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特集

日本映画監督協会 会員名鑑

理事長挨拶

崔 洋一(2004~)

崔 洋一(2004~)
【プロフィール】
1949年長野県生まれ。大島渚監督や村川透監督などの助監督を経て、83年にベネチア国際映画祭に出品された『十階のモスキート』で劇場映画監督デビューを飾る。以後、『いつか誰かが殺される』(84年)など一連の角川映画を監督したほか、数々のテレビ映画を手掛け実力を開花していく。93年、『月はどっちに出ている』で53にわたる映画賞を総なめにし一躍脚光を浴びる。
96年には韓国・延世大学に留学し、韓国の近代映画史を研究しながら多くの韓国映画人と交流。帰国後、ロカルノ映画祭国際シネクラブ賞を受賞した『豚の報い』(98年)などを手がける。02年、『刑務所の中』-ブルーリボン賞などを受賞-。04年『クイール』、『血と骨』と立て続けに話題作、意欲作を世に問い、高い評価を得ている。

ご挨拶にかえて

昔、と言っても十年ほど前のことなのですが、若い監督たちによく聞かれることがありました。
監督協会に入る、メリットとは? 少しの間、僕は答えられません。それは、僕自身が協会に入会する時のことを思い出す時間が必要だからです。  
そうか、この世代はどこかで、団体や運動体に加入することの不思議さ、つまり、たった一人で映画監督を職業とするものが何故、徒党を組む必要があるのか、と問うているのだと理解をしました。  
もちろん、協会に入会することが即物的な利益に繋がらないのは言うまでもないのですが、少し早く入会した者としては、例えば福利厚生の充実とか、社会保険制度、私的年金制度への加入とか、サロン的雰囲気の楽しさとかをつらつらと述べるのですが、この程度のことはメリットか、と言えば世間的に認められている法人格の団体としては当たり前のことですから、メリットと呼べるほどのものではありません。  
そこで、監督協会の本質とは何か、が各々の答え探しになるのですが、思い出せばメリットとか、得することとかを入会の大いなる前提として考えて入った訳ではない自分を思い出すと、さてはて、一体僕は何のために入会し現在に至るのだろうかと言うことです。

それは、あまりに明快で単純なことなので時々浮ついたスローガンのように聞こえてしまう時もあるのですが、ずばり、自らの人間としての存在を保障する。つまり、自然人(この地球において生きる権利を有する人間)として自らが自らの存在を知り、探求することではないのか、と考えつく訳です。
これを協会の理念として言葉に置き換えれば、著作権の確立、擁護、そして、表現の自由……となるのですが、残念ながら十年前も現在もその理念は現実的に私たちの思い通りにはなっていません。
これは、映画、映像を自己表現の手段として、信条や感情の集積として思想を形成し、なおかつ、それを他者に伝えることを専らとする映画監督という職業が基本的に保有すべき権利を未だに獲得できていない現実があると言うことです。
じゃ、意味ないじゃん監督協会はさ、との声が聞こえてくるようで苦笑ですが、僕の入会時の信条は、旧知の先輩たち(例えば助監督を務めた監督たち)、キラ星のごとき日本映画界を背負ってたつ先輩監督たちの背中を見て、決めた、と言うことになります。
これまた、単純すぎて、どうしたことなの崔洋一、と叱られそうですが本当にそうなのです。先輩監督たちの背中は決して明るい未来を背負ってばかりではありませんでした。世界的な映画界の構造変化や新たに登場したメディアに断固として屹立し、主張を崩さず、なおかつ淡々と、そして楽天的に、時に大いなる愚痴、おバカなジョーク、見果てぬ夢、磊落な酒、無頼、悪、偽悪、偽善、愛憎、武士は喰わねど高楊枝、そして果てしない議論(世の中ではこれを大喧嘩と呼ぶこともある)……この百家争鳴のごとき言霊が舞うほどに、僕にとってはここに在ることが魅力そのものであったからです。

なんと、格好良いのだろう。

なんと、面白い人たちなのだろう。

気がつけば、ドラマチックな監督協会の渦中です。
そして、よく叱られました。団塊の世代ですから組織運動のいろは位は知っているつもりでしたが、これは特に意味があったとは思いません。実務官僚とののしられて本当に大喧嘩になったこともあります。でも、この手の価値観はぐるぐる回るメリーゴーランド状態で、ふと周りを見れば何だか自分がドーナツ状態でその真ん中の穴は安全帯のような狂熱帯のような、不安定のようなそうでもないような、それでいて求心すべきは何なのかという主題への道を求めて真ん中の穴が変形し次第に埋まって来始めているのです。 本当に気がつけば、です。 ある日、僕のテレビ用コマーシャル作品が無断改変される事件が起きました。 なおかつ、ふと見ていたテレビでそれを知りました。怒るまいことか。これほどの屈辱はありませんでした。ただちに代理店の電通に抗議です。泣く子とスポンサーには敵わない、のへ理屈で代理店は終始しました。製作プロダクションはただただおろおろするだけです。  
責任者を出せ!クライアントの社長とタイマンだ!と大出入りの始まりです。こんな時、武闘派とレッテルを張られるのは当然ですが、さしたることではありません。それは、当時の僕が喧嘩好きだったり、権利主張が強かったなどということでもありません。

結果から先に言えば、勝利しました。天下の電通とクライアント相手に多少苦いこともあったけど喧嘩には勝ちました。それは、名実共に監督協会があったからです。僕が協会員であったからです。理事会に問題を伝え、当時の理事会が本当に真剣に自分のことのようにこの無断改変問題に取り組んでくれたからです。  学びました。それは、仲間がいることの強さです。いろいろな衆知が様々な個別の問題に対応できる柔軟な姿勢を作ることの強さです。  
これは目に見える、もしくは手に取ることが容易いメリットと呼ぶべきものなのでしょうか。
僕は多分、違うのではないかと今も思っています。メリットとは手が届く客観ではなく、主体的に行動する個別の価値観、協会に加わる全ての監督たちの思想の坩堝が交差する時に生まれる力そのものではないのかと確信しているのです。

崔 洋一