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特集

日本映画監督協会 会員名鑑

エッセー

第1回 『私の処女作』

羽田澄子  処女作『村の婦人学級』のこと 

羽田澄子.jpg映画を作るようになるとは夢にも考えていなかったのに、私は何故か記録映画をつくるようになった。私は1950年、岩波映画制作所の創立とともに岩波写真文庫の編集者として入社したのだが、2年ほどして誘われるままに映画製作の部門に移った。
最初は企画・脚本の仕事をしていたが、そのうち自分の書いた脚本がどのようにして作品になるかに興味があって、これも勧められるままに、自分の脚本の助監督もつとめるようになった。この「村の婦人学級」は文部省社会教育課から頼まれたもので、最初は演出をするということなど考えもせずに脚本にとりかかったものである。そのころ日本の農村の主婦は封建的抑圧の象徴的の存在といってよい,みじめなものであった。当時の文部省にはまだ戦後民主主義の雰囲気があって、農村の女たちは自主的に勉強をすることで自分たちを解放し、主婦の地位を向上させることができる。婦人学級はその力になるという考えで、全国の農村に婦人学級をつくろうと努力していた。私はまず、そのころ盛んに活動していた幾つかの婦人学級を尋ねて歩いた。最終的に撮影対象に決めたのは、滋賀県甲賀郡甲西町の婦人学級だった。この町ではすでに活発に動いている地域もあるが、まだ手をつけていない、これからやろうとしている地域もあって、そこには婦人学級に熱心な公民館の先生がいた。先生と話をするうちに、ここでなら私の思ったような映画ができると思ったのである。脚本を読んだ製作担当の重役は私に「君は自分で演出してみないか」と言われた。急なことで驚いたが、それがこの作品を演出するきっかけとなった。助監督を2年ほどしたあとだったと思う。


 私は公民館の先生と一緒に家々を訪ねお母さんたちを婦人学級に集め、組織するところから作品作りを始めた。お母さんたちの成長や変化をリアルタイムで撮ろうとしたのである。現在ならこれはなんの苦労もない当たり前の方法論だが、この作品の撮影をした1956年頃はこのような方法でドキュメンタリー作品をつくるのは非常に難しかった。ドキュメンタリーでもフイルムは35mm。同時録音撮影となると35mmカメラにブリンプをかぶせるからカメラの機動性がなくなってしまう。しかも音声は音質が悪く、やっと言葉を聞き分けられる程度だった。使えるフイルムは完成作の2倍半しかない。ドキュメンタリーだからといって、いまのようにビデオテープやフイルムを何倍も使える時代ではなかった。


 そして状況に臨機応変に対応しなければならない撮影は、あらかじめコンテをきめた撮影に馴れたカメラマンを不安がらせた。さらに監督が能力の未知数である若い娘ということも不安を増幅させていた。私はカメラの傍らで本当に緊張して過ごした。だがお母さんたちは婦人学級の回を重ねるごとに、確実に変わっていった。それを完全に表現しえたとはいえないが、私の想いの基本は通せたと思っている。たった23分の作品である。



羽田澄子(はだ すみこ)


26生 旧満州(中国東北部)大連自由学園高等科卒。

50年に岩波映画の設立とともに入社。羽仁進監督の助監督についた後、57年「村の婦人学級」で監督デビュー。以来、90本を超すドキュメンタリーを手がける。フリーになった翌年の82年に「早池峰の賦」で芸術選奨文部大臣賞受賞。現在は「自由工房」で映画をつくる。86 「痴呆老人の世界」 93 「歌舞伎役者片岡仁左衛門」 他。