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特集

日本映画監督協会 会員名鑑

創立80周年・80th Anniversary

2015年11月13日

日本映画監督協会は2016年2月26日、創立80周年を迎えます。あの2.26事件の同年同日に発足したのです。創立以来の命題は〝監督は映画の著作権者である〟。

この文書は10年前の70周年記念映画『映画監督って何だ!』を監督した伊藤俊也さんがその映画化への指針として会報に書いたものです。広く一般の方へ協会の主張を知って貰うために掲載することにしました。

(広報委員会)
〈映画には「作者」はいない〉とする論述を駁す
伊藤 俊也

私一人に限ったことではないと思いますが、実作者の立場からすると、映画についての分析めいた言説の多くがどうにも胡散臭いものに見えて仕方ありません。おそらく、それらが映画そのものの具体を見ないで、流行の哲学やものの見方を借りてきて映画を解釈する、あるいは映画をだしにして何かを語ることに得々とするあまり、肝腎の映画の真実が見失われてしまっているからだと思います。だから、それはそれで笑って済ませる類のものであり、目くじらを立てる必要もありません。だが、こと著作権に関わることとなると、笑って見過ごすわけにはいきません。

最近とんと映画についての論述を読まなくなった私としては、偶々出会ったものがそうであったというのも何かの因縁でしょうが、以下に紹介する見方は、昔からある俗論とも重なって、映画監督に独占的に認められるべき著作権を認めていない現行著作権法を黙認してきた世間の誤解を補完する性質(たち)の悪いものですから、特に取り上げて、その根本的誤謬の在り処を指摘してみようと思います。

性質(たち)の悪いと書きましたが、それは全く悪意なく書かれているからこそであって、おそらく論述者は性質(たち)の善い人だろうと思われます。なぜなら、その人、内田樹(たつる)さんは、映画が大好きな学者さんだからです。しかし、内田氏はその著作「映画の構造分析―ハリウッド映画で学べる現代思想」(晶文社)の中で、次のように書いています。〈・・・・映画は「誰のもの」なのでしょう。監督? プロデューサー? 主演俳優? シナリオライター? カメラマン? / たぶんこのような問いには意味がありません。/ というのも、映画を専一的に造り出し、所有し、支配している個人はどこにも存在しないからです。映画には「作者」はいない。考えればすぐに分かることです。/ 例えば、『七人の侍』(1954)を「太宰治の作品」というような意味で「黒澤明の作品」と呼ぶことはできません。そこには監督の外に脚本家やカメラマンや多くのスタッフと俳優がかかわっており、それらの無数の人々の主体的な参与の結果として作品が成立しているからです。志村喬や三船敏郎のいない『七人の侍』を私たちは想像することができません。仮に他の条件がすべて同一で撮影がなされたとしても、その二人の俳優が違う俳優であれば(志村喬の役を笠智衆が、三船敏郎の役を石原裕次郎が演じていた場合を想像してみて下さい)、それはまったく別の作品となっており、それが映画史に残した影響や意味も一変していたでしょう。〉

一般の善意の読者がともすれば誤魔化されそうな文章ですね。

なにしろ、一人の作家が原稿用紙に向かってペンを走らせている作業を想像する読者は、一方で、映画やテレビの製作現場に、大勢のスタッフや俳優が入り乱れてわっさわっさやっている様だけ思い描いてしまうでしょうから、二つの創作過程が全く違うんだという記述に容易に取り込まれてしまいそうです。

しかし、この文章には、根本的なまやかしがあります。

先ず、分かり易いところから、攻めましょう。『七人の侍』の志村喬、三船敏郎の件です。内田氏はいかにももっともらしく論理の補強に援用していますが、もし二人の代わりに笠智衆、石原裕次郎だったら、別の作品になるのは当たり前で、ピカソの青の時代の作品、例えば『La Vie』が、青い絵の具の代わりに赤い絵の具で描かれていたら、と言うに等しいたとえに過ぎず、何の意味も持ちません。ただ、誤解されないために、予め断っておきますが、私は俳優を絵の具と同じ単なる材料としてしか見做していないからではありません。俳優は、内田氏がいみじくも書いているように、「主体的な参与」として演技をし、それがフィルムに定着されているからです。いや、俳優ばかりではない。プロデューサーや脚本家やカメラマンや多くのスタッフ、その他大勢のエキストラまで含めて、それら無数の人々の「主体的参与」が丸ごとフィルムに一つのカットあるいは一つのシーンとして詰め込まれているのです。そして、スクリーン上に投射されるとき、それらは解放され、映画として成立するのです。内田氏が完全に無視していることは、それら無数の人々の「主体的参与」が一体どのようにして一つの統一体としてフィルムに収められていくかという一番肝腎なところです。これを度外視したとき、映画の創造過程はわっさわっさ以外の何ものでもなく、これでは映画を語る資格がないとすら言えましょう。

