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それは、あまりに明快で単純なことなので時々浮ついたスローガンのように聞こえてしまう時もあるのですが、ずばり、自らの人間としての存在を保障する。つまり、自然人(この地球において生きる権利を有する人間)として自らが自らの存在を知り、探求することではないのか、と考えつく訳です。
これを協会の理念として言葉に置き換えれば、著作権の確立、擁護、そして、表現の自由……となるのですが、残念ながら十年前も現在もその理念は現実的に私たちの思い通りにはなっていません。
これは、映画、映像を自己表現の手段として、信条や感情の集積として思想を形成し、なおかつ、それを他者に伝えることを専らとする映画監督という職業が基本的に保有すべき権利を未だに獲得できていない現実があると言うことです。
じゃ、意味ないじゃん監督協会はさ、との声が聞こえてくるようで苦笑ですが、僕の入会時の信条は、旧知の先輩たち(例えば助監督を務めた監督たち)、キラ星のごとき日本映画界を背負ってたつ先輩監督たちの背中を見て、決めた、と言うことになります。
これまた、単純すぎて、どうしたことなの崔洋一、と叱られそうですが本当にそうなのです。先輩監督たちの背中は決して明るい未来を背負ってばかりではありませんでした。世界的な映画界の構造変化や新たに登場したメディアに断固として屹立し、主張を崩さず、なおかつ淡々と、そして楽天的に、時に大いなる愚痴、おバカなジョーク、見果てぬ夢、磊落な酒、無頼、悪、偽悪、偽善、愛憎、武士は喰わねど高楊枝、そして果てしない議論(世の中ではこれを大喧嘩と呼ぶこともある)……この百家争鳴のごとき言霊が舞うほどに、僕にとってはここに在ることが魅力そのものであったからです。
なんと、格好良いのだろう。
なんと、面白い人たちなのだろう。
気がつけば、ドラマチックな監督協会の渦中です。
そして、よく叱られました。団塊の世代ですから組織運動のいろは位は知っているつもりでしたが、これは特に意味があったとは思いません。実務官僚とののしられて本当に大喧嘩になったこともあります。でも、この手の価値観はぐるぐる回るメリーゴーランド状態で、ふと周りを見れば何だか自分がドーナツ状態でその真ん中の穴は安全帯のような狂熱帯のような、不安定のようなそうでもないような、それでいて求心すべきは何なのかという主題への道を求めて真ん中の穴が変形し次第に埋まって来始めているのです。
本当に気がつけば、です。
ある日、僕のテレビ用コマーシャル作品が無断改変される事件が起きました。
なおかつ、ふと見ていたテレビでそれを知りました。怒るまいことか。これほどの屈辱はありませんでした。ただちに代理店の電通に抗議です。泣く子とスポンサーには敵わない、のへ理屈で代理店は終始しました。製作プロダクションはただただおろおろするだけです。
責任者を出せ!クライアントの社長とタイマンだ!と大出入りの始まりです。こんな時、武闘派とレッテルを張られるのは当然ですが、さしたることではありません。それは、当時の僕が喧嘩好きだったり、権利主張が強かったなどということでもありません。