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特集

日本映画監督協会 会員名鑑

エッセー

第5回 『映画青年/少女』

奥中惇夫 「戦中・戦後の青春」 

奥中惇夫a.jpg 中学3年の夏、1945年に大東亜戦争(太平洋戦争)は終わった。そして軍需工場で飛行機の部品作りに明け暮れ、空襲の脅威にさらされていた毎日も終わった。食糧も配給制で少なく、若者は皆、腹を減らしていた。混沌とした世の中にあって、私の青春は貧しく、暗かった。

 少年時代に両親に連れられて見た映画は多くはないが、長谷川一夫と古川ロッパの「家光と彦左」、ディアナ・ダービンの「オーケストラの少女」だけは覚えている。前者の侍女達と踊っている家光に、ロッパの大久保彦左衛門が諌言するシーンは、特に印象に残っている。後に「わが映画人生」のインタビューの中で、マキノ雅裕監督が、思い出に残るシーンとして話しておられて、何となく嬉しかった。

 学校の体育館などで、「西住戦車隊長伝」などの国策映画も見せられた。ニュース映画が、必ずついていた。それらは日本軍の勝利の場面と、占領地の住民との温かい交流の場面に満ちていて、南京大虐殺のような悪いシーンは絶対に入っていなかった。いま、テレビのニュースや新聞の写真で、イラクの子供たちに自衛隊員がお菓子をあげたりしている交流の場面を見せられると、戦争中と同じだなと思ってしまうのである。

 私が映画監督になりたいと思ったのは、大学へ入ってからだ。新制大学の第一期生となった私は、早速映画研究会を作って代表になった。朝日新聞のQとして知られていた映画評論家の津村秀夫を講演に呼んだこともある。

 当時、学生割引というのがなかったので、渋谷地区の各大学に呼びかけて、大学映研連合を作り、渋谷の映画館と交渉して割引券を発行した。結構積極的に行動する方だった。その顔で大分ただで見せてもらった。

 大学生時代にガールフレンドとデイトして、アルバイト学生としては大奮発で指定席を買い、有楽町のスバル座(現在のものとは違う)でロードショーを見たことも忘れられない。作品はアンドレ・カイヤット監督の「火の接吻」。もう大感動だった。私としてはその年のベストワンだと思った。ずっと後になってもう一度見る機会があったが、たいしたことはなかった。一緒に見ることによって、映画から受ける感動まで違ってくるらしい、と知った。外食券食堂の時代で、映画の後、バターとジャムをつけたコッペパンを日比谷公園のベンチで食べながら語り合うだけで楽しかったことを、懐かしく思い出している。

奥中惇夫(おくなか あつを)


30・9・28生 奈良市 53東京大学文学部美学美術史学科卒。新東宝~東映助監督。主として渡辺邦男に師事。64東映テレビプロにて監督昇進。現在フリー。 (T)「鉄道公安36号」「特別機動捜査隊」「柔道一直線」「刑事くん」「がんばれ!ロボコン」「がんばれ!レッドビッキーズ」「燃えろアタック」「アクマイザー3」「伝七捕物帳」(VP)「日展」「院展」(教)「北の国へ」