわけ?」ってことなのですが、これはさっきの学生の例を考えれば簡単にわかります。つまり「だって映画撮りてーんだもん。でも誰もカネくんねーんだもん。劇場とかも相手にしてくんねーし」ということです。寂しいけど気合が入ります。情熱なのです。


僕がこないだやったケースで言うと、シネマ・下北沢で新作短編『自由』という作品を公開したのですが、これは現在準備中の商業用長編の合間を縫って撮った短編で、僕が主宰する映像集団P-kraft制作の完全自主制作映画です。元々公開など考えずに「誰にも文句言われずに撮りてーもん撮るぜ!」と制作したところ劇場側から話があり公開することになりました。でも急な話だったので自分たちでやった方が早い、と自主配給を敢行することになりました。

つまり、自主制作・自主配給・一般上映の映画(自主上映ではない)、ということです。
結果ミニシアターの劇場としては短期間であるもののたくさんお客さんが来てくれてアンコール上映まで決まったのですが(配給頑張ってよかった)、ここで気付くのが、どんなプロセス踏もうとお客さんから見て「映画」と思うラインに乗れば、セルフだろが何だろがいいんじゃない?ということです。
で、そのラインとはおそらく、興行として計算ができるかどうかです。

つまり、自主配給でもそのへんちゃんとやれば劇場側も問題はないし、観客的には「映画館に行くぞ」と思った時点で映画を観に来てるわけで、その前のプロセスなどどうでもいいことなのです。

作品の強さと宣伝のハッタリが、ラインを決めるだけだと思います。

映画って基本的に見世物だし。

セルフプロデュースなどと言うと何となくいい感じに聞こえますが、特別いいことなどありません。

だからこそ制作・配給・上映、どれもそれなりの熱意があって初めて動き出せるものだと思います。ただ、今後規模の大小の差はあれ比較的ローコストで済むことを考えると、セルフプロデュース作品が増えていくような気がします。たぶんね。



福島拓哉(ふくしま たくや)


72・9・19生 埼玉県 06名古屋大学文学部卒。石井聰互監督に師事した後、映像集団P-kraftを結成し自主製作で多岐にわたり活動。各地映画祭での受賞を経て、01「PRISM」で劇場用長編初監督。 主な作品(映)01「PRISM」02「自由」