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特集

日本映画監督協会 会員名鑑

わが師を語る

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第一回 わが師を語る-伊藤大輔監督

熱 眼 熱 手

山内 鉄也


 東映ビデオのPR誌「東映キネマ旬報2008年冬号」を読んだ。「まぼろしの邪馬台国」の宣伝を主にした吉永小百合特集号で面白かった。


 そして監督協会事務局員として長年お世話になった河治尚子さんが、先頃亡くなられたご主人信夫君(東映ビデオ宣伝部勤務)の特別追悼文を寄稿しておられたが、信夫君は京都撮影所育ちの昵懇の間柄、感慨ひとしおであった。更に巻末には新たにDVD化が決まった作品の紹介...そのトップにあの「反逆児」が載っていた。


 「反逆児」は伊藤大輔・脚本監督、中村錦之助主演の私にとっては忘れ得ぬ思い出の作品である。


昭和36年、チーフ助監督になって6本目の仕事だった。大映作品を続けて撮られた伊藤監督が東映京都へ来られると言う話が聞こえて来た。大佛次郎原作の「築山殿始末」を「反逆児」の題名で撮られると言う。憧れの監督だ。「反逆児」に参加したい!...密かに願っていたところへ幸運にもチーフとして付けとの指令が来た。「やったぜ!」...と快哉を叫んだものである。


 伊藤大輔監督と言えば、日本映画の創世記、チャンバラ活動写真と呼ばれた時代劇を確固たる思想や作家性に裏打ちされた作品として定着させた特筆すべきパイオニアである。がしかし、それについては紙面を割いて改めて私が述べるまでもあるまい。


 私は直に接した伊藤監督の人柄について、若き日の思い出を語るだけで充分であろう。


 伊藤作品に初めて出会ったのは昭和17年、小学校2年生の時で、「鞍馬天狗横浜に現わる」を郷里広島の映画館で文字通り手に汗握りながら観た。無論監督名など知る筈も無い。だが、地下倉庫のような所で鞍馬天狗が凄まじい立ち回りを演じたのを鮮明に記憶していた。時代劇、とりわけチャンバラアクションが好きになったのは、この作品がきっかけである。後年、その事を話したところ、「ほう、戦時中の小学2年生が観に行ったかね。一体、誰が連れて行ったんだね?」...などと逆にあれこれ質問されて面くらったものだ。


 「反逆児」の主人公は徳川家康の長男三郎信康。織田信長の娘徳姫を娶りながら、信長の厳命によって詰腹を斬らされる悲劇の武将の話である。伊藤作品は反抗や挫折、そして破滅へと向かう滅びの美学を熱く熱く語るものが多い。この作品もまさにその集大成といった構成であった。そのラストシーン、信康が切腹の座に着く前に血を吐く思いで家臣に伝える台詞。


信康「徳姫に伝えい!由も無き成り行きであった...が、女のこと故責めはせぬ。愛していたとな! 」...


 白熱の演技の果て、「カット!」...監督の裂帛の声が響く。俳優、スタッフが一斉に監督を見る。なんと、監督の両眼から泪がこぼれ落ちている。演じる人ではなく演じさせる人が、ここ迄悲劇を実感しておられる。その事に私は深い感動を覚えた。そしてこの後、幾度となく同じ体験をしたものだ。1カット、1カット、熱い熱い眼と心で映像を作り上げて行かれたのだ。


 伊藤大輔監督は「イドウダイスキ」と渾名される程、カメラ移動のショットが多い。横移動だけではない。縦、円形、クレーン、と実によく動く。その訳を尋ねた事がある。「スピード感、躍動感、そして緊張感...色々な要素が強調できる。でもそうしたカメラテクニックの応用だけではないよ。私の心の疾走だよ」...そう答えて下さった。私の古いメモ帳にそう記している。「心の疾走」とは何だろう?...伊藤監督の終生変わらぬ感性、不当な強権力への強い抵抗、怒り、弱い人間への限りない愛、そうした諸々の積もり積もった感情の爆発!...それが「イドウダイスキなのだ」と、舌足らずにも判ったような事を記している。とは云え、未熟な助監督の私にとってどれ程大きな示唆となった事か。自らに厳しく、そして熱い手で創り上げる激情がどれ程刺激的だった事か。


 仕事を離れた場で、例えば御室仁和寺近くの伊藤邸で、朝子夫人の手料理をご馳走になりながらの「王将」の撮影回顧談。和歌山県白浜温泉で、手足の神経痛の治療をしながらの「源氏九郎颯爽記・秘剣揚羽の蝶」のシナリオ執筆に随伴、長期滞在した時にフト洩らされた昔語りの数々...鮮烈な驚きが幾度となくあったものだ。紙数が尽きるので一つだけ映画と関わりのない話を記しておこう。


 私が広島出身と知ってこう云われた。「私もね、若い頃に広島県の呉市で暮らした事があるんだよ」...「えっ、呉市で?」...「そう、呉海軍工廠というのを知っているかね。あそこで働いていたんだよ」...「あの戦艦大和を造った海軍工廠ですか?」...「大和が出来たのはずっと後だがね。私がおったのは大正の中頃だ」...「でも、軍艦を造る海軍工廠と映画監督と、どう繋がるのですか?」...「(笑って)......」


 何も答えられなかった。実は若き社会主義者として、労働組合結成の為に密かに潜り込まれたと知ったのは遥か後年の事である。その呉市に現在私が住んでいるのは全くの偶然でしかないのだが...


 ともあれ、当時の日本海軍の一大拠点の真っ只中へ組合運動の為に乗り込むという事は、命を賭しての覚悟が要る。燃えたぎる熱い志が要る。その熱き心が撮影現場においても激情となって頬を濡らす熱き泪となる。熱き腕が天を衝いて大音声となる。


 伊藤監督が「熱眼熱手の人」と謂われた明快な由縁が此処にある。それは座右の銘でもあったが故に、没後三回忌に有志によって追悼碑が建てられた。ご自分で設計、建立されたお墓には、平成18年8月に亡くなられた朝子夫人が共に眠っておられるが、その入り口に建つ追懐碑には鮮やかな自筆で、「熱眼熱手 大輔」と刻まれている。まさにこの墓碑銘通りの映画造りを終生貫かれた大監督であった。