さて、結論を急ぐ前に、もう少し内田氏の所論を見てみましょう。やや長くなりますが、引用します。〈凡庸な批評家たちはこう考えます。/ 映画「以前」には「これから表現されるべきメッセージ」がまず存在する。主題、象徴、イデオロギー、教訓、風刺、欲望、なんでも構わない。映画作者はそのメッセージを映画を通じて「表現」する。だから、批評家は「映画に表現されたもの」から遡行して、「映画ができる以前にあったもの」、つまり映画の初期条件、映画の「起源」を発見すれば、仕事が終わる、と。記号学の用語を使って言えば、映画記号の「シニフィアン」から出発して、「シニフィエ」へ到達すること、「意味の確定」、それが批評の仕事の本質なのだ、と。/ しかし、映画に「作者」はいるのでしょうか。むしろ「作者なき間テキスト」というロラン・バルトの概念の、映画こそは理想的なモデルであるように私には思われます。〉

後ろの二行を除けば、今更の感はありますが、古典的な映画批評に対する批判として妥当と思います。映画はまさにそこに現前するものであって、決して他のものに還元されるべきものではないからです。では、問題の後ろの二行。

ロラン・バルト、懐かしい名前ですが、その哲学や文芸批評に深入りしている暇はないので、内田氏が引用している文章に頼ります。〈テクストとは『織物(Tissu)』という意味だ。これまで人々はこの織物を製造されたもの、その背後に何か隠された意味(真理)を潜ませている造られた遮蔽幕のようなものだと思い込んできた。今後、私たちはこの織物は生成的なものであるという考え方を強調しようと思う。すなわちテクストは終わることのない絡み合いを通じて、自らを生成し、自らを織り上げてゆくという考え方である。この織物-このテクスチュア(texture)-のうちに呑み込まれて、主体は解体する。おのれの巣をつくる分泌物のなかに溶解してしまう蜘蛛のように。〉そして、内田氏は続けます。〈このバルトの言う「テキスト」を「映画」に置き換えてみると、私の言いたいことはだいぶはっきりするはずです。こうです。/ 映画は(いわば神学的な)唯一の意味を発する語の連鎖からなるものではない(そうだとすれば、その意味は「監督=神」からのメッセージであることになる)。そうではなく、映画は多次元的な空間であり、そこでは多様なエクリチュールが睦み合い、またいがみ合っている。それらのエクリチュールはいずれも起源的ではない。映画は文化の無数の発信地から送り届けられる引用の織物である。〉

確かに、そこに現前するテクストあるいは映画それ自体に、常に生成する有機体を見ようとする考え方は、それなりに是認できますが、それはあくまでも出来上がったテクストあるいは映画についての解析に関わる批判がバルトの眼目であるからであって、テクストあるいは映画の作られる過程にバルトを援用するのは適切ではありません。テクストは一語一句書き綴られて成り立つものですし、映画もまた一カット一カット撮影されていくものだからです。

ようやく、「無数の人々の主体的な参与」が一体どのようにして一つの統一体として映画に結実されていくのか、という命題に行き着いたと思われます。そして、答えは簡単です。作家が一文字一文字ペンかキーボードで書きつけていくように、作曲家が五線譜に音符を記していくように、画家がカンバスに一刷け一刷け絵の具を塗っていくように、映画監督は「無数の人々の主体的参与」を指揮統一しながら、「ヨーイ、ハイ(スタート)!」と号令を発し、つまりは開始宣言をして、カメラは回り、カチンコをきっかけに俳優は演技を行い、時には撮影効果のための雨や風、車の行き交い、エキストラの動員、また、美術セットに火を付けての修羅場となれば、スモークを焚き、照明もまた変幻し、という具合に、いずれにしても一定の達成を見た監督が、「カット!」と声を掛けて、そのカットの終結を宣し、その全体のパフォーマンスをよしとすれば、「OK!」と叫んで皆に知らせ、先へ進む。もし、よしとしなければ(「NG」とすれば)、もう一度改めて仕切り直し、再度の「ヨーイ、ハイ(スタート)!」となる。こうした行程が一カットずつ積み重ねられていくのが撮影の過程であり、仕上げ作業もまた監督のOK、NGの判断によって運ばれていく。それは、作家や作曲家や画家が書き進める作業と、その創造過程の仕組みにおいて何ら変わるところがありません。

一枚の絵を描くのに何ヶ月掛かろうが、瞬時のスケッチに終わろうが、画家はその始まりから終わりまでを自立的に支配する行為者なのです。小説家にしても、作曲家にしても、同じことが言えましょう。そして、映画の創造過程の始まりから終わりまでを通して、この行為者に当たるのが映画監督であり、監督以外に小説家や作曲家や画家と同じ意味での行為者はおりません。そして、この行為者を想定しない著作物はありえないのです。くどいようですが、作家が紙に書きつけるように、作曲家が五線譜に書きつけるように、画家が画布に描きつけるように、映画監督はフィルムに描きつけているのです。その方法が、他と違って、三次元的あるいは四次元的なだけなのです。したがって、〈『七人の侍』を「太宰治の作品」というような意味で「黒澤明の作品」と呼ぶこと〉ができますし、内田氏が使っている概念の範囲内で言う限り、〈映画を専一的に造りだし、所有し、支配している個人〉は存在するのです。内田氏の根本的誤謬は、映画の創造過程における最も根幹たる「行為」ないし「行為者」の存在に対する無知でした。だから、映画の創造過程がのっぺらぼうになってしまった。映画の著作権を独占的に持つべきは映画監督であることが、今や明らかとなったはずです。 

(会報『映画監督』2004年7月号No.570より)