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特集

日本映画監督協会 会員名鑑

エッセー

第1回 『私の処女作』

足立正生 「私の処女作 2003年3月25日」 

足立正生a.jpg 初め、私は、普通の映画は作れないし、まして職業的な映画監督というものになれるとは思っていなかった。


だが、勿論、自分の考える世界を表現するには、どうしても映画でしかない考えていたし、自分の考えを直接映画に作るにはどうしたら良いのか、名画や古典といわれるものを懸命に観て廻った。そんな勉強をしつつ自分なりの映画作りに拘り、何とか今までに無い新しい映画を作りたいと思っていた。

そう考えて取り組んだのが、学生時代に一人で作る8ミリなどの小さなフィルムで、それなりに楽しくやっていたが、人に見せることなどは考えていなかった。もう一方では、いつも集団製作のスタイルを取る前衛的な表現を目指した意欲だけが先走るものだった。これは、それなりに面白いと評価されたりした。しかし、何か満足できなかった。何かが思いの出口に挟まったままのような気分だった。

だから、初めて、自分一人で脚本を書き、普通通りに監督したのは、ピンク映画の『堕胎』や『避妊革命』を撮った時で、それが処女作だったといえる。私自身は、当時流行り始めていた性の解放ムードに反発し、真面目にブラックユーモアのシリーズでセックス論を続けるつもりでいた。だけど、周りの反響はすこぶる悪く、ユーモアを一般の喜劇風に成立させようとしていないために、意味不明で何の新しさも無いと言われ、悪評ふんぷんだった。

しかし、それでも、自分のフィルムが映画館にかかると言うことが、私には極めて重大な考え方の転換をもたらしてくれた。やはり、自分が取り組むのは映画しかない、と確信させてくれた。

自分の作る映画が、まさか普通のプログラムピクチュアーとして映画館で流されるとは長年思っても居なかったので、ピンク映画館の片隅で『堕胎』を観て、観客の反応がいらいらと興奮の間を往き来するのを感じた時は、私自身が感動していた。そして、観客とは、かくも一々反応する感受性の塊りなんだと分かった。

それ以降、自分の考えに素直にやっても、見る人は見てくれるのだと分かって、それまで心のつかえになっていた「俺はまともじゃない」という思いが一気に流れて、私はこれで自由になった、と自覚したことを覚えている。



足立正生(あだち まさお)


39・5・13生 福岡県

63年、日大芸術学部在学中に「鎖陰」を発表。卒業後、若松プロに参加。若松プロ作品の多くの脚本を手がける。67年、「堕胎」を商業映画初監督。71年、レバノンに渡り「赤軍―PFLP世界戦争宣言」を撮影。以降パレスチナへ。00年、日本へ強制送還。 69 「性遊戯」 69 「女学生ゲリラ」 70 「噴出祈願 15歳の売春婦」 他。