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特集

日本映画監督協会 会員名鑑

エッセー

第1回 『私の処女作』

鈴木清順 「春のつまずき」

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トコロ天式である。


その点出来立ての味のいゝ日活だった。


先輩格の西河克己、古川卓己、堀池清、野口博志さんが監督で出払うと、お次の番が中平康、斎藤武市、関喜誉仁と私である。


だからと言って企画提出の愚は敢てしない。


会社は助監督の脚本を余程の事のない限り採用しない。

九年に及ぶ助監督の対会社観である。


昭和三十一年の頭、浅田健三プロヂューサーがニコニコ顔で家にやって来、

「港の乾杯・勝利を我が手に」の台本を置き「お芽出度う、青木光一の歌謡もので・・・・」と筋書きを一通り述べ「じゃ頼みましたよ」と陽気に帰って行った、これ丈。


羨望の的の監督昇進の儀式は、これ丈。

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社長、担当重役、撮影所長の祝いの言葉、こっちの答礼は勿論辞令の授受もなく、武者ぶるいは空回りし、誰に言うともなく「有難うよ、今回監督になったスズキ・・・・」と呟く。


映画が公開され広告に、監督昇進第一回作品と麗々しく載るが、あれもまやかしこれもまやかし、プレスシートの33才の新鋭云々。
  日活の腹はプログラムピクチャーの間尺に合えば可、それすら考えない、つまり新人監督の出はどうでもいゝことなんだから。

「港の乾杯」全てお仕着せ、主役の三島耕、牧真介、南寿美子、天路圭子、脇の河津清三郎、菅井一郎は浅田プロがマネージする第一協団。端役は日活と契約のある民芸から芦田伸介、佐野浅夫。


飛入りがコロンビアトップライト。下駄の鼻緒がきついからって文句も言えない、が、呼び名が「先生」になった。矢ッ張りネ。


大井競馬場、横浜埠頭、セットと撮影したが、エピソードは皆目記憶にない。


オールラッシュを会社側が見、撮影所所長が鼻の頭を真っ赤にして言った。


 「君!判らないよ 説明不足だ つなぎもよく判らない。(田坂)具隆さんに監修して貰う、いいね」


いい悪い、可不可以前の映画づくりの初歩的規範の非を突かれ、言葉に窮す。


 余え師匠筋の野口さんなら納得もゆくが、監督会筆頭の田坂さんには、その組の助監督に名を連ねたこともなく、甚だご迷惑なことと思ったが黙っていた。


結果は有耶無耶。 田坂さんが所長にどんな感想を伝えたか私は知らないが、所長が匙を投げた形だから、田坂さんはこちらに好意的発言をして呉れたに違いない。


教訓、 監督の気ごころは監督のみが知る。


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鈴木清順(すずき せいじゅん)


23・5・24生 東京都 48旧制弘前高等学校卒。松竹大船撮影所助監督部、日活撮影所助監督部(野口博志監督に師事)。56「勝利を我が手に」で監督。 「殺しの烙印」、後68契約問題で対日活裁判無所属となる。 (映)「けんかえれじい」80「ツィゴイネルワイゼン」(T)「木之伊の恋」(著)「夢と祈祷師」(賞)81芸術選奨文部大臣賞、90紫綬褒章、96勲四等旭日小綬章。