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特集

日本映画監督協会 会員名鑑

エッセー

第7回 『私のデビュー作 パート2』

今岡信治 「デビューまで」 

今岡信治.jpg1994年、12月。「インモラル」という映画で、神代組の助監督についた。それまでピンク映画の助監督を4年やっていて、正直もうやめたいと思っていた。
人に指示したり、仕切ったり出来る器じゃなかった。叱られてばっかりで、息するのもしんどくて、むいてない、才能無いと、酒ばかり食らっていて、毎日が二日酔いだった。そんな時に神代組。一番憧れていた監督。緊張して、てんぱって、今度こそ失敗は許されないと制作の田尻と話し合った。車イスの神代さんに会った。酸素ボンベのシューシューいう音がダースベーダーみたいだし、見た目はちょっとヨーダに似ていた。緊張してほとんど話せなかった。渡された台本はいい加減で適当でカッコよく、クラクラする程面白かった。ますます失敗できんと思った。準備に入った。下の助監督が見つからない、一人でチーフとセカンドとサードをやった。できるわけないじゃん。てんぱって頭が真っ白になった。神代さんとスケジュールの相談したけど、話にならなかった。めちゃくちゃなスケジュール。鴨田さんに頼った。鴨さんが色々動いてくれて、それでも予算1千万、1週間で撮るのは無理があった。鴨さんはずーっと悩んでいた。病気の神代さんの横で車イスを押しながら、「軽いよなあ、軽すぎるよ」っていって、泣きそうな顔をしていた。で、現場。神代さんは相変わらずヨーダみたいにひょうひょうとしてたけど、なんか神がかりのように役者やスタッフが生き生きとしていて、ああ、この映画傑作になるなと思った。スケジュールが押して、夜中になった。神代さんシンドそう。鴨さんうんうん唸ってる。私一人ぼーっとして何もできなかった。いっぱいやることあるのに寝てばかりいた。死にたくなった。それでも1週間後、現場は終わった。とにかく終わった。神代さん、芝居を見ている時瞬きしないんだよな、息もしない。息しないと酸素ボンベがピーピー鳴るからよく分かる、そんなこと思い出しながら、ひたすら眠って、ボロボロだった現場のことを忘れた。編集やったり、アフレコやったり、ダビングしたりして、映画はできた。いい映画だった。嬉しくて嬉しくて飛び跳ねた。2月になって神代さんが死んだ。お葬式の看板を持った。寒い日だった。粟津ごうさんが缶コーヒーをくれた。何かとんでもない間違いを犯してる気がして怖くなった。冗談で誰かが神代さんを殺したのはお前だと言った。笑えなかった、泣きたくなった。取り返しのつかないこと。現場でのこと。どうつぐなっていいか分からなくて、瀬々さんに泣き言の電話をした。「お前、映画撮るしかないやろ」と言われた。それから色んな事を忘れたくてシナリオを書いた。ひたすら映画を撮るんだと思い入れて書いた。ようやくその年の10月にデビューした。助監督始めてから5年目だった。ひそかに決意した。もう映画撮ること以外何も考えるもんか。それから10年、ずーっとそのことだけで、やってきました。


今岡信治(いまおか しんじ)


1965生 大阪府堺市1990年助監督募集をしていた獅子プロダクションに入社。深町章、渡辺元嗣、佐藤寿保、瀬々敬久らの作品で助監督を務める。1995年には神代辰巳の遺作「インモラル 淫らな関係」に助監督として参加。同年「獣たちの性宴イクときいっしょ」で監督デビュー。以降ピンク映画を中心に、オリジナルビデオ、ドキュメンタリー等幅広く活動。最新作「たまもの」が11月13日よりユーロスペースにて公開